しかし「辞書のような人間になることではなく、辞書をうまく使えるような人間になることが勉強の目的である。」という名言があるように、私は専門的な知識に限らず様々なことを身につけていきたいと思う。 (95字)
現代では学術研究の場においてだけでなく企業活動の場においても専門化が進んでいます。それだけに専門バカの時代となる危険性も大いに孕んでいるのです。専門家は自分の専門とする事柄についてはよく知っていてもそれ以外の事柄については無知だということになります。ところが自分の専門外の事柄についてある程度理解することができ思慮分別を伴った言論を展開できる人たちがいるのです。そういった言論の基盤となるのは、専門的な知識や技術ではなく常識は一般的教養なのです。知識は専門的知識ほど正確ではありませんが専門的な事柄に関する常識というのは非専門家にも分かりやすく通俗化されることによって形成されるのです。知識は言動の大きな基盤ですが、知恵を伴う言論ということになると教養が基盤となるでしょう。教養というのはその道の専門家になるための技術として学ばれるのではなくいっこの素人としての自由児にふさわしいものとして学ばれるものだということが注目されます。
私は専門的な知識だけではなく、幅広い知識を身につけた人間になりたいと思う。
1つ目の方法としては自分中心になるような分野だけでなく、他の分野にも目を向けることが挙げられる。社会には数多くの分野が存在する。それは勉強に限られたことではなく、娯楽に値するものであったりと種類は様々である。その環境に生きている上で、一つに熱心になることも大切だが、選択肢を最大限に活用することも大切なことであると思う。例えば、私は読書が長年趣味だった。その中である一定の分野のみ熟読していた頃は私の知識面で偏りがあった。自分の関心事は何時間も話せるのだが、他人の話を発展させようとすると知識の限度に狭まれて、ある程度の限界が存在した。私も色々な事に興味を示す大切さを気がついたのは最近だが、興味範囲を広げることは人生の発展する道筋を増やすことにも繋がり、相互関係においても自分の未来においても利益をもたらすのである。自分の興味を定めて追求するのもいいかもしれないが、幅広く様々なことに目を傾けることも大事なのである。
2つ目の方法は今の社会が更に教養の価値を認めることである。私がイギリスに来て驚いた内の一つに勉強の方法がある。イギリスでは受験は一年前から本格的に対策に入る。少なくとも私の学校では普段の授業内に勉強をする意味を追求する時間が存在したりと意味もなく勉強をする生徒を作り出さない努力をしている。それに比べ日本では受験が存在し、最低三年以上生徒達はがむしゃらに勉強に励んでいるのが現状だと思う。それを完全に否定するわけではないのだが、この世の勉強法は学問面においては満ちているかもしれないが、人としてのバランスを維持する能力は欠けているであろう。知識は豊富だがそこから養われる心の豊かさなどは存在しないだろう。一つの事だけに視点を置くのではなく、未来のことも考慮することで教養の価値も認められ、人々の知識範囲も広がることに繋がると思う。
確かに、一つのことに専念し、深く追求していくことも大切である。しかし「辞書のような人間になることではなく、辞書をうまく使えるような人間になることが勉強の目的である。」という名言があるように、私は専門的な知識に限らず様々なことを身につけていきたいと思う。偏りを感じさせられず、専門家でも雑談を含めることにより学問においても人間的な魅力を同時に感じられるようになるのではないか。そのような人間は結果人生の味わいも深くなるのだと思う。
>>
後半1200字のみ表示にする