a 読解マラソン集 9番 まずレンゲを ra3
 まずレンゲを一株だけ、根ごと掘りほ とってみる。力まかせに抜くぬ のではなく、棒切れか竹べらか、あるいはナイフを土に突き立てつ た て、なるべくそっと掘りほ 上げる。指でつまんで土を丁寧ていねいにもみほぐすようにして落とすと、根があらわれる。付近の用水こうの水で洗ってみると、いっそう根の様子がよくわかる。一本の太い根と、枝分かれしたたくさんの白っぽい根がある。そのヒゲ根のあちこちに、米つぶ形の長さ三〜五ミリほどのつぶがたくさんくっついているだろう。少し赤みがかっている。
 このつぶが曲者だ。これはじつはチッソ工場なのである。この中に根瘤バクテリアこんりゅう     という特別な細菌さいきんが住んでいて、根のまわりやすき間などの空気の中のチッソ化合物に変える働きをしている。稲刈りいねか をした後の田んぼにレンゲの種子をまいておくと、翌年の田植えまでの間にレンゲが生長し、根につぶができて多くの水溶すいよう性のチッソ化合物が生産され、レンゲはこれを栄養にしてますます生長する。これをスキで掘り起こしほ お  、くだき、土と混ぜる。つまり肥料にするわけで、緑の草の肥料という意味で「緑肥」と呼ぶ。現金収入の乏しかっとぼ   た農家が、科学肥料を買わずとも田んぼの土を富ませられる手段だったわけである。
 この方法は昭和十年代が最盛で、二十年代には半分に減った。最近では人手不足の代わりに現金収入のふえた農家が、手間の簡単な「金肥きんぴ」――化学肥料をどしどし使うので、田園全域が赤い花に敷きつめし   られるという風景は少なくなった。レンゲはもともと日本には生えていなかった、と考えられる