a 読解マラソン集 9番 日本人は、一般的には nnge3
 日本人は、一般いっぱん的には、神社仏閣、能や茶道など、古きよき日本の伝統が好きで、それを誇りほこ に思っているのだが、その一方で、実生活を見ると伝統破壊はかい者とも言える側面をもっている。
 まず、屈指くっしの横文字カタカナ氾濫はんらん社会であることを見、若者の言葉を聞けば、国語における伝統の軽視は一目瞭然いちもくりょうぜんである。古典としての言語の純粋じゅんすい性に対する感度が、フランスなどに比べてきわめて低い。実際、現在の日本語は横文字カタカナを抜きぬ には成り立たなくなっている。年々大袈裟おおげさになるクリスマスのイルミネーションが終わると、正月には、依然としていぜん   大勢の人が神社仏閣に初詣はつもうでに行く。クリスマスまではまだよいとして、最近は、ハロウィーンも定着しつつあるようだ。
 その一方で、立春から大寒までの二十四節気にそった日本の伝統的季節行事は、テレビのニュースの枕詞まくらことばである。
 また、食べ物に強いこだわりをもつ日本人は、しゅんにこだわるが、いまは養殖ようしょく、輸入、ハウス栽培さいばいなどで、ほとんど一年中手に入る。イチゴやスイカも一年中あるといってよい。二十四時間営業のコンビニが繁茂はんもするように、消費者が望むことなら、利便性の向上のためならなんでもやる。アメリカに勝るとも劣らおと ない商業マインドである。こうした高度消費者中心資本主義が、日本の一面としてすでに社会に根を下ろしている。
 さらに最近では、シュンとなると日本のものではなく、ボジョレー・ヌーボーに始まり、イタリア産ポルチーニやトリュフなどといった外国産のものでシュンを感じて楽しむといった本末転倒ほんまつてんとうなことを国民挙げて行なっている。
 コメは日本人にとってただの主食ではない。依然としていぜん   文化的、象徴しょうちょう的意味合いをもっている。だからこそ、コメの輸入を解禁しないのであり、国民もコメの自由化を要求しないのである。そのコメは「洗う」ものではなく「とぐ」ものである。にもかかわらず無洗米といってのけて何も感じない。こういうところにも日本における伝統のあり方があらわれているだろう。
 もっと面白いのは正月である。新年を新暦しんれきで祝うのは、アジア諸
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国ではおそらく日本だけではないだろうか。伝統を重んじるのであれば、やはり旧暦きゅうれきで祝うべきであろう。実際、権威けんいを尊ぶ中国人は、依然としていぜん   旧暦きゅうれきで正月を盛大に祝っている。新暦しんれきの正月など見向きもしない。韓国かんこくも同様に旧暦きゅうれきで正月を祝う。
 このように日本人は、古きよき伝統を重んじるという一方で、日々の行動は伝統などお構いなしである。名を捨てて実をとるとも、軽薄けいはくとも、柔軟じゅうなんとも、いい加減とも、節操がないともいえるのが、日本人の行動なのである。つまり、融通無碍ゆうずうむげでつかみどころがないのである。
 欧米おうべい社会は理念を優先するが、日本社会は現状を是認ぜにんし生活を優先する。極端きょくたんにいえば、「うそも方便」の社会である。別の見方をすれば、欧米おうべいでは、概念がいねん化・抽象ちゅうしょう化・階層化を通して、矛盾むじゅんを統合的視点から上位レベルで解消して、首尾しゅび一貫いっかん性を確保するように努める。しかし、日本では、矛盾むじゅん矛盾むじゅん併存へいぞんさせるか、生理的に切り捨てるか、あるいは無化してしまう。
 西欧せいおう的に考えれば、日本人の行為こういを見ていると分裂ぶんれつしないのが不思議であろうが、当の日本人は何も矛盾むじゅんを感じていない。つまり、気にしていないのである。しかし、行為こうい者としての日本人の心性には、なんらかの一貫いっかん性(合理性)が存在するはずである。それが西欧せいおう的な観点や現在の日本人論のわくからは見えないのである。

