1998年6月2週号 通算第573号

言葉の森新聞

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  貸出図書の返却は6月10日までに(再度の連絡)

 5月20日ごろまでに教室に在籍していて、すでに前の学期の貸出図書の返却が済んでいる生徒には、2〜3冊の貸出図書が渡されていると思います。この貸出図書の返却期限は、6月10日です。通信の生徒には、返却用封筒が教材と一緒に送られていると思いますので、その返却用封筒に図書を入れて、そのままポストに投函してください。

  自習に力を入れよう

 作文力は読書力によって支えられています。ですから、文章表現力を上達させるには、自習をすることが欠かせません。週一回、教室で作文を書くだけでは、構成力や字数力は伸びますが、肝心の表現力や題材力や主題力は伸びません。作文は、書くことによって上達するだけでなく、読むことによって上達する面があるからです。

 小学生の低学年で、「わ」と「は」の区別をまちがえるような子はかなりたくさんいますが、それを直すときに、理屈で「こっちが『くっつきのは』で、こっちが『ふつうのわ』だよ」と説明するだけでは不十分です。そういう子供たちは、ただ「わとはの区別がわからない」というような単なる知識の欠落としてわからないのではなく、それまでの総合的な読書力が足りない結果としてわからないのです。したがって「足し算や引き算がわからない」というようなことと「わとはの区別がわからない」ということとは、同じ「わからない」でありながら、その背景には大きな開きがあります。

 同じことは高校生以上の人についても言えます。「社会的な実例が書けない」というのは、書こうとする努力が足りないからではなく、材料が足りないからです。それを週一回の作文の勉強のときにいくらがんばっても材料が出てくるわけではありません。日常の読書の中から材料をたくわえておかなければいざというときに使えないのです。

 毎日の自習で、漢字書き取り、短文筆写、長文音読、読書数十ページをすることによって、基礎的な力ができてきます。この自習をすることが作文力を上達させる第一の条件です。全部やるのが大変な場合は、長文の音読だけでも毎日やっていきましょう。

 ときどき、「今週は自習をするのをわすれちゃったから、今日、一週間分やってきた」(おいおい)という人がいます。これは、やる気は認めますが、よくありません。実力というものは、間隔をおいてやることによってついてくるからです。今日、一週間分の歯磨きをしておいたからあとはしなくてよい、という人はいません。知識や技術の定着も同じです。短期間で身につけたものは短期間で消滅し、長期間で身につけたものは長期間持続します。問題は量ではなく期間です。

 1日で50分やるよりも、1日10分を5日間やるほうがずっと力はつきます。これは、生物に共通する特徴です。人間がロボットのような機械であれば、1日50分と、1日10分を5日とは、同じものです。生物はそうではありません。生物は、短期間集中して起こる出来事については短期間のシステムを使って対応し、長期間継続して起こるできごとについては長期間のシステムを使って対応します。勉強をするときには、この生物の長期間システムをうまく使うことが必要です。

 生徒の中には、毎日自習をきちんとやっているが、なかなか作文にそれが表れないという生徒もいます。これには、二つのことが考えられます。

 一つは、ものごとは六ヶ月以上継続しないとなかなか表面には表れないということです。これは生物の新陳代謝に関連のある特性です。だから、大学受験の勉強などでこの6月からがんばりだしても、その成果が出てくるのは12月ごろになると考えておくとよいでしょう。逆に言うと、今の自分の状況は半年前の自分の努力がかたちとなって表れているのだというふうにも言えます。勉強というものは、すぐやってすぐできるというインスタントラーメンのようなものではありません。病気と同じように健康や勉強にも成果が出るまでの潜伏期間が必ずあります。

 もう一つは、生物は段階的に成長するということです。同じように努力をしていても、どんどん伸びる時期と一向に伸びないように見える時期とが交互に訪れます。木の年輪や竹の節のように、停滞している期間は、次の成長の土台になっているのです。

 この潜伏期間と停滞期間に飽きずに努力を続けていくことが大切なのですが、実は人間はとても飽きやすい生物です。「よし、今日から自習をがんばるぞ」と思っても、二、三日たてばすぐに飽きてきます。この飽きを自覚して克服しようと思うようになるのは、年齢的には中学三年生以降です。(しかし、克服しようと思うだけで、克服できるようになるというのとはまた違います)。中三の自覚できる年齢に達するまでは、周囲にいるお母さんや先生が子供が飽きたつど、「自習をちゃんとやりなさい」と言わなければ自習を継続することはできません。よく「毎日のように口を酸っぱくして言わないと自習をやらないのです」とこぼすお母さんがいますが、それが普通です。一度言っただけで、あとはほうっておいても自分でやっていくというような子供がいたら、それは子供ではなくほとんど自動洗濯機です。人間は、飽きる力があるから創造する力もあるのです。この飽きる力をコントロールするというのが人間の人間たるゆえんです。

