a 読解マラソン集 9番 私たち脳の研究者は na3
 わたしたちのうの研究者は記憶きおくの研究材料として「ネズミ」をよく使います。記憶きおく力がもっとも優れすぐ ている動物は人間ですから、なぜ人間を使わないのかという疑問ぎもんをもつ読者もいるかもしれませんが、ネズミを使って実験するほうが好都合な部分もあるのです。たとえば、人とくらべてネズミのほうが純粋じゅんすい記憶きおくをしてくれるということが挙げられます。ネズミの記憶きおくのほとんどが本能ほんのうに根ざしたものですから、人間のように「今日はだるいな」「面倒くさいめんどう   な」「早く終わらないかな」などということで記憶きおく力が左右されません。昨日は覚えたけど今日はだめだとか、このネズミは覚えるけど別のネズミはだめ、などという「気まぐれ」や「ばらつき」が少ないのです。「記憶きおく」という抽象ちゅうしょう的でとらえにくい対象を研究する場合、実験の妨げさまた となる目に見えない要因よういんが少ないということは、とても大切なことです。こうした理由で、わたしの研究室でも主にネズミを使用しています。
 ネズミを使ったオペラント条件じょうけんづけの方法を図15(省略しょうりゃく)に示ししめ ました。これはスキナー箱とよばれる装置そうちです。この箱の中では、ブザー音が鳴ったときにレバーが押さお れるとえさが出てくる仕組みになっています。簡単かんたんなテストなのですが、第一章で説明した水迷路めいろ試験にくらべるとかなり高度な課題ですから、さすがに何回か訓練を積まないと学習できません。そして、この箱に入れられたネズミがどのように学習していくかを観察していると、とてもおもしろい事実が見えてきます。
 当然、ネズミにとってスキナー箱は生まれて初めて見るものです。目の前のレバーがなんの役割やくわりをしているのかは知りません。そもそも、レバーは押すお ものであるということさえも理解りかいしていないのです。しかも、突然とつぜんブザー音が鳴ったりします。まさに、戸惑うとまど ばかりの部屋です。そんなあるとき、偶然ぐうぜんにレバーが押さお れて、おいしいえさが出てきます。初めは単なる偶然ぐうぜんです。しかし、この偶然ぐうぜんが何回か続くと、「レバーを押すお こと」と「えさをもらえること」の
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因果いんが関係に気づきます。ここまでが学習の第一段階だんかいです。
 この段階だんかいまで到達とうたつすると、ネズミはえさ欲しほ さに、ひたすらレバーを押しお ます。しかし、レバーを押しお たからといって必ずしもえさにありつけるわけではありません。ブザーが鳴っていないときにレバーを押しお てもえさが出てこないからです。何度か失敗を繰りかえすく    うちに、ようやくこの事実に気づきます。そして、ついにブザーとレバーの因果いんが関係を理解りかいして、ネズミのオペラント学習が完成します。何十回、何百回という試行錯誤しこうさくご繰りかえしく    て、ネズミはこの課題を記憶きおくするのです。
 この過程かていでネズミは数多くの失敗をします。ああでもない、こうでもない、とさまざまな失敗をして、その結果、ブザーとレバーの関係に気づくのです。つまり、ひとつの成功を導きみちび だすために、多くの失敗が繰りかえさく    れるわけです。逆にぎゃく 、こうした数多くの失敗がなければ正しい記憶きおくはできません。つまり、記憶きおくとは「失敗」と「繰りかえしく    」によって形成され強化されるものなのです。
 これはコンピューターとはかなり異なりこと  ます。コンピューターは一回で完全に記憶きおくできます。しかも正解せいかいだけを完璧かんぺきに覚えるのです。のうではそうはいきません。正解せいかい導くみちび ためには試行錯誤しこうさくご絶対にぜったい 必要です。失敗をして、それを基礎きそとしてつぎに何をするかを考え、そしてまた失敗をして……という具合です。のう記憶きおくとは、いわば「消去法」のようなものです。これはちがう、あれはちがうと試行していくのです。
 つまり、覚えるということは「努力」と「根気」なのです。

(池谷裕二ゆうじ記憶きおく力を強くする」)
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a 読解マラソン集 10番 わたしは窓を開いて na3
 わたしはまどを開いて見ました。
「サワン! 大きな声で鳴くな」