小笠原おがさわらやすし『なんとなく、日本人』による)
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a 読解マラソン集 10番 あるところに、一本の木が nnge3
 あるところに、一本の木が生えていた。木は、一人の少年をかわいがっていた。少年は毎日、木のところにきて、遊ぶ。枝でぶらんこをしたり、りんごの実をもいで食べたり、木陰こかげでまどろんだり……。かれは木が大好きで、木も幸せだった。
 だが、時がたち、成長したかれの足はしだいに遠のく。木はひとりになることが多くなった。ある日、かれが来た。木は喜ぶ。かれは、遊ぶための金がほしいと言う。木は、りんごの実を売って金をつくったらいい、と勧めすす た。かれはりんごの実をごっそり採って、去る。木は、幸せだった。
 やがて、壮年そうねんになって、再びかれが来る。家がほしい、結婚けっこんしたい、と言う。木は、枝で家を建てたらどうだろうと勧めるすす  
 そこで、かれは枝を切り落とし、全部、持って行ってしまう。木は、幸せだった。
 また、木がひとりぼっちで過ごす日々が続いた。ある日、年をとったかれがやってくる。どこか遠くへ行きたい、船がほしいと言う。それなら私の幹を切り倒しき たお て船をつくったらいい、と木が言う。かれは木を切り倒しき たお て、持って行ってしまう。木は、幸せだった。
 長い年月がたった。老人になったかれが、とぼとぼと戻っもど てきた。しかし、木には、何もしてやれることがない。私はもう切り株だけだ、せめて、ここにこしをかけてお休み、と言う。背中の曲がった老人は、ゆっくりとこしをおろす。そして、木は幸せだった……。

 こういう話である。
 その含意がんいは、実に深く、豊かなものである。この絵本自体がすばらしいが、さらに私の関心をひいたのが、この本を題材にしたある研究なのだ。
 この絵本を子どもたちはどう読むだろう、と考えた心理学者の守屋慶子けいこさんが、四ヵ国かこくの子ども約二千人に本を読ませ、感想を書かせて、それらを分析ぶんせきした。その成果が『子どもとファンタジー』(新曜社)という本にまとめられている。

(中略)
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 詳しくくわ  は原著に譲るゆず として、私は自分が興味をひかれたことの一つ二つを紹介しょうかいしたい。

 たとえば、木と少年との接触せっしょくがあるたびごとに「木は幸せだった」と書かれている。この表現を、各国の子どもたちはどう読み取っているのだろう。
 四ヵ国かこくというのは、日本、韓国かんこく、スウェーデン、イギリスである。感想を書かせてみたら、韓国かんこく、スウェーデン、イギリス、の子どもたちは、総じて「木は幸せだった」という表現をことば通りに受け取っていることがわかったそうだ。つまり、木は幸せだったと言っているのだから、幸せだったのだ、と額面通りに受けとめている。
 それにひきかえ、日本の子どもたちの受けとめ方は、やや複雑である。「木は幸せだった」とあるけれども、本当にそうなのだろうか、と思うらしい。本当はいやだったのだ、本当は悲しかったに違いちが ない、というふうに受けとめる子どもが多いことがわかった。隠さかく れた部分があるように推量する、というのである。

(中略)

 守屋さんは「二重構造」ということばを使っている。たとえば「二重構造型の推量は、日本の子どもたちには多いが、英国やスウェーデン、韓国かんこくの子どもたちにはみられない」と書いている。

