a 読解マラソン集 5番 なまぬるいほこりがたつ焼津街道を ra3
 なまぬるいほこりがたつ焼津やいづ街道を、海の方に向かって歩いていると、前を行く若い女の人があった。上林先生だった。かみにも、水色のスカートにもおぼえがあったし、歩く時のかたの辺りの動かし方も、そうだった。かれ駆けか て行き、息を弾まはず せながら
――先生、と声をかけた。彼女かのじょかれが近づくのを待っていてくれた。かれは追いすがると、自分でも思い掛けか ないことを言った。
――ぼく物凄いものすご 油田を見ました。
またいってしまった、とかれは思った。彼女かのじょはちょっと目を見張って、それなりに生まじめな表情になって、しばらく考えていた。かれには、なんだかしゃくにさわることがあったが、それを抑えおさ なければ……、という自制も働いていた。かれは自分のことを、緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい葉陰はかげで、一人で転しているように感じた。
――アメリカよりも、ボルネオやコーカサスよりも大きな油田です。
 気がつくと、かれはそう深くいいつのっていた。彼女かのじょは、浮世絵うきよえ人形のような表情を動かしはしなかった。かれは自分が自然にしゃべっているのを感じた。そして、なにをいってもいいのなら、いうことは一杯いっぱいあるぞ、と思った。自分で自分に深傷ふかでを負わせてしまい、血が止まらなくなった感じだった。かれはまたなにかいおうとした。すると彼女かのじょが、いつもの口調できいた。
――それは、どこなの。
――大井川おおいがわ川尻かわじりです。
――大井川おおいがわ川尻かわじり……。あんなところだったの、と彼女かのじょは少し声をふるわせていった。ひろしには、彼女かのじょが胸を弾まはず せているのがわかった。駄目だめだと思いながらもたたいたとびらが、意外にも手応えがあって動き始めたようなことだった。かれは自分のうその効果が、おそろしく美しく彼女かのじょに表れたことに呆然とぼうぜん していた。
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――大井川おおいがわの鉄橋から見えるかしら。
――見えると思いますけど。
――それじゃ、柚木ゆうきさん、わたしこれから見に行くわ。そこへ連れて行って。
――かばんをうちへ置いてきていいですか。
――かばんはいいわよ。持っていらっしゃい。
――……。
――遅くおそ なってお母さんが心配したら、先生があとでわけ話して上げるから。
――……。
――軽便けいべんで行くのね。
――え、ええ軽便けいべんでいいんです。
 ひろしは仕方なく歩き出した。軽便の駅までは大分距離きょりがあった。うしろでは上林先生の運動くつの足音が、ひっそりと、しかし確実にしていた。かれはどこかへ迷い込みまよ こ たかった。迷ってしまったような芝居しばいをしたかった。だが、かれの前にあったのは、そんな芝居しばい紛れまぎ て行きようもない、一から十まで知りつくした道だった。

(小川国夫『生のさ中に』)
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a 読解マラソン集 6番 門松がとれて ra3
 門松がとれてまもない日曜日、むすめは庭でなわとびをしていて、白鳥がすぐそこの東の山に舞いま おりるのを見つけた。まっ白い鳥だから、白鳥といってまちがいではないけれども、童話に出てくるあの白鳥ではない。白サギである。
 そういうとむすめはちょっぴりがっかりしたようだったが、図鑑ずかんを持ちだしてきて調べはじめた。「サギの仲間」のページをひらき、松のこずえにつばさを休めている白鳥と見くらべている。
「頭にチョンチョリンがないから、コサギでもアオサギでもないわ。チュウサギかチュウダイサギよ。かたちがそっくりでしょう。」
 なるほど、そのどちらかである。二羽いて、松のこずえに巣のあることがわかった。どうやら、カラスの古巣を占領せんりょうしたらしい。たんぼや小川の水がすっかりかれてしまったので、小さな池のあるその山へ引っ越しひ こ てきたのだろう。
 そういえば、十年ほど前にも、ひとつがいの白サギがその同じ場所に冬のあいだ住んでいたことがあった。むすめは幼かったので忘れてしまったのか、それとも彼女かのじょが生まれる前だったろうか。
(中略)
 サギの寿命じゅみょうがどれほどか私は知らないが、こんどきた白サギは十年前のサギではなく、その子供たちか孫たちであろうか。いずれにしても、十年ぶりの白鳥の再来である。
 私のむすめはその白鳥のことを人にうっかりしゃべると、わんぱくどもに石でも投げられて、鳥が山を去ってしまうのではないかと恐れおそ ているのだった。そして、宝物をそっと小箱にでもしまいこむように、自分だけの秘密としてながめていたい。私にしても同じ気持ちである。
 しかし、白サギを小箱にしまうわけにはいかない。まっ白な鳥が空を飛ぶのだから、近所の人はだれも気がついている。そのだれもが、気づいていて、知らんふりをしている。自分だけが知っている秘密だと思いこみたいのである。
 ある日、妻が道に出ていると、幼稚園ようちえんに行っている近所の男の子が顔をまっかにして走ってきて、息をはずませながら妻にいった。
「ぼく、いま白鳥にさわっちゃった。ほんとだよ。でも、おばさん、ないしょだよ。白鳥のこと、ぼくしか知らないんだから。」