 けれどサワンの悲鳴はやみませんでした。まどの外の木立はまだこずえにそれぞれ雨滴うてきをため、もしもみきに手をふれると、いく百ものつゆが一時に降りそそいふ    だでありましょう。けれど、すでによく晴れわたった月夜でありました。
 わたしは外に出て見ました。するとサワンは屋根のむねに出て、その長い首を空に高くさし伸べの て、かれとしてはできるかぎり大きな声で鳴いていたのです。かれが首をさし伸ばしの  ている方角の空には、夜ふけになって上る月のならわしとして、赤くよごれたいびつな月が出ていました。そうして、月の左手から右手の方向にむかって、夜空に高く三羽のがんが飛んでいるところでした。わたしは気がつきました。この三羽のがんとサワンは、空の高いところと屋根の上で、互いにたが  声に力をこめて鳴きかわしていたのです。サワンがたとえば声を三つに切って鳴くと、三羽のがんのいずれかが声を三つに切って鳴き、かれらは何かを話しあっていたのに違いちが ありません。察するところサワンは三羽の僚友りょうゆうたちにむかって、
「わたしをいっしょに連れて行ってくれ!」
 と叫んさけ でいたのでありましょう。
 わたしはサワンが逃げ出すに だ のを心配して、かれの鳴き声にことばをさしはさみました。
「サワン! 屋根から降りお てこい!」
 サワンの態度たいどはいつもとちがい、かれはわたしの言いつけを無視むしして、三羽のがんに鳴きすがるばかりです。わたしは口笛を吹いふ 呼んよ でみたり、両手で手招きてまね したりしていましたが、ついにたまらなくなって、ぼうぎれで庭木のえだをたたいてどならなければならなくなりました。
「サワン! おまえはそんな高いところへ登って、危険きけんだよ。早く降りお てこい。こら、おまえどうしても降りお てこないのか!」
 けれどサワンは、三羽の僚友りょうゆうたちの姿すがたと鳴き声がまったく消え
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去ってしまうまで、屋根の頂上ちょうじょうから降りよお  うとはしなかったのです。もしこのときのサワンのありさまをながめた人があったならば、おそらく次のような場面を心に描くえが ことができるでしょう遠い離れ島はな じま漂流ひょうりゅうした老人の哲学てつがく者が、十年ぶりにようやくおきを通りすがった船を見つけたときの有様を人々は屋根の上のサワンの姿すがたに見ることができたでしょう。
 サワンがふたたび屋根などに飛び上がらないようにするためには、かれの足をひもで結んで、ひもの一端いったんを柱にくくりつけておかなければならないはずでした。けれどわたしはそういう手荒てあらなことを遠慮えんりょしました。かれに対するわたしの愛着を裏切っうらぎ て、かれが遠いところに逃げに 去ろうとはまるで信じられなかったからです。わたしはかれのつばさの羽を、それ以上に短くすれば傷つくきず  ほど短く切っていたのです。あまりかれを苛酷かこく取り扱うと あつか ことをわたしは好みませんでした。
 ただわたしは翌日よくじつになってから、サワンをしかりつけただけでした。
「サワン! おまえ、逃げに たりなんかしないだろうな。そんな薄情はくじょうなことはよしてくれ」
 わたしはサワンに、かれが三日かかっても食べきれないほど多量のえさを与えあた ました。
 サワンは、屋根に登って必ずかんだかい声で鳴く習慣しゅうかんを覚えました。それは月の明るい夜にかぎり、そして夜ふけにかぎられていました。そういうとき、わたしはつくえにひじをついたまま、または夜ふけの寝床ねどこの中で、サワンの鳴き声に答えるところの夜空を行くがんの声に耳を傾けるかたむ  のでありました。その声というのは、よほど注意しなければ聞くことができないほど、そんなにかすかながんの遠音とおねです。それは聞きようによっては、夜ふけそれ自体が孤独こどくのためにうち負かされてもらす歎息たんそくかとも思われ、もしそうだとすればサワンは夜ふけの歎息たんそくと話をしていたわけでありましょう。
 その夜は、サワンがいつもよりさらにかんだかく鳴きました。ほ
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読解マラソン集 10番 わたしは窓を開いて のつづき