白井しらい健策「天声人語」の七年)による
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a 読解マラソン集 11番 チップを渡すということが nnge3
 チップを渡すわた ということが、私たちの国にはない。チップはすべて、正価に含まふく れているものと思っている。高級レストランの高級さは、サービスの高級さとイコールであると無意識に思っている。ホテルやレストランで気持ちのいい応対をされた場合、心付けを包むのではなく、「またこよう」と私たちは考える。それが私たちの評価なのである。
 最近の温泉宿では、部屋に備え付けのパンフレットに「サービス料があるので心付けは不要」と、わざわざ書いてあったりする。年輩ねんぱいの知人は、彼女かのじょの長年の習慣らしく、温泉宿には必ず心付けを用意していくが、いつもそれは和紙に包んである。現金を生で渡すわた 、ということに、私たちは激しい抵抗ていこうを感じる。しかも、紙幣しへいならともかく、コインを渡すわた という習慣は、まったくない。
 そして商売というのは、正直さを欠いたら成立しないと、これもまた、私は自分の国の習慣で信じている。千円のものを二千円で売ったとしたら、その瞬間しゅんかんは千円儲かっもう  たですむが、しかし、だまされたと知った客は二度とこないだろうし、その客がほかのだれかにそのことを話せば、ほかの客までこなくなる、というふうな思考回路を私は持っている。長い目で見たら、正直な商売のほうがぜったいに得だと思っている。だから、その場限りの百円、二百円を儲けよもう  うとする気持ちが、まるでわからないのである。その「わからない」ことこそ習慣の違いちが 、郷の内部の問題のはずなのに、ことお金に関しては、ほかのことのようにすんなりと従うことができない。
 反対に考えると、異国の人が日本を旅した場合、お金に関する習慣の違いちが には、さほど苦労しないのではないかと想像する。ぼったくりバーなどにいけば話はべつだが、ごくふつうに移動して、ごくふつうに食事をしているぶんには、ぼられることはまずないし、チップの心配もいらないし、お釣り つ をごまかされることもない。そのぶん、物価が高いという多大な難点はあるわけだが。
 では、異国の人が日本にきた場合、いちばん苦労する習慣の違いちが はなんだろう、といえば、沈黙ちんもくであるように私は思う。三週間や一カ月、異国を旅して帰ってきたとき、私がもっとも違和感いわかんを覚えるのが、じつはその沈黙ちんもくである。日本の人は驚くおどろ ほど声を発さない。
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ぶつかっても声をたてず、出くわし状態になっても無言、人の足を踏んふ でしまっても「すみません」と言う人はとても少なく、せいぜい無言で会釈えしゃくするくらい。
 たとえば、銀行でも空港でもいい、人々が列になって順番を待っていたとする。そこに、列の存在に気づかず、だれか入りこんでしまったとき、ほとんどの国では声を出して注意する。「こっちに並んで!」と、ひとりが言うこともあり、列にいる全員が口々に言うこともある。が、日本では、声に出さず空気で示す。ついさっき、じつはそのような光景をJRの駅の構内で目の当たりにしたのだが、列の人々はみな、無言の内に、対応をしている駅員に、訴えうった かけるような視線を投げていた。駅員はちゃんと気づき、カウンターに割り込んわ こ できた女性に、「すみませんが、列ができているのであちらに並んでください」と注意してことなきを得ていた。私にはごく自然な光景ではあるが、よく考えればすごいことなのである。沈黙ちんもくの習慣を持たない人から見れば、ほとんどちょう能力の世界だと思う。「空気を読む」という言葉が、他の国の言語であるのかないのかはわからないが、しかし、それは明らかに特殊とくしゅな習慣だと私は思う。

