a 読解マラソン集 9番 ハラは、単なるムラを取り囲む nnza3
 ハラは、単なるムラを取り囲む、漠然とばくぜん した自然環境かんきょうのひろがり、あるいはムラに居住する縄文じょうもん人が目にする単なる景観ではない。定住的なムラ生活の日常的な行動けん、生活けんとして自ずから限定された空間である。世界各地の自然民族の事例によれば、半径約五〜一〇キロメートルの面積という見当である。ムラの定住生活以前の六〇〇万年以上の長きにわたる遊動的生活の広範こうはんな行動けんと比べれば、ごく狭くせま 限定され、固定的である。いわばムラを出て、日帰りか、長びいてもせいぜい一、二はくでイエに帰ることができる程度ということになる。
 つまり、ハラはムラの周囲の、限定的な狭いせま 空間で、しかも固定的であるが故に、ムラの住人との関係はより強く定着する。
 ハラこそは、活動エネルギー源としての食料庫であり、必要とする道具のさまざまな資材庫である。狭くせま 限定されたハラの資源を効果的に使用するために、工夫を凝らしこ  知恵ちえを働かせながら関係を深めてゆく。こうして多種多様な食料資源の開発を推進する「縄文じょうもん姿勢」を可能として、食料事情を安定に導いた。幾度いくどともなく、ハラの中を動き回りながら、石鏃せきぞく石斧せきふなどの石器作り用の石材を発見したり、弓矢や石斧せきふや木製容器用の、より適当な樹種を選び出したりして、大いに効果を促進そくしんした。
 縄文じょうもん人による、ハラが内包する自然資源の開発は、生態学的な調和を崩すくず ことなく、あくまで共存共栄の趣旨しゅしに沿うものであった。食物の味わい一つとっても、我々現代人と同様に好き嫌いす きら があったに相違そういないのに、多種多様な利用をむねとしたのは、グルメの舌が命ずる少数の種類に集中して枯渇こかつを招く事態を回避かいひする戦略に適うものであった。これは高邁こうまいな自然保護的思想に基づく思いやりというのではない。好みの食物を絶滅ぜつめつ追い込むお こ ことなく連鎖れんさによって次々と他の種類に波及はきゅうして、やがて食料だけでなく、ひいては自然を危うくするという事態を避けるさ  ことにつながる。多種多様な利
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用によって、巧またく ずしてこのことが哲学てつがく昇華しょうかして、カミの与えあた てくれた自然の恵みめぐ を有り難く頂戴ちょうだいさせていただくという「縄文じょうもん姿勢方針」の思想的根拠こんきょになったとみてよい。ハラそのものを食料庫とする縄文じょうもん人の知恵ちえであり、アメリカ大陸の先住民の語り口にも同様な事情を窺いうかが 知ることができる。
 同じ人類史第二段階でも、西アジア文明に連なるヨーロッパにおいて、ハラの主体性を認めず、農地拡大の対象と見なす思想とは対立的である。つまりこのことも、一万年以上に及ぶおよ 長期にわたる縄文じょうもんの歴史に根差す日本的心における自然との共存共生の思想に対して、土地を利用し、ひいては自然を征服せいふくするというような思想に根差すヨーロッパ近代以降の合理主義の発達との、際立った対照につながってくるのではなかろうか。
 ハラを舞台ぶたいとして、縄文じょうもん人と自然とが共存共生のきずなを強めてゆくのは、自然資源利用の戦略のレベルにとどまるのではない。利用したり、利用されたりという現実的な関係を超えこ て、思想の次元にまで止揚しようされたのである。一万五〇〇〇年前に始まり、一万年以上を超えるこ  縄文じょうもんの長い歴史を通じて培わつちか れ、現代日本人の自然観を形成する中核ちゅうかくとなった。

(小林達雄たつおの文章による)
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a 読解マラソン集 10番 カウンセリングにおいて nnza3
 カウンセリングにおいてなにより肝要かんようだとされるのは、相手の言葉をなんの留保もなしに受けとること、まちがっていると思っても反論せずにいったんは言葉をそれとして受けとめることである。そのために多くのカウンセラーは、相手の言葉を確かめるように一言一句反芻はんすうする、そのような訓練を受ける。傾聴けいちょうボランティアのトレーニングでは、言葉がぱったり途絶えとだ 、事態が塞いふさ できたときには、「いま、何考えていました?」と訊きき 返せばよいと教えられる。がもし、カウンセリングや傾聴けいちょうがこのように進められるのだとすれば、それは逸らしそ  、でしかない。ここでは、問題が、つまり自他のあいだで生じている齟齬そごが、それをわたしがどう受けとめるかという、わたしの側の問題に密かに転位されるからだ。問題を生じさせているまさにその原因である事態について問うべきことが、その事態をどう受けとめるかという当事者の「内面」への問いにすり替え  か られるのである。
 カウンセリングや傾聴けいちょうもまた「待つ」を事とする。言葉を迎えむか にゆくのではない。言葉が、不意にしたたり落ちるのを、ひたすら待つのである。
 しつこく言うが、言葉を迎えむか にゆくのではない。言葉を迎えむか にゆくのは、「聴くき 」のおそらくは最悪のかたちである。