とんど号泣に近かったくらいです。けれどわたしは、かれが屋根に登ったときにかぎってわたしのいいつけを守らないことを知っていたので、外に出て見ようとはしませんでした。つくえの前にすわってみたり、早くかれの鳴き声がやんでくれればいいと願ったり、あすからはかれの羽を切らないことにして、出発の自由を与えあた てやらなくてはなるまいなどと考えたりしていたのです。そうしてわたしは寝床ねどこにはいってからも、たとえばものすごい風雨の音を聞くまいとする幼児ようじ眠るねむ ときのように、ふとんをひたいのところまでかぶって眠ろねむ うと努力しました。それゆえ、サワンの号泣はもはや聞えなくなりましたが、サワンが屋根の頂上ちょうじょうに立って空を仰いあお で鳴いている姿すがたは、わたしの心の中から消え去ろうとしませんでした。そこでわたしの想像そうぞうの中に現われあら  たサワンもかんだかく鳴き叫んさけ で、実際じっさいにわたしを困らこま せてしまったのでありました。
 わたしは決心しました。あすの朝になったら、サワンのつばさに羽の早く生じる薬を塗っぬ てやろう。新鮮しんせんな羽は、かれの好みのままの空高くへ、かれを飛び立たせるでしょう。万一にもわたしに古風な趣味しゅみがあるならば、わたしはかれの足にブリキの指輪をはめてやってもいい。そのブリキには、「サワンよ、月明の空を、高く楽しく飛べよ」ということばを小刀で彫りつけほ   てもいい。
 翌日よくじつ、わたしはサワンの姿すがたが見えないのに気がつきました。
「サワン、出てこい!」
 わたしは狼狽ろうばいしました。廊下ろうかの下にも屋根の上にも、どこにもいないのです。そしてトタンのひさしの上には一本の胸毛むなげが、あきらかにサワンの胸毛むなげであったのですが、トタンの継ぎ目つ めにささって朝の微風びふうにそよいでいます。わたしは急いで沼地ぬまち捜しさが に行きました。
 そこにはサワンはいないらしい気配でした。岸にはえているの高い草は、そのくきの先にすでにをつけて、わたしのかた帽子ぼうし綿毛わたげの種子が散りそそいだのであります。
「サワン、サワンいないか。いるならば、出てきてくれ! どうか
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頼むたの 、出てこい!」
 水底には植物の朽ちく た葉が沈んしず でいて、サワンは決してここにもいないことがわかりました。おそらくかれは、かれの僚友りょうゆうたちのつばさにかかえられ、かれの季節向きの旅行に出ていってしまったのでありましょう。

井伏いぶせ鱒二ますじ「屋根の上のサワン」)
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a 読解マラソン集 11番 まったくくまどもは na3
 まったくくまどもは小十郎じゅうろうの犬さえすきなようだった。
 けれどもくまもいろいろだから、気の烈しいはげ  やつならごうごうほえて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしふ    そうにしながら、小十郎じゅうろうのほうへ両手をだしてかかっていく。小十郎じゅうろうはぴったり落ちついて、をたてにして立ちながら、くまの月の輪をめがけてズドンとやるのだった。
 すると森までががあっと叫んさけ でくまはどたっとたおれ、赤黒い血をどくどく吐きは はなをくんくん鳴らして死んでしまうのだった。
 小十郎じゅうろう鉄砲てっぽうを木へたてかけて注意深くそばへ寄っよ てきて、こういうのだった。
「くま。おれはてまえをにくくて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえもたなけぁならねえ。ほかのつみのねえ仕事していんだが、畑はなし、木はおかみのものにきまったし、里へ出てもたれも相手にしねえ。仕方なしに猟師りょうしなんぞしるんだ。てめえもくまに生まれたが因果いんがなら、おれもこんな商売が因果いんがだ。やい。このつぎにはくまなんぞに生まれなよ。」※
 そのときは犬もすっかりしょげかえって目を細くしてすわっていた。
 何せこの犬ばかりは小十郎じゅうろうが四十の夏、うちじゅうみんな赤痢せきりにかかって、とうとう小十郎じゅうろうの息子とそのつまも死んだ中に、ぴんぴんして生きていたのだ。
 それから小十郎じゅうろうはふところからとぎすまされた小刀を出して、くまのあごのとこからむねからはらにかけて、皮をすうっとさいていくのだった。それからあとの景色はぼくは大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎じゅうろうが、まっ赤なくまのをせなかの木のひつに
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いれて、血で毛がぼとぼとふさになった毛皮を谷であらって、くるくるまるめ、せなかにしょって、自分もぐんなりしたふうで谷をくだって行くことだけはたしかなのだ。
 (中略ちゅうりゃく