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 その話を私にした妻は、しかしこのことはむすめには黙っだま ていましょうよといった。むすめに話せば、彼女かのじょが自分だけの秘密をとられたようにがっかりするだろうからというのである。むすめにすれば、白サギにちょっとでもさわってみたいと、どんなに願っていることだろう。
 ところが、むすめがひとりで白サギをそっと見にいったある日、ねこに追われてみょうな鳴き方をして彼女かのじょの前へ山から走り出てきた一羽の小綬鶏こじゅけいねこから救ったのだった。
「びっくりしちゃった。あんなことってほんとうにあるのね。わたし、小綬鶏こじゅけいを助けてあげたのよ。でも、これもほかの人にはないしょ。」
 その日からむすめは、小綬鶏こじゅけい与えるあた  握りにぎ の米をかくし持って、白サギと小綬鶏こじゅけいを見に、そしらぬふりをして山へ出かけていくようになった。命を助けてやった一羽の小綬鶏こじゅけいも、彼女かのじょの秘密にくわわったのだ。
 やがてその小さな山に、小綬鶏こじゅけいたちがめざましい声でさえずる春が訪れる。私が徹夜てつやの仕事を終えて外をのぞくと、まだだれもが眠っねむ ている夜のしらしら明け、母親鳥を先頭にひなたちが一列に並び、しんがりを父親鳥がうけたまわって、小綬鶏こじゅけいの一家が道を散歩している姿を見かける。その季節には白サギの夫婦は山を去っているだろう。
 だが今年は、私の住む町の近くに、彼らかれ のもどっていく水田があるだろうか。わずかに小綬鶏こじゅけいたちが住みついている東のちっぽけな山も、市の保存林としての期限が数ヵ月かげつ後には切れる。それを知っているから、わが家の近所の人たちはおとなも子どもたちも、十年ぶりに山にやってきた二羽の白サギを、ひっそりとながめているのかもしれない。それぞれの夢を白鳥に託したく ているのである。

佐江さえ衆一『それぞれの白鳥』)
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a 読解マラソン集 7番 ひとりの人間の内部に ra3
 ひとりの人間の内部に発生している状態と極めてよく似た状態が、もうひとりの人間の心の内部に生ずる過程、それが共感である。そして、それはしばしば、生理的な次元でも発生する。
 たとえば、痛みの経験だが、母親と子どもといった細やかな関係のなかでは、痛みに単に想像上経験されるだけでなく、実際の生理的な痛みとして体験されることがある。子供が、「痛い」というたびに、母親もその部分がほんとうに痛くなったりするのだ。
 もっと単純な生理的共感は、たとえば、乳離れちばな したばかりの幼児にものを食べさせたりする時の親子の情景を思い浮かべおも う  てみればよくわかる。子どもにアーンと口をあけさせるとき、自然と親の口も、そんなふうに開かれてしまう。親が口をあけるから子どもがそれを模倣もほうしているのだともみえるが、子どもが口をあけるのに釣りつ こまれて、親が口をあけてしまうようにもみえる。そんな経験は、だれでももっているはずである。
 親しい人間同士を形容して、「ともに笑い、ともに泣く」という表現が使われるのは、このような共感能力と関係する。ある人間のよろこびがそのままもうひとりの人間のよろこびになる、というのは、ふたりの人間の間に高度な共感が成立するということだ。ひとの悲しい経験に「もらい泣き」したり、おもしろい話に「釣りつ こまれ」たりという表現は、すべて人間同士の間ではたらく共感のふしぎな作用を表しているといってよい。この共感作用は、「同一化」ということばで説明される過程とかさなりあう。同一化とは、相手方の置かれている状況じょうきょうだの、相手方の内部で発生している状態だのと似た状況じょうきょうや状態を体験することだ。それは、われわれが映画を見たり、小説を読んだりするときのことを思い出してみたらいい。
 たとえば、手にあせをにぎるような大活劇というのがある。映画館のスクリーンの上では、ビルの屋根の上をとんで渡っわた たり、スポーツカーで追跡ついせきをしたり、という活劇が展開している。それを見ているうちに、われわれはその活劇に釣りつ こまれる。スポーツカーが走りまわっている場面では、あたかも自分がその自動車を運転しているような気持ちになって、目の前に突然とつぜんガケが現れたりするとハラハラしてしまう。ビルの屋上に追いつめられて、となりのビルにとび
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移る場面では胸がドキドキする。まさしく「手にあせにぎる」のである。そして、そのときのわれわれは、映画の中の登場人物に自分自身を置きかえているとはいえないか。
 小説を読んでいるときもそうだ。主人公の境遇きょうぐうだの、人生の設計の仕方だの、われわれは小説を読み進めるにつれて、主人公の立場と自分とを密着させてしまう。主人公が悲しければ、読者であるわれわれも悲しくなる。主人公がよろこべばわれわれもよろこぶ。われわれは主人公の「身になって」しまうのである。
 共感あるいは同一化が、どんなふうにしてわれわれの内部で発生するのかはよくわかっていない。しかし、われわれは事実の問題、あるいは体験の問題として、共感の現象があることを知っている。われわれは「相手の身になる」能力をもっているのである。

加藤かとう秀俊ひでとし「人間関係」)