  I 三月ごろに人から「もう落ちつかれたでしょう」と言われたことがあったんですが、それになんとも言えないギャップを感じました。震災しんさいから二ヶ月かげつ後くらいですが、私にとっての時間と、その人にとっての時間は、また意味が違うちが んですね。
  K 日本人はあいさつのときにそういう言い方をする人が多いですね。それで「はい」と言われると、自分も安心できるから。そうすると、そう言われたほうもうるさいから、たいてい「はい」と答えるんですよ。
  I 私も言いました。(笑)
  K そこでギャップができて、あとの会話が続かないね。
  I もうその人には話さんでおこうと思いました。
  K そうでしょう? 心のケアとかなんとか言っている人にも、そういう失敗をする人がすごく多い。「どうですか、もうそろ
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そろ」なんて言われると、立ちなおらなければいかんみたいな格好になってくるから、よけいに苦しめる結果になるんです。
  I さすがプロだなと思いましたが、なんにも言わずに聞いてくれた人がいましたね。なんにも言わずに聞いてくれることがこんなに大事なのかと、身にしみて感じましたから。
  K へたに慰めなぐさ たりもしない。はじめから元気づけられたってどうしようもないもの。
(河合隼雄はやお『心理療法りょうほうの現場から(上)』、石川敬子との対談の章より)

 聴くき ということがだれかの言葉を受けとめることであるとするならば、聴くき というのは待つことである。話す側からすればそれは、何を言っても受け容れてもらえる、留保をつけずに言葉を受けとめてくれる、そういう、じぶんがそのままで受け容れてもらえるという感触かんしょくのことである。とすれば、「聴くき 」とは、どういうかたちで言葉がこぼれ落ちてくるのか予測不可能な「他」の訪れを待つということであろう。

鷲田わしだ清一『「待つ」ということ』)
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a 読解マラソン集 11番 子どものころ、私は nnza3
 子どものころ、私は八月六日を息をひそめてすごしていた。一日がすぎるのを、ただじっと部屋の片隅かたすみにすわって待っていた。広島の八月六日は、朝八時からの平和記念式典に始まり、八時十五分の黙祷もくとう、そして夜の灯籠とうろう流しで終わる。広島市の中心、平和公園と原爆げんばくドームの間に元安川という川がある。その川面に、水を求めて亡くなった犠牲ぎせい者を弔うとむら 灯籠とうろうが流されるのだ。
 私はその灯籠とうろう流しが好きだった。当時は元安川近くの社宅アパートに住んでいたので、夜はよく一人で灯籠とうろうを見に行っていた。慰霊いれいのためではない。橋の上から、ゆらゆら海へ流れでていく光をながめながら、私は安堵あんどのため息をついていたのだ。これでやっと今年も八月六日が終わる、と。
 私は八月六日がいやだった。吐き気は けがするほどいやだった。「ヒロシマの声を全世界に!」「広島はに服しています」と連呼する、したり顔の識者や記者やアナウンサーたちがいやだった。――その「ヒロシマ」っていったいだれのことなんだよ?
 子どもだから、明確に言葉にできていたわけではない。けれども、そう叫びさけ たくなる息苦しさは、八月六日がくるたびに、私の身体のなかを通り過ぎていった。
 おかげで、平和教育には完全に落ちこぼれてしまった。
 教師うけの話ではない。教師うけなら、ばっちりにはほど遠いが、そこそこの評価は得ていたと思う。小学生も五、六年になれば、一応の手練手管は身についている。平和教育のために作文を書かされたりするが、それももうほとんどマニュアル化されていた。おとうさんやおばあさんや近所のおばさんからきいた「八月六日の話」をならべて、その後に「原爆げんばくはほんとに悲惨ひさんだと思います。戦争は絶対にしてはいけないと思いました」と、つけくわえればOKだ。
 あとは「話」がどれだけリアルかで、教師うけの良し悪しは決まる。リアルであればあるほど、よい作文にされる。あえていえば、実話である必要すらない。
 (中略)
 私の経験がすべてだというつもりは毛頭ない。もっと真面目な平和教育、もっと真剣しんけんな小学生もたくさんいただろう。けれども、私
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の経験もまた平和教育の一つの姿である。「原爆げんばくはほんとに悲惨ひさんだと思います。戦争は絶対にしてはいけないと思いました」という結論以外は許されなかった。そのなかで自由をもとめるとすれば、息苦しさを逃れるのが  とすれば、オーバーな作り話にして全体を茶化すしかないだろう。
 検閲けんえつは笑い話を生む。旧ソ連けんの社会主義国でもそうであったし、戦後の広島市でもそうであった。
 「平和教育は虚妄きょもうだった」といいたいわけではない。この種の裏話をもってきて、戦後の思想を貶めるおとし  言説には私自身あきあきしている。戦後の思想が抑圧よくあつなら、一個の裏話をもってきて、戦後の思想を根こそぎひっくり返そうとするのも抑圧よくあつにほかならない。戦後批判の言説の多くは、救いがたいくらい戦後的である。
 原爆げんばく悲惨ひさんだ。どうしようもないくらい悲惨ひさんだ。広島で育った人間ならその記録は必ず目にするし、記録できた出来事は最も悲惨ひさんな出来事ではない。それを忘れたつもりはない。私がいいたいのはただ一つ。その絶対的な悲惨ひさんをもってしても、戦争と平和の意味のすべてを覆いおお つくすことはできない、ということだけだ。