 ところがこの豪儀ごうぎな小十郎じゅうろうが、まちへくまの皮とたんを売りに行くときのみじめさといったら、まったく気の毒だった。
 町のなかほどに大きな荒物屋あらものやがあって、ざるだの砂糖さとうだの砥石といしだの、金天狗てんぐやカメレオン印の煙草たばこだの、それからガラスのはえとりまでならべていたのだ。小十郎じゅうろうが山のように毛皮をしょって、そこのしきいを一足またぐと、店ではまたきたかというように、うすらわらっているのだった。店のつぎの間に大きな唐金からかね火鉢ひばちをだして、主人がどっかりすわっていた。
「だんなさん、せんころはどうもありがとうごあんした。」※
 あの山では主のような小十郎じゅうろうは、毛皮の荷物を横におろしてていねいにしきいたに手をついていうのだった。
「はあ、どうも、きょうはなんのご用です。」
「くまの皮また少し持ってきたます。」※
「くまの皮か。このまえのもまだあのまましまってあるし、きょうぁ、まんつ、いいます。」※
「だんなさん、そういわなぃでどうか買ってくんなさぃ。安くてもいいます。」※
「なんぼ安くてもいらなぃます。」※
 主人は落ちつきはらって、きせるをたんたんとてのひらへたたくのだ。
 あの豪気ごうぎな山のなかの主の小十郎じゅうろうは、こういわれるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。
 何せ小十郎じゅうろうのとこでは、山にはくりがあったし、うしろのまるで少しの畑からはひえがとれるのではあったが、米などは少しもできず、味噌みそもなかったから、九十になるとしよりと子どもばかりの七人家内にもって行く米は、ごくわずかずつでもいったのだ。
 里のほうのものならあさもつくったけれども、小十郎じゅうろうのとこではわずかふじつるで編むあ 入れ物のほかにぬのにするようなものはなんにもできなかったのだ。
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読解マラソン集 11番 まったくくまどもは のつづき


 小十郎じゅうろうはしばらくたってから、まるでしわがれたような声でいったもんだ。
「だんなさん、お願いだます。どうがなんぼでもいいはんて買ってくなぃ。」※
 小十郎じゅうろうはそういいながら改めておじぎさえしたもんだ。
 主人はだまってしばらくけむりを吐いは てから、顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくしていったもんだ。
「いいます。置いでおでれ。じゃ、平助、小十郎じゅうろうさんさ二円あげろじゃ。」※
 店の平助が大きな銀貨を四まい十郎じゅうろうの前へすわってだした。小十郎じゅうろうはそれを押しお いただくようにして、にかにかしながら受け取った。
 それから主人はこんどはだんだんきげんがよくなる。
「じゃ、おきの、小十郎じゅうろうさんさ一杯いっぱいあげろ。」
 小十郎じゅうろうはこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろはなす。小十郎じゅうろうはかしこまって山のもようや何か申しあげている。まもなく台所のほうからおぜんできたと知らせる。小十郎じゅうろうは半分辞退じたいするけれども、けっきょく台所のところへ引っぱられてって、またていねいなあいさつをしている。
 まもなく塩引のさけのさしみや、いかの切りこみなどと酒が一本黒い小さなぜんにのってくる。
 小十郎じゅうろうはちゃんとかしこまってそこへ腰かけこし  て、いかの切りこみを手の甲て こうにのせてべろりとなめたり、うやうやしく黄いろな酒を小さなちょこについだりしている。
 いくら物価ぶっかの安いときだってくまの毛皮二まいで二円はあんまり安いとだれでも思う。
 実に安いし、あんまり安いことは小十郎じゅうろうでも知っている。けれどもどうして小十郎じゅうろうは、そんな町の荒物屋あらものやなんかへでなしに、ほかの人へどしどし売れないか。それはなぜかたいていの人にはわからない。けれども日本ではきつねけんというものもあって、きつねは猟師りょうしに負け猟師りょうしはだんなに負けるときまっている。ここではくま
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は小十郎じゅうろうにやられ小十郎じゅうろうがだんなにやられる。だんなは町のみんなのなかにいるから、なかなかくまに食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは、世界がだんだん進歩すると、ひとりで消えてなくなっていく。