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a 読解マラソン集 8番 書物はいつの世にも ra3
 書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだと私は思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。展覧会も至る所で開かれている。だからといって、音楽を能率的に聴きき 、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する限り速読を目指すのはどういうわけなのだろう。おそらく、書物というものが鑑賞かんしょうするというより知識の伝授の媒体ばいたいと思われているせいであろう。確かに本とレコードでは違うちが 。本のほうがはるかに多目的である。鑑賞かんしょうするというよりは、情報を得たいために読まれる本のほうがずっと多いだろう。そんなことは十分承知の上で、なおかつ、私は遅読ちどく勧めるすす  。 
 速く読むということは一見能率的のように思えるが、結局は損をすることになる。私も必要に迫らせま れて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いでよんだ本に限って、あとに何も残っていない。そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、全く読み違えちが ていたことに驚くおどろ のである。こうなると、速読するよりは読まないほうがましである。なぜなら、誤解は無知よりも有害だからである。
 そんなことを言っても、必要に迫らせま れて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。しかし、必要に迫らせま れたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に迫らせま れる以上、あくまで誤解は許されないからだ。たとえ明日までにどうしてもこの一冊を読み上げねばならないという必要に迫らせま れた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を閉じたらいい。そのほうが、いい加減に斜めなな 読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
 遅読ちどく勧めるすす  もう一つの理由は、いくら速く読んでみたところでたかが知れているということである。どんなに速読の技術を身に付けたところで、二倍のスピードで読めるものではない。仮に二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだときの二分の一に過ぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半
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分が前に述べたように誤読に陥りおちい やすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気付くであろう。実際、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその選択せんたくが大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる効果を持つのである。
 わずかな本しか読めなかったなら、それだけ視野は狭くせま なり、とても現代に追い付いていけないと言うかもしれない。確かにそういった不安が現代人を速読へと駆り立てか た ている。だが、そんなことは決してない。十冊読む人よりも五冊読む人のほうが視野が広く、立派な見識を身に付けているというようなことはざらにあるのだ。読書の価値は何冊読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。
 私は、読書とは「よしずいから天井てんじょうをのぞく」ことだと思っている。ふつうこの言葉は、そんなちっぽけな穴から天をのぞいてみても、広大な天のほんのわずかな部分が見えるだけだ、とその視野のせまさを笑ったものと解されている。確かにそういう意味だろう。しかし、実際にのぞいてみると分かるが、よしずいからでも結構天は仰げるあお  のである。いや、むしろ小さな穴からのぞいたほうが対象がよく見えることも多い。 
とにかく、本はゆっくり読むに限る。ゆっくり読めば一冊の本はどれほど多くを語ってくれることか。読書とはただそこに書かれていることを理解するという単純な作業なのではなく、いかにして、書物により多くのことを語らせるかという技術なのである。それは、優れたインタビュアーが相手からおもしろい話を十分に引き出すことができるようなものだ。性急な読書では本は何も語ってくれはしない。仮にその内容を要領よくつかんだとしても、ただそれだけの話である。それでは本を読んだというより、本をつかんだというに過ぎない。
 読書とはあくまで著者と読み手の対話なのである。読み手が時間をかけてゆっくりと問いかけなければ、著者は、それこそ通り一遍いっぺんの答しかしてくれないのである。

(森本哲郎てつろう遅読ちどく術」)
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