これは、大人の卑小な「現実」を乗り越えさせ、新しい精神の世界を生み出す基礎能力となるのだから、大人はなるべくこの芽をつんでしまわないように、むしろ子どもから学ぶように心したいものだ。 (91字)
ごっこ遊びもさかんだが、ボール遊びもさかんになる。小学校の上級になるほどチームを組んで、ルールを守るという本格的なゲームのかたちをとるようになる。そして、段々とルールの受け取り方が変わっていき、最終的には、ルールはみんなでつくったものだ、ということがわかってくる。ゲームとは、一種のあそびでも、社会的ルールを守ることは、子供の社会性を育てる。子供の多くは詩人的素質を示すのも、彼らの新鮮な感受性と、奔放な空想力が発達するかれあろう。これは、大人の卑小な「現実」を乗り越えさせ、新しい精神の世界を生み出す基礎能力となるのだから、大人はなるべくこの芽をつんでしまわないように、むしろ子どもから学ぶように心したいものだ。こうした面を発達させるために、学校の国語教育や作文の授業はきわめて大切だといえる。
第一の意見として、「子ども時代の遊びというのは大切だ」という意見だ。私はイギリスに小学二年生から小学五年生の最後までの五年間住んでいた。イギリスに行く前、私は鬼ごっこやドッチボールといった、子供が外で遊ぶ定番の遊びを友達と日が暮れるまでやっていた、比較的活発な少年だった。そのため、今中学生になった今、足もある程度速く、反射神経がよい方だ。私はいま部活として陸上をやっていて、鬼ごっごの大変さを実感している。私たちも練習でときどき鬼ごっこはやっている。鬼ごっこは気づいていないうちに何キロも走っていることがある。そのため、今は「やろう」といわれたら少し嫌悪感をおぼえてしまう。そして、ドッチボールでも近年効果が実感できるものがある。私が子供のころは、毎日ドッチボールをしていたため、時々飽きがきてしまっていた。そのとき、大会方式にして各自戦術を考えて戦ったり、ルールをガラッと変えて、「ワンバウンスもあり」というルールを作ったりしていた。私はイギリスに移住して、このドッチボールをやっていたことにより身についた力を実感した。イギリスではラグビーがとても人気で、体育の授業でもラグビーをするほどだ。私はラグビーをやったことはなかったが、スポーツが好きだったため、毎日練習し、学校の一軍のラグビーチームに入り、司令塔になっていた。この司令塔になることになれた理由が、ドッチボールだ。ドッチボールのときに考えていた、戦術やルールを変えるという行為が、まずルールを深く理解し、できることを思いつくほどだしていき、理想的な戦術をたくさん作ることができた。そして、全国大会でベストエイトになれた。このように、子ども時代にやる遊びによって得られるものは多い。
しかし、第二の意見として、「勉強するのも大切」という意見だ。私がイギリスに行くまえは英語にほとんど触れず生きてきた。確かに、アルファベットは知っていたが、それだけだった。そのため、イギリスにいたころはとにかく、言葉の壁というのがとても厚かった。私は正直、「英語ぐらい」というように、英語はすぐ身につくものだと思ってしまっていた。日本で習う英語は主に文法を習うが、実際に話したりするときには文法を気にしていたら面倒くさいと思われて終わってしまう。実際の人たちは誰も「ハウアーユー」「アイムファインセンキュー」なんていう定番の会話をする人は、私は会ったことがない。とはいえ、そのときの私はその定番の会話しかすることができなかった。しかし、先生のなかに、一人だけ日本人の先生がおり、私は遊ぶことがだいすきだったが、昼休みも放課後も削り先生に英語を教えてもらっていた。そうすると、英語が自然と話せるようになった。そうすると私は言葉が話せるようになり、私はドッチボールの経験を活かし始めることができた。そして、ラグビーの戦術やルールの深い理解というのができるようになった。これにより、私は作戦を伝え、司令塔の役目を任されるようになった。このようなことは小説家と一緒だと私は考えている。例えば、頭の中で、ストーリーができたとする。しかし、それを具現化できないと、なにも意味がなくなってしまう。どれだけ、芥川賞やノーベル文学賞をとれるような作品でも、具現化できないとなにも意味がなくなってしまう。戦術も「これは最高傑作、プロでも止められない」というものでも、チームに伝えるまでは意味がない。このように、勉強するのも大切だと私は考える。
確かに、子供は遊ぶことも勉強することも大切だ。しかし、「子供は大人を小さくしたものではなく、それ独自の価値を持っている」という名言もあるように、一番大切なのは、子供時代にしかできないことをたっぷりしていくことだと考える。私もあと少しの子供時代に全力を尽くして生きていきたい。
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