授業の渚 me-03-2


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 カエルが飛び込んでいる光景を見た芭蕉は、「古池や蛙飛び込む……」という歌を作りました。
 日本人には、この感覚がわかります。「ああ、そういう情景なんだなあ。しみじみ」という感じです。
 ところが欧米のひとにこの歌を説明すると、「それは、どこの池ですか。どれぐらい古いのですか。何というカエルですか。なぜそういう歌を作ったのですか」などとたぶん聞くのではないでしょうか。
 つまり、理屈で全部説明されないとわからないというのが欧米の論理、それに対して感覚だけでわかった気になるというのが日本の論理です。
 もし、欧米の人たちに合わせてこの俳句を書き直し、「平成○年○月○にち、○○の池で、一匹のトノサマガエルがとびこみました。それは○時○分のころのことでした。」などと書くと、かえってこの俳句の味は感じられなくなります。そういう説明を「野暮ねえ」と思うのが日本人の感覚です。
 料理でも同じです。欧米の料理はこってりしています。それに対して日本の料理はあっさりしています。話すときでも、欧米の人は、シェークスピアの劇に見られるようによく喋ります。日本人の言い方は、簡潔です。「目で物を言う」「腹で理解する」という言い方、聞き方です。
 第一段落は、要約と意見です。意見は、「日本人の感覚のように、あっさりとした淡白な見方を大事にしたらいいのではないか」ということにするといいでしょう。
 理由1は、「あっさりした感覚を理解しようとすると、相手への共感が必要になる」というようなことです。家族でも、あまりたくさんのことを話す必要はありません。「あれとって」と言えば、すぐに「ああ、あれね」で通じます。それが居心地のいい社会です。
 理由2は、「目で言う、腹でわかるという社会では、感受性が研ぎ澄まされてくる」ということです。こってり説明しなければわからないという社会では、繊細な感受性は必要ありません。日本のように淡白な社会でこそ、豊かな感受性は育つということです。
 反対理解は、次のようになります。「確かに、現在の国際社会では、文化の違う相手に対して理屈でじっくり説明することが必要なときもあるが、しかし、私たちは日本人の淡白な感覚をもっと大事にしていきたい。」