 

 

  読点の打ち方

 「、」(てん)が読点で、「。」(まる)が句点です。

 読点の打ち方にははっきりした決まりはありません。しかし、だいたいの目安のようなものはあります。

 昔は学校でこの「読点の打ち方」のようなものは教えていませんでした。したがって、今のお父さんやお母さんの世代の人は、「え、点の打ち方に決まりなんてあるのですか」と驚かれる人が多いようです。しかし、これは、決まりというほどはっきりしたものではありません。

 読点を打つ頻度は一種の呼吸のようなもので、呼吸の早い人はたくさん打つし呼吸の遅い人は少ししか打たないというところがあります。どちらか一方が正しいというわけではありません。だから、子供の作文で読点を打つ場所を直すときは、自分の呼吸で直すのではなく理屈で直すことが大切です。「このへんの点は要るけど、このへんは要らないなあ」という注意の仕方でなく、「この点は『を』のあとだから要らない。これは『は』のあとだから要る」というような注意の仕方です。もちろん例外やより細かいルールを説明すればきりがありませんが、勉強のスタートはできるだけ単純にしていくというのが原則です。

 国語の勉強には、このように正解が一義的に決まっているわけではないというものが数多くあります。読点と同じように、段落も、要約も、登場人物の心情も、正解と不正解の間にグレイなゾーンがかなりあります。だからこそ、国語の説明には小学生にもわかるような単純な理屈が必要になるのです。勉強が得意な人ほど、こういう単純な説明をせずに複雑に説明してしまうことがありますが、教育のコツは、「できるだけ単純に」です。

 読点の打ち方のおおまかな目安は、以下のとおりです。

(1)「は」のあと(主語のあと。しかし、「が」のあとは打たないことが多い)

  わたしは、ごはんをたべました。

(2)「そして」のあと(接続語のあと)

  そして、おかわりをしました。

(3)「かいわ」のまえ

  おかあさんが、

  「おいしい?」

  とききました。

(4)「と」と「いった」のあいだ(「と」と「いった」の間に言葉が入るときは打つ)

  わたしは、

  「おいしい。」

  といいました。

  「もうないの?」

  と、お母さんにいいました。

(5)「とき」のあと(「日曜日に」「八時半に」などのように、時を表わす言葉のあと)

  そのとき、お兄さんがかえってきました。

(6)「ので」のあと(「ので」「たら」「から」「ると」などのように、条件を表わす言葉のあと)

  わたしがたくさん食べたので、お兄さんの分はありませんでした。

(7)ひとつの「。」にひとつの「、」

  (1)から(6)のルールどおりに打つと、「てん」が多くなりすぎたり少なくなりすぎたりすることもあります。そのときは、「。」がひとつ来るまでに「、」をひとつかふたつ打つというふうに全体を調整します。

  6.2週のヒント

 小3・4年生 6.2週 「カタツムリや虫を見つけたこと」

 去年も同じテーマでしたが、「カタツムリなんていないよう」という生徒が多かったようです。お父さんと近くの神社などに行ってカタツムリを探してみましょう。(カタツムリはなぜか古い建物の石垣などにいます)。カタツムリを水槽などに入れて飼うと楽しいと思います(でも、水を入れるのではなく、土を入れてね)。カタツムリにニンジンを食べさせるとオレンジ色のフンをします。ときどき霧吹きで水気を与えてやると長生きして、そのうち、土の中に卵を産みます。カタツムリは殻が右巻きのものがほとんどですが、中に一種類だけ殻が左巻きのヒダリマキマイマイというのがいます。見つかるといいですね。

 小5・6年生 6.2週 「『ある日、五つに』を読んで(感)」

 きれいに印刷された体裁がよいだけものよりも、心のこもった手紙の方に価値がある、という話です。よく出てくる例で、年賀状。会社などから来る年賀状はカラーできれいに印刷されていますが、もらっても別にうれしくもなんともありません。義理で出していることがわかるからです。しかし、友達から来た年賀状は、鉛筆書きでときどき字をまちがえていたりしても、もらったときにうれしい気持ちがわいてくるでしょう。そういう例を思い出して書いてみましょう。感想は、「手紙とは……」というかたちで考えてみましょう。

 ことわざは、「136、山高きが故に貴からず」「69、人生意気に感ず」など。外見よりも中身という意味のことわざはほかにもありそうですね。

 

 

