相手に対してしっかりと叱ったにも関わらず、自分がきちんとできていなければ、叱られた側も馬鹿々々しくなってしまうし、また、そもそもしっかりとしていない人に対してしっかりと叱ろうとする人はいないからだ。 (99字)
叱るという事と怒るという事は違う。叱るということは相手を思って誠実な批判をすることであるが、怒るということは、自分の考え方や苛立ちを力任せに相手に押し付けるということだ。つまり、自分が納得のいくことで叱られれば、きちんと改めようと思うから、その人のためになる。一方で、無意味にただ怒られれば、怒られる側も何も改めようと思えず、むしろ腹が立ってしまう。。私は、中学校の頃の部活の先輩に審判のやり方について指摘されたことがある。特に大声で叫ばれたりすることなく、アドバイスのような形で、自分も納得し、さらにそのことを一年後には自分の後輩に教えることができて、これはとても良かったと思う。一方、高校に入った時、何日か学校に遅刻しそうになってしまったことがあった。きちんとチャイム着席はできているし、他にも私よりもに遅くに来る人はいたので、担任の先生には何も言われなかった。しかし、私とあまり合わない別の先生がその事に対して、私にだけ怒鳴りつけてきた。これは私も何も得たものは無いと思ったし、嫌味のようにも感じ取れた。このように叱るという事と怒るということでは、する側もされる側も気持ちが異なる。だから私は叱るべきところはしっかりとしかるべきだと思う。
そのための第一の方法として、自分自身もしっかりと生きていくことだ。きちんと相手を思って叱るためにも、自分を思われて叱られるためにも、まずは自分がきちんとしていければならない。相手に対してしっかりと叱ったにも関わらず、自分がきちんとできていなければ、叱られた側も馬鹿々々しくなってしまうし、また、そもそもしっかりとしていない人に対してしっかりと叱ろうとする人はいないからだ。私の高校の校則はとても厳しく、ネットの口コミで書かれたり、他の高校に進学した私の中学校の友達に驚かれるほどだ。服装、上下関係、その他外部のルールでもバイト禁止など、とても自由とは言えないと思う。しかし、そこまで厳しくしている分、きちんとしているところは多いと思う。進路も大学の付属校で学部も多いので多くの生徒がきちんと望みの学部に入れるし、部活もアジア大会に行く部活もありに日本有数だと思う。厳しくする側もしっかり、自分もしっかりすれば、後についてくるものも大きい。
また、第二の方法として、子供に対してしっかりと叱ることだ。子供をしっかりと叱ることで、その子供はしっかりとして、しっかりと相手を叱ることのできる人に育つだろう。私の友達に4人兄弟の真ん中で、その母がとても厳しい人がいる。その人は文武両道はもちろん、まわりに対してもとてもしっかりとした人である。また、その人の姉は、私のクラブチームの先輩であったが、とても優しく、一生懸命練習していて、また、人に教えることも上手な人であった。また、進学に対しても、まで全員が高校生になったというわけではないが、高校に入った人は兄弟全員県内公立高のトップの湘南高校に進学している。小学生の頃からしっかりしていて、今もしっかりしているので、きっと大人になっても今のように、とてもしっかりした人になると思う。江戸時代の武士の子の学校、藩校も生徒たちはとても厳しく叱られていたようだ。特に作法や礼儀に対してはとても厳しく、その結果歴史に名を残すような偉大な人物が育ったのだと思う。子供に対してきちんと叱り、しっかりと育てれば、その分、しかっかりとした人に育つのだ。
確かにいくら厳しく叱っても暴力を振るってはいけない。しかし、本当に叱るという事は、自分の力を武器にするのではなく、相手に対しての想いからくるものである。暴力を振るったり、大声を上げたりするような力を武器にするものは、起こるという事であり、相手の心の変化もない。しかし、相手のことを想って指摘をすれば、相手の心にも残るはずだし、良い別のものが生まれるはずだ。だから、私はきちんと叱ることは大切だと思う。
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