a 読解マラソン集 5番 子どもというものは nnza3
 子どもというものは、なにやら得体の知れぬようなところがある。そのなすことのひとつひとつに、どのような意味があるのか、おとなは解釈かいしゃくした意味をつけて理解しようとはするのだが、彼らかれ の世界がはたしてその解釈かいしゃくされた意味で理解できるものかどうか、はなはだ覚束ない。
 それでも、そこに子どもの世界がある。それはおとなになってしまった目から、もはや見ることのかなわぬものかもしれぬ。そしてやがて、子どもはおとなになって、解釈かいしゃくされ理解される姿になってしまう。
 学校へ行くようになると、解釈かいしゃくされ理解されることがらを学ぶようになる。それは避けさ られないことだ。
 しかし、たいていのおとなが、学校で記憶きおくした知識、学校で獲得かくとくした技能を、学校を卒業するとともに忘れている。これも考えようによっては奇妙きみょうなことである。学校では、暗記や訓練が強制され、その結果を点検されるのだが、そのほとんどは忘れられ失われてしまう。まるで、失うために学校に行ったみたいだ。
 それでは、学校は無意味であったか。失われたあとに残るものがあったはずである。それはおそらく、かれの心のなかの世界が、深く耕されたことであろう。一時的に獲得かくとくした知識や技能より以上に、そのかれの心の世界こそが、かれにとっての本物かもしれない。
 こうした知識の体系を科学と呼び、技能の体系を技術と名づけるなら、人間の文化が科学と技術なしに成立しないことは確実である。しかしながら、実際にそうした科学や技術の体系に身をよせて暮らしていてさえ、これらの知識や技能はむなしい、そんな気のすることがある。
 科学者や技術者は、しばしば自分の知識や技術をこえねばならぬ局面に出あうものだ。自分の知識や技術を捨てて、自分の心のなかの世界だけにたよるしかない、そうした場面が訪れる。創造はそこにしかない。
 念のために言うと、ここで知識や技能が無価値であったわけではない。理屈りくつの上では、知識は書物に書きとめておけばよく、技能は方法として与えあた られるだけですむ。しかし人間は、すべての知識が頭の外部にあり、すべての方法が体の外部にあったのでは、それを心にとけこますことができない。一時的であろうとも、知識を頭に
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とどめ、技能を体に通すことによってだけ、心のなかの世界は活性を持つ。
 ただし、本来のものは、知識や技能よりは、その心のなかの世界だろう。この点では、暗記を強制し技能を訓練することが、学校では、あるいは人間の成長のためには、過大なような気がする。学校の教師も、家庭の親でさえも、暗記と訓練をしたがるが、考えてみればこれは、教育の文化的性格から遠い。そこでは、叱咤しった激励げきれいする以上のことはない。そして、暗記したらおぼえるとか、訓練すればミスが少なく早くできるとか、当面の効果だけは目に見える。目に見えることはテストになじみやすいので、それがテストの点数になったりもする。
 しかし、本来の身につくものは、そうした知識を忘れて技能が失われたあとでも、なお残っているものだろう。それは、生活者としての立場であっても、科学者や技術者としての立場であってもそうだ。

(森『おかあさんの部屋?』より)
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a 読解マラソン集 6番 わたしのところに、ときどき nnza3
 わたしのところに、ときどき外国人の建築家がたずねてくる。
 そのおり「せっかく京都にきたのだから」と、どこかに案内しなければならないことがしばしばおきるが、そういうときは、桜のころなら夜の平安神宮に、紅葉のころなら夕暮の円通寺に案内することにしている。
 平安神宮の西神苑しんえん白虎びゃっこ池や東神苑しんえん栖鳳せいほう池のまわりの桜がさくときは、それらが池にうつりこんでそれこそ圧巻だ。たいていの外国人はきもをつぶす。
 いっぽう京都の北、幡枝はたえだにある秋の円通寺は紅葉がうつくしい。しかしそのボリュームは平安神宮の桜の何百分の一にもおよばない。
 ところがここには、もう一つべつのものがある。比叡山ひえいざんだ。円通寺の東をむいた客殿きゃくでんえんにすわると、庭の真正面の深紅の紅葉のあいだから比叡山ひえいざん聳然しょうぜんと姿をあらわす。とりわけ秋の夕暮は西日にはえていっそう美しい。それをみたほとんどの外国人建築家は、呆然ぼうぜんとして声もでない。
 円通寺の庭は「借景庭園」としてしられる。
 けっして大きい庭ではないが、庭一面がこけ、石でおおわれ、紅葉の木立があり、生垣いけがきのむこうには竹やぶ木がおいしげっていて、さらにそのさきに比叡山ひえいざんがみえる。つまり庭の景物だけでなしに外部世界の風物をもとりいれて一場の眺めなが としている。
 もちろんヨーロッパにだって客殿きゃくでんからのすばらしい眺めなが などはいっぱいある。しかしそれらはたいてい一望千里のパノラミックな景観だ。円通寺のように生垣いけがきや紅葉をはじめとする木立に切りとられて絵のようにみせる、というようなものをほとんどしらない。