 中学生 6.2週 「『今日の都市生活』を読んで(感)」

 説明文なので、そのまま意見化することができない長文です。自分なりに身近な似た例にあてはめて意見を考えていきましょう。いろいろな考え方ができると思いますが、行列には身分や地位に関係なくみんなが平等に参加できるというプラスの面があるとともに、個人の創意や主体性を無視する不自由さもあるというところで意見が書けそうです。信号機なども同じ面があり、身分や地位に関係なくだれでも赤信号では止まらなければなりません(救急車などは例外)。しかし、車が一台も通っていないときに、わずか数メートルの幅の道路を、赤信号で止まっているというのも何か居心地の悪い感じがするでしょう。秩序を守ることの大切さというところで意見が書けるかな。

 名言は、行列がいちばん民主的に見えるが行列に並ぶ人はだれひとり決して満足していないという意味で、「36、すべてに効くという薬は、何にも、大して効かない」。場合によっては行列の秩序よりもその場に合ったやり方を臨機応変に使おうということで「48、できあがった規則をなんとか守ろうとすることよりも、実態に合わせて規則を変えていくことがしんに規則を生かす道である」。行列に並ぶと個々人の個性は失われるという意味で「62、人はその制服のとおりの人間になる」など。

 高校生 6.2週 「『人間以外の動物』を読んで(感)」

 人間は、文化=記号=言葉によって混沌とした世界に秩序を与えるという話です。だから逆に文化の中に組み入れられていない周辺部については、禁忌感情が働くと述べられています。これを現代の社会の問題として考えてみましょう。ある一つの文化に属することで世界の見方に枠組みを与えられ、異なる文化の見方を許容できなくなるというようなところが問題点として考えられそうです。いつも同じ黒髪、肌色の日本人を見ていると、肌の色が違ったり髪の色が違ったりする人を見るとき、一種の忌避感情が働きます。「おまえ、茶髪なんてやめろよなあ」という具合に。身近な例を通して考えてみましょう。

  来週6.3週は……

 小3・4年生 6.3週 「『けがのこうみょう』を読んで」

 失敗したと思っていたら、それがかえっていい結果につながったという例をさがしてみましょう。4年生の人は、ある程度、過去の出来事を思い出して書く力がついていますが、3年生の人にはまだ過去を思い出す力があまりありません。おうちの方が「ほら、むかし、こんなことがあったでしょ」と話してくださるとよいと思います。例としては、学校にかさをおきわすれてきたが次の日学校に行ったら帰りに雨がふってきたので「昨日、かさをわすれておいてよかったなあ」というようなことが考えられます。けがをしてどこにも遊びに行けなくなったので、お母さんがゲームを買ってきてくれた、というような話もありそうです。いろいろ思い出してみましょう。

 小5・6年生 6.3週 「『数年前の』を読んで(感)」

 鈴木孝夫さんの「ことばと文化」は岩波新書で出ています。鈴木孝夫さんは日本語に関する独創的な思想や提案を述べていますので、将来、機会があればぜひ読んでください。いい文章は、たとえ難しくても子供にもわかるようです。長文集は全部で8ページありますが、好きなものを読むとなると、やはり優れた内容の長文にしぼられてきます。この長文はその優れた文章の一つです。

 和食のレストランと洋食のレストランでは、料理の出され方がちがいます。和食ではまとめてどさっと空間的に料理が出てきますが、洋食では最初はスープ、次はパン、次はギョウザで、最後はラーメン(おいおい、それは洋食じゃないって)という具合に時間的に料理が出てきます。

 社会の勉強の好きな人なら、インドでは牛肉のすき焼きなど食べられないということや、イスラム圏では、豚肉の焼き肉パーティーなどできないということを知っているでしょう。

 日本人のよく使う「すみません」や「はい」も、そのまま英語で「アイム ソーリー」や「イエス」とやってしまっては、かえって誤解されてしまいます。

 文化の違いによって、同じ事柄が異なった価値のもとに位置づけられてしまうという例をさがしてみましょう。日曜日にお父さんやお母さんと話し合ってみるといいかもしれませんね。

 中学生 6.3週 「『方言で』を読んで」

 言葉は時代によって変わるという話です。今どき、学校に下駄をはいてくるような人はいませんが(いたら、かなり危ない)、学校ではときどき「下駄箱にちゃんと靴を入れて」などと言うことがあります。言葉の森の教室でも、先生が「さあ、みんな黒板を見て」と言うと、「先生、ホワイトボードでしょ」とちゃかす人がいつもいます。

 実態からかけ離れた言葉を使い続けるのも問題ですが、実態が変わったからといってすぐに言葉の方も変えるというのも問題です。これは、ことばにかぎらず、いろいろな規則や習慣にもあてはまりそうです。

 名言は、「40、存在するものには、良いとか悪いとかを言う前に、すべてそれなりの理由がある」。「48、できあがった規則をなんとか守ろうとすることよりも、実態に合わせて規則を変えていくことがしんに規則を生かす道である」など。