佐藤さとう俊樹としき『〇〇年代の格差ゲーム』)
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a 読解マラソン集 12番 「私が結婚相手に望む経済力は nnza3
 「私が結婚けっこん相手に望む経済力は、そんなに大きなものではありません。ただ私と子ども二人が安心して暮らせる程度でいいのです。子どもには小さいときから習い事をさせてやりたいです。お金がないからといって子どもにみじめな思いをさせるのだけは絶対にいやです。そして、子ども二人を私立大学に行かせてやれるくらいの給料は求めます(だって、私もそうしてもらったので当然だと思います)。月に一回は外食し(もちろんまわるお寿司すしではなく、お洒落 しゃれなイタリアンとかです)、年に一回は海外旅行に行く。そういう程度の経済力です。私には玉の輿たま こし願望はありません。私の両親が夫の両親に対し、肩身かたみ狭いせま 思いをするのはいやなので、軽い玉の輿たま こし程度で十分です。もちろん夫は真面目に働く人でないと困ります。ちょっといやなことがあると会社を辞めるとかされたりすると、とても困ります。それから、土曜日には子どもを連れて公園でサッカーしたり、川の堤防ていぼうの下でキャッチボールしたりするのを、私は堤防ていぼうの草むらに坐っすわ 眺めるなが  のが夢です。それから、煙草たばこを吸う人は絶対にお断りです。本人よりも周りにいる私や子どもたちの受動喫煙きつえん怖いこわ からです。家族(子どもと私の両親)を大事にして、結婚けっこん記念日とかは絶対に覚えていてくれないといやです。あとDVとかして、暴力を振るうふ  人ももちろんお断りです。まだ、他にもありますが、先生が三つまでと言われたので、このくらいにしておきます」
 言っておくが、これは学生の書いたものを合成したり、特定の個人のものを意図的に抽出ちゅうしゅつしたりしたものではない。みんなみんな、こう書いてくるのである。なんでここまで同じなのか、私が聞きたいくらいである。この女子学生の結婚けっこん願望を男子学生に紹介しょうかいすると、教室中に「冬虫夏草」みたいな菌糸きんし状のものが浮遊ふゆうする。漠然とばくぜん した怒りいか と不安めいたものだ。
 こういう、学生の書いたものを何年も多数読んできて、私はこの国の晩婚ばんこん化は止まらないと思ったのである。今は、まだ晩婚ばんこん化で済んでいるが、これから非こん率の上昇じょうしょうも必至である。就職難と結婚けっこん難が、双子ふたごになってやってくる。
 男の子は、正社員として就職できずにフリーターになれば結婚けっこん
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きない。結婚けっこんできないで家庭を持てないから、就労意欲が低下し、ますます離職りしょく促進そくしんされる。女の子は、正社員で就労意欲の高い、ついでに給料も高い男性目指して、「容貌ようぼう偏差へんさ値」を上げるのに余念がない。しかし、「実用偏差へんさ値」はきわめて低い。料理を作ったことがない。ご飯を炊いた たことがないという女子は多い。なぜなら、女子学生の母親は「女は、結婚けっこんするといやでも家事をしなければいけないから、家にいるうちはそんな苦労をさせたくない」と、むすめに家事をさせないからである。むしろ、男子学生の母親の方に「将来、息子が結婚けっこんしたら、奥さんおく  も働いている可能性が高いので、男も家事ができなければならないので、今から教えている」と語るケースが多かった。だから、男の子の方が、基本的な炊事すいじはできるのである。現在、大学生はとても忙しいいそが  。授業以外に専門学校に行き、アルバイトもしている。
 「バイトで深夜の十二時にアパートに帰り、カップめんを食べていると侘しくわび  なり、就職してもこういう生活かと思うと、家に帰ったときにはやはり誰かだれ 人の気配があってほしいなと思います」
 こういうことを女子学生が書いてきたケースは一回もない。男子学生にのみ見られる。こういう生活実感から来る結婚けっこんへの憧れあこが は、だからこそディテールに凝っこ た具体的なものになるのであろう。

(小倉千加子『結婚けっこんの条件』)
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