(母親に死なれた「私」は、近くの魚屋によく遊びに行っていた。ある時、魚屋の青年にコジッケという鳥を捕りに行こうと誘われた。行ってみると、そこにはコジュケイという鳥の親鳥とひながいた。青年はさっそくコジュケイを捕りにかかった。)
彼(魚屋の青年)は親鳥を追いまわしているさいちゅうである。
ところがどうしたことだろう。その親鳥はけがをしているらしく、つばさをバタバタとあおぎながら地面をのたうっている。
それも、手をのばせばつかまりそうなところをあやうくはばたきながら、坂道へ坂道へと逃げてゆく。
そのあわれな姿にひきかえ、ゴム長ぐつをブカブカ鳴らしながら、へっぴり腰で追いすがってゆく青年の姿はこっけいだった。私は『ジャックと豆の木』にでてくる大男が、雲の上を逃げるジャックを追いかけてゆくあの姿を思いうかべた。
が、やがて一人と一羽が坂道のまぎわまできたとき、思いがけないことが起こった。
バサバサバサッ。はげしい羽音がしたかと思うと、ひん死の鳥が勢いよく地面から飛びたったのである。
そして、あっけにとられている若者の頭上をちょんぎって、それきり小ぐらい屋敷のしげみに消えてしまった。
それは鳥が敵をひなから遠ざけるためによく使う「疑傷」という手段だった。童話のとおり、ジャックはつばさという、「おの」で、みごとに大男との世界をたち切ってしまったのである。
魚屋はキツネにつままれたようにあんぐりと口をあけて立ちすくんでいる。
が、しばらくするとくるりとこちらにむきなおり、もう気がぬけたように、私のことも、石の下のひなのこともほったらかしてさっさと帰ってしまった。
私は胸をなでおろした。
だがそれは、小さなものに対する人間らしい思いやりなどというものとも、すこしちがっていた。
私はただ、鳥の母子が自分たちの手でちりぢりにされてしまうのを見ていられなかったのだ。
私の母の命をうばっていったものが、どんな世界のどんな力だったのか私にはわからない。だが、すくなくとも自分がその運命の手のようなものになってほかの生命をおびやかしたり、家庭をこわしたりすることだけはできなかった。
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