 高校生 6.3週 「『誰かがいつか』を読んで(感)」

 肉体と神経の乖離というのが長文の主題です。今日の社会では、高速道路を時速百キロで鼻歌交じりに運転してみたり、居間でくつろいで世界のニュースを眺めたり、というような肉体と神経が一致しない場面が数多くあります。これを今日の問題として考えてみましょう。

 

 

  光る表現

慎一郎さん(しい/小1)の作文より(真弥先生/月日527)

 つちがたねのおふとんだから、そっと、てでパラパラとおとしてあげました。

紗由美さん(ああも/小3)の作文より(ひかり先生/月日520)

 その速さは、まるでチ−タ−のようでした。みんなはしし戸君が急に走り出したので「キャア−、たすけて−」といっていました。(評)しし戸君がどんなに早いかよく分る上手なたとえです。たのしそうな氷おにごっこの様子が手に取るようにつたわってきます。

まささん(あうこ/小3)の作文より(みち先生/月日516)

 (チョウのたまごをとってきて育てた)きろくしてすんでにがすときに、手をふりました。元気でいてほしいなと思いました。評、手塩にかけてそだてたチョウとのわかれのとき感動の場面が浮かんできます。

ミュウさん(あおえ/小3)の作文より(めもま先生/月日518)

 「きがつくとわたしは、もう田んぼの中にいます。わたしは、まるでそこなしぬまにいるような気がしました。やっとのことで、ぬけられました。これが、ながぐつじゃなく、くつだったらどうしようもありません。わたしは前、ここでながぐつを落として、げすいどうのところまでながされたことがありました。それも、急ぐあまりにおとしてしまったのです。」(急がばまわれ!!大変だったね。)

ポルシェさん(あおと/小3)の作文より(とも先生/月日528)

 もうひとつのいそがばまわれは、駅のかいさつ口です。こんでるかいさつ口でもみくしゃになっていくより、少しはなれた所にある、りんじかいさつ口からいく方が、すいていて、すぐにホームへいけます。…評:「急がば回れ」のことわざの通りだね!

香織さん(ねは/小3)の作文より(ひかり先生/月日520)

 もし私だったら、「渡し舟と橋を歩いてわたるのとどっちにする?」と聞かれたら橋を歩いてわたります。なぜかというと船は、その日風が吹いてなかなか大津に行けずそしてけがをして、こうかいするからです。 (評)もし自分だったら———と香織ちゃんらしい考えをしっかりいれて感想を書く事が出来ました。

友紀さん(あおる/小4)の作文より(とも先生/月日526)

 「命と金とどっちのほうが大切。」ときかれたら、命のほうが大切でしょ。なのになんで金のためにミイラとりにいくんでしょう。しっぱいすると、命にかかわることですから、私はミイラとりの人になんかはなりたくないです。それににたじけんでもこまりますね。…評:とてもすなおな、でも本当にもっともな疑問です。「にたじけん」はあちこちでおこってますね。お金のために他の人の命までうばってしまう人がいるのは、かなしいことですね。

じゅんさん(とぬ/小4)の作文より(ひかり先生/月日520)

 「あっいない!カメがいないぞ」朝おきて水槽をみたら、カメがいませんでした。(評)いきなり会話文からの書き出しは、読み手に「いったいどうしたんだろう」と興味を引き起こさせる書き出しです

たかどんさん(ふさ/小4)の作文より(もとばと先生/月日528)

 (かめの)こぜにはえさがほしいとき首をのばして上をみつめていうごかないときです、まるでうえをむいたかめのどうぞうのようです。そしてうちにはカタツムリも飼っています。もくはカタツムリをみていると体がだるくなってきます。「のろいなあ」とぼくは言います。それでもなぜかカタツムリをみてしまいます。自分でもどうしてかわかりません。評:飼っている動物をよく観察していますね。

拓馬さん(ねき/中1)の作文より(ミルクティ先生/月日527)

 詩的な言葉とは、「思考」というボ−ルをふくらませる空気入れのようなものである。(評)気のきいたたとえですね。

DONALUDOさん(ああむ/中2)の作文より(ミルクティ先生/月日529)

 『言葉の意味』"詩の言葉"がつかわれているものは、詩の他に音楽などもあるが俳句から考えてみた。俳句は決められた語数で気持ちを表さなければならないので、読みとるのがむずかしい時もある。でも"かなしい"とか"すばらしい"などという感情が読みとれるのは"詩の言葉"の力だろう。評:詩の言葉の実例として、詩そのものではなく、俳句という例を出したところに個性が光りますね。

アッポさん(うえ/中2)の作文より(スズラン先生/月日526)

 詩は、作者が何をいいたいのか、と、考えているうちに、文が解けてくるのだ。・・中略・・詩の言葉には、かめばかむほど味が出るという魅力があるのではないだろうか。評:詩の言葉は、気持ちの中に深く入ってくるものが多いということを感じる表現ですね。