 ぼくはしばらくの間でも、あんなりっぱな小十郎じゅうろうが二度とつらも見たくないような、いやなやつにうまくやられることを書いたのが、実にしゃくにさわってたまらない。

※は方言です。

宮沢みやざわ賢治けんじ「なめとこ山のくま」)
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a 読解マラソン集 12番 ちょうど、その前の年 na3
 ちょうど、その前の年、ぼくが六年生の晩秋ばんしゅうのことであった。
 中学へ入るための予習が、もう毎日つづいていた。暗くなって家へ帰ると、梶棒かじぼうをおろしたくるまが二台表にあり、玄関げんかんの上がり口に車夫しゃふがキセルで煙草たばこをのんでいた。
 この二、三日、母の容体ようだいが面白くないことは知っていたので、くつを脱ぎぬ ながら、ぼくは気になった。着物に着がえ顔を洗っあら て、電気のついた茶の間へ行くと、食事のしたくのしてある食卓しょくたくのわきに、編み物あ ものをしながら、姉はぼくを待っていた。ぼくはおやつをすぐにほおばりながら聞いた。
「ただ今。――お医者さん、きょうは二人?」
「ええ、昨夜からお悪いのよ」
 いつもおなかをへらして帰って来るので、姉はすぐにご飯をよそってくれた。
 父と三人で食卓しょくたくを囲むことは、そのころはほとんどなかった。ムシャムシャ食べ出した後に、姉もはしをとりながら、
「節ちゃん、お父さまがね」という。「あさっての遠足ね、この分だとやめてもらうかも知れないッて、そうおっしゃっていたよ」
 遠足というのは、六年生だけ一晩ひとばん泊まりと  で、修学旅行しゅうがくりょこうで日光へ行くことになっていたのだ。
「チェッ」ぼく乱暴らんぼうにそういうと、ちゃわんを姉につき出した。
「節ちゃんには、ほんとにすまないけど、もしものことがあったら。――お母さんとてもお悪いのよ」
「知らない!」
 姉は涙ぐんなみだ  でいる様子であった。それもつらくて、それきりだまりつづけて夕飯をかきこんだ。(中略ちゅうりゃく
 生まれて初めて、級友と一泊いっぱく旅行に出るということが、少年にとってどんなにみりょくを持っているか! 級の誰彼だれかれとの約束や計画が、あざやかに浮かんう  でくる。両のなみだがいっぱいあふれてきた。
 父の書斎しょさいのとびらがなかば開いたまま、廊下ろうかへ灯がもれている。(中略ちゅうりゃく
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 いつも父のすわる大ぶりないす。そして、ヒョイッと見ると、たくの上には、くるみを盛っも た皿が置いてある。くるみの味なぞは、子供こどもえんのないものだ。イライラした気持ちであった。
 どすんと、そのいすへ身を投げこむと、ぼくはくるみを一つ取った。そして、冷たいナット・クラッカーへはさんで、片手かたてでハンドルを圧しお た。小さなてのひらへ、かろうじて納まっおさ  たハンドルは、くるみの固いからの上をグリグリとこするだけで、手応えてごた はない。「どうしても割っわ てやる」そんな気持ちで、ぼくはさらに右手の上を、左手で包み、ひざの上で全身の力をこめた。しかし、級の中でも小柄こがらで、きゃしゃな自分の力では、ビクともしない。(中略ちゅうりゃく
 左手の下でにぎりしめた右のてのひらの皮が、少しむけて、ヒリヒリする。ぼくはかんしゃくを起こして、ナット・クラッカーをたくの上へ放り出した。クラッカーはくるみの皿に激しくはげ  当たって、皿は割れわ た。くるみが三つ四つ、たくからゆかへ落ちた。
 そうするつもりは、さらさらなかったのだ。ハッとして、いすを立った。
 ぼくは二階へかけ上がり、勉強つくえにもたれてひとりで泣いた。そのばんは、母の病室へも見舞いみま に行かずにしまった。
 しかし、幸いなことに、母の病気は翌日よくじつから小康を得て、ぼくは日光へ遠足に行くことができた。
 ふすまをはらった宿屋の大広間に、ズラリとふとんをしきつらねたその夜は、実ににぎやかだった。果てしなくはしゃぐ、子供こどもたちの上の電は、八時ごろに消されたが、それでも、なかなかさわぎはしずまらなかった。
 いつまでもぼく寝つかね  れず、東京の家のことが思われてならなかった。やすらかな友だちの寝息ねいきが耳につき、覆いおお をした母への電が、まざまざと浮かんう  できたりした。ぼくは、ひそかに自分の性質せいしつを反省した。この反省は、ぼく生涯しょうがいで最初のものであった。

永井ながい龍男たつお胡桃くるみ割りわ 」)
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