(角田光代「お金と沈黙ちんもく」による)
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a 読解マラソン集 12番 ここで確認しなければならないのは nnge3
 ここで確認しなければならないのは、「わたしがわたしである」ことを「覚えている」ということは、過去の行動の完全な履歴りれきが保存されるのではなく、思い出されるたびに変化し、意味付けの変わる記憶きおく維持いじしているということであり、そこには「忘却ぼうきゃく」も同じくらい必要とされるものであるということだ。すなわちそれは、「記憶きおく」と「記録」が、質としてまったく異なるものであることを意味している。記録が記憶きおくに果たす役割を考えるために、もう少し「記憶きおくのあいまいさ」という点について述べてみよう。
 認知心理学者の高橋雅延によれば、私たちが「覚えている」と思っている過去の記憶きおくも、実はかなりの程度あいまいさを残している部分があるという。高橋によると、私たちは一ヶ月かげつ前のことを、事実のとおりに思い出せると考えがちだが、実際には、時間をおくことで、五〇%前後の記憶きおく入れ替わっい か  てしまうというのだ。つまりそこで私たちは、「想起する記憶きおく内容の一部を選択せんたくし、再構成している」のである。さらに言えば、何度も繰り返しく かえ 思い出すことで、「虚偽きょぎ記憶きおく」が現れる場合さえあると高橋は述べている。
 その記憶きおくのゆがみに影響えいきょう及ぼすおよ  のは、たとえば「暗黙あんもく理論」と呼ばれるような素人考えだ。暗黙あんもく理論とは、必ずしも明確な科学的根拠こんきょがないにもかかわらず、世間では信じられている知識や概念がいねんのことであり、具体的には、「幼少時のトラウマが人格形成に強く影響えいきょうする」といった知識のことを指す。このように近年の記憶きおく研究は、むしろ記憶きおくが、他者や社会的な認知とのかかわりで容易に変化するような、あいまいなものであることに注目しているのである。
 こうした知見に基づいて、心理学者は、「わたしはわたしのことを覚えている」という出来事が、文字どおり過去の出来事を脳内にストックするようなものではなく、思い出されることによって、それが新たに「記憶きおく」として上書きされるような、「自己物語」の側面を持つと主張している。つまり、わたしがわたしであることの確信は、(「もうひとりの自分」のようなものを含むふく )他者への語りの中から生成してくるということだ。
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 だとすれば、そこで「記録」というメディアが、自己を形成するのに非常に重要な役割を果たすことは、容易に想像できるだろう。「高校時代の友人」が、どのような人だったのか、放っておけば私たちはすぐに忘れてしまう。しかし、日常にはあまり思い出されることのない相手であっても、卒業アルバムを見返したり、あるいはときにそれを別の友人に見せながら、「かれはこういう人でね」とか「ああ、こんな人もいたなあ、彼女かのじょはね……」と語ったりすることで、そのたびに「高校時代の自分」を構成することができる。そしてそれを通じて「あのときは意識しなかったけど、ほんとうはこの人のことが好きだったんだ」などといったように、記録をもとにした他者への語りを通じて、「いまの自分」に接続される自己物語を生成するのである。
 ここには、記録というメディアと、自己によって物語られる記憶きおくとの間の、ダイナミックな関係を見て取ることができるだろう。

鈴木すずき謙介けんすけ『ウェブ社会の思想』による)
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問題

nnge-03-4 問題1
問1 読解マラソン集9番「日本人は、一般いっぱん的には」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■日本の伝統的季節行事がニュースの枕詞まくらことばになっているというのは、話題にはなっているが実質はあまりないという意味である。
1 ○    2 × 

解答1

nnge-03-4 問題2
問2 読解マラソン集9番「日本人は、一般いっぱん的には」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■日本人も心の中では、欧米おうべいのような一貫いっかん性を持ちたいと思っている。
1 ○    2 × 

解答2

nnge-03-4 問題3
問3 読解マラソン集10番「あるところに、一本の木が」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■少年は、ひとりぼっちなので木とよく遊んでいた。
1 ○    2 × 

解答3

nnge-03-4 問題4
問4 読解マラソン集10番「あるところに、一本の木が」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■日本の子供たちは、「木は幸せだった」という言葉を額面どおりに受け取らない子が多かった。
1 ○    2 × 

解答4

nnge-03-4 問題5
問5 読解マラソン集11番「チップを渡すわた ということが」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■外国の人が日本を旅行するとき、チップのない習慣に苦労する。
1 ○    2 × 

解答5

nnge-03-4 問題6
問6 読解マラソン集11番「チップを渡すわた ということが」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■「空気を読む」ということは、日本人にだけ備わった能力である。
1 ○    2 × 

解答6

nnge-03-4 問題7
問7 読解マラソン集12番「ここで確認しなければならないのは」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■私たちは過去を思い出すとき、その過去の記憶きおくを作っているのでもある。
1 ○    2 × 

解答7

nnge-03-4 問題8
問8 読解マラソン集12番「ここで確認しなければならないのは」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■卒業アルバムの記録よりも、心の中の記憶きおくの方がずっと豊かである。
1 ○    2 ×

解答8