 というのも、ヨーロッパ人はいっぱんに樹木にたいする関心がうすいからだろう。明治に日本にきて、古きよき日本文化を再発見したラフカディオ・ハーンも日本の木立の美しさを絶賛し「それは日本人が木々を愛しているからだ」という(『神々の国の首都』)。
 たしかに欧米おうべい人の植物にたいする関心のほとんどは花である。樹木のたたずまいや生垣いけがきかりこみのデザインなどといったものにはあまり興味をしめさない。
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 さらにヨーロッパには山というものがすくないから、山もあまり関心をひかない。
 したがって「庭内の樹林と庭外の山などをあわせて一幅いっぷくの絵にする」というような発想はなかなかおきてこないのである。
 その結果、ここに庭の構成要素のなかの「かき」というものにたいする東西の認識の差があらわれてくる。
 というのは、ヨーロッパの庭のかきへいは、たいてい外の世界と内の世界とを断絶する「かべ」でしかない。かきのなかには鉄柵てっさくというものもあるが、それらはよういにのりこえられないように高くしてあるか、あるいはしばしば鋭いするど 剣先けんさきが天をむいて見る人をドキリとさせる。
 ところが日本では、しばしば木で生垣いけがきをつくるだけでなく、へいなども板へいやブロックへいなどでなく築地へいのようにりっぱにしている。とくに借景庭園のばあいには庭の内と外の景観をつないで一つの風景にする、という大切な役割をもたせ、それによって庭のせまさなどの解消にも役だたせている。つまり「借景かき」だ。
 したがってかきへいは日本の庭づくりにおいては景観の一部を構成するもので、たいへん重要なものである。江戸えど後期の俳人の小林一茶(一七六三〜一八二七)もそういう美を見逃さみのが なかった。
冬枯れふゆが かきに結ひこむ筑波山つくばさん

(上田あつし『庭と日本人』)
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a 読解マラソン集 7番 周知のようにギリシア・ローマ神話では nnza3
 周知のようにギリシア・ローマ神話では、ゼウスもヘラも、またアポロやアフロディテ、そしてキューピッドも、それぞれ年齢ねんれいに応じた肉体をもち、顔をもっている。すなわち女神(ヘラ)、老年神(ゼウス)、青年神(アポロ)、童子神(キューピッド)といったように、かれらは性差や肉体の特徴とくちょう即しそく て行動し、その個性的な表情が彫刻ちょうこくや絵画で表現された。それのみではない。それらの想像上の神々は天空に輝くかがや 星の群にさえ投影とうえいされたのである。同じことは、ヒンドゥー教の神々の場合でもいえるだろう。ヒンドゥー・パンテオンの三大主神といわれるヴィシュヌ神・シヴァ神・ブラフマ神はいうまでもない。かれらの配偶はいぐう女神や眷属けんぞく神を含めふく 多彩たさいな神像群が創造され、そのいずれもが変化に富む個性と表情をそなえているのである。
 かれらはいずれも肉体を付与ふよされているがゆえに、受肉の神々ということができるだろう。受肉(インカーネーション)というのは人間の姿をとってあらわれること、すなわち化身・権化のことをいう。キリスト教では、イエス・キリストが神の子として顕現けんげんしたことを指す。同じようにヒンドゥー教でも、さきのヴィシュヌ神が人間や動物に姿を変えてあらわれるという、化身(アヴァターラ)の考え方があった。ギリシア神話もヒンドゥー教神話も、その多神教の基礎きそに神々の受肉=インカーネーションという観念がはたらいていた点で、同血の神話体系を構成していたということができるのである。
 ところがこれにたいして、わが国の神々の形成には、このインカーネーションの契機けいきがはじめから欠けていた。そもそも、神々の姿を人間の身体によって表現しようとする論理を育てることをしなかった。というのも神はまず第一義的には神霊しんれいとしてとらえられ、空間を浮遊ふゆう・移動して、森や山や樹木に着するものと信じられたからである。古い起源を有する神々の名称めいしょうに、飛鳥に坐すざ 神とか熊野くまぬ坐すざ 神といった例が多くでてくるが、これは神が姿を隠しかく て特定の土地や場所に着し憑依ひょういしている状態をあらわしているのである。
 神は目に見えない神霊しんれいとしてとらえられているから、その行動は
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自在である。すなわち神霊しんれいは無限に分割されて空間を移動し、各地に鎮座ちんざすることができる。たとえば全国の津々浦々つつうらうらに分布する八幡やはた神は、もとはといえば大分県の総本家である宇佐うさ八幡やはた神霊しんれいが分割され、空間を移動して、それぞれ着したものであった。それを鎮座ちんざといったのである。このような日本の神々の性格は、さきのギリシアやインドにおける場合が受肉=インカーネーションであるとするならば、憑依ひょうい=ポゼッションの機能として特徴とくちょうづけることができると思う。ポゼッションとは、神が依りよ くという意味である。それは、目に見えない神霊しんれいの行動様式をあらわしている。
 日本の神々は本来、その肉体性や個性を表立ってことあげしない存在として伝承されてきた。われわれは記紀神話において、イザナギ、イザナミや、アマテラス、スサノオをはじめとして、かれらがいかなる個性をもち肉体をそなえているかについての情報を、ほとんど与えあた られてはいない。また、神社に祀らまつ れている個々の祭神を呼ぶ場合、たとえば一宮、二宮、三宮……といって、その固有名詞をいわないですますことが多い。たとえば春日大社のように、きちんとした神々の名称めいしょうがあるにもかかわらず、そこに祀らまつ れている五柱の神々を一殿でん、二殿でん、三殿でん、四殿でん、五殿でんといいならわしてきた。同様に伏見ふしみ稲荷いなりの場合も上社、中社、下社といい、伊勢神宮いせじんぐうは内宮、外宮で用を足してきたのである。
 このようなことが生じたのは、わが国の神々の世界には、もともとギリシアやインドの多神教のように、受肉の観念がなかったからであると私は思う。自然の背後に身を隠しかく 鎮座ちんざする神々の生態は、目に見える多神教とは水準を異にする性格のものであった。あえていえばそこには、受肉を拒否きょひする憑依ひょういの観念がはたらいていたといっていいのである。その憑依ひょういの観念によって構造化されていたわが国の神々には、その肉体が薄明はくめい彼方かなた隠れかく ていたように顔がなかった。表情が喪わうしな れていたのである。

(山折哲雄てつお『日本人の顔 図像から文化を読む』より)
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a 読解マラソン集 8番 マインド・コントロール概念の導入は nnza3
 マインド・コントロール概念がいねんの導入は、カルト問題の現場に大きな変化をもたらした。なぜ人がカルトに入信するかを説明する、明確な道具ができたからである。それまでは、これらは親子関係や教育問題などから言及げんきゅうされていた。マインド・コントロール概念がいねんはメンバーが自分に起きた出来事を理解する手立てとなり、家族が状況じょうきょうを理解するためにも役立った。これを臨床りんしょう心理学の言葉に置き換えれお か  ば、心理教育ということになるであろう。心理教育とは、症状しょうじょうや行動がどのようなメカニズムで起きているか、それを緩和かんわさせたり予防したりするにはどうしたらよいかを教育する介入かいにゅう方法である。この機能は、今後も十分に役立つであろう。
 反面、この説明がいつでも有効性を持つわけではないことも事実である。ありがちなのは「自分はマインド・コントロールされていたのではなく、自分で選んだのだ」という主張である。この場合、マインド・コントロール概念がいねんは自身のプライドを傷つけるものとして語られる。ここには、自分には十分なコントロール能力があり、その結果、信じたのであって、他人の思うようにコントロールされていたわけではないという反発のニュアンスが含まふく れる。実際、個々のケースにおいて、個人がどの程度マインド・コントロールと呼ばれるものの影響えいきょう下にあったかは、究極的には知る術がない。
 HowモードとWhyモード
 マインド・コントロールという社会心理学的説明で、すべてが解決されるわけでもない。なぜなら、社会心理学が担えるのは事象の説明や解明であり、当事者が自身の経験をどう受け止めるかという臨床りんしょう的側面は担っていないからである。「自分がマインド・コントロールされていたことは、よくわかった。でも、それが何になるのか」という言葉を当事者から聞くことは、しばしばある。これは、How(いかに)とWhy(なぜ)の相違そういである。人の持つ知的欲求として「どうして」を知りたい場合と「なぜ」を知りたい場合とがある。これは対象となる事象によっても異なるであろうし、どちらを知ることが満足につながるかが個人のメンタリティによって異なることもある。カルトがもたらす信念は、元来Whyに重点を置くものである。例えば「なぜ社会には、こんなに悪がはびこっているのか」「なぜ私は、こんなに生き辛いつら のか」などの疑問や
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苦悩くのうに答えるところから、これらの信念は魅力みりょく呈するてい  。よって、これらの集団にはWhyに関心を引き寄せられやすい人が残ることになる。
Whyは形而上けいじじょう的な問いであり、そもそも多くの人が納得する正答を用意する性質のものではない。カルト・メンバーに教義論争を吹き掛けふ か て、出口の見えない堂々巡りどうどうめぐ 陥るおちい のは、このためである。信じるか信じないかの基準しかないものに、客観的な正当性を求めるのはナンセンスである。したがって、カルト的思考を持った個人が別の視点を見出すのは、けい上的な問いの前提に自ら疑問を持つときか、思考の方向性がHowのモードに切り替わっき か  たときのいずれかであろう。そこで個人がHowを理解すれば、それだけで事足りる場合もある。だが、そもそもWhyに関心を持っていた彼らかれ は、原点に戻るもど 場合も少なくない。それは、哲学てつがく的・宗教的問いに対する絶対的な答えを失い、呆然とぼうぜん 立ちすくむWhyであることも、過去の個人的経験に対するWhyであることもあるであろう。

(戸田京子「カルト問題における心理学――社会心理学から見えるもの・臨床りんしょう心理学から見えるもの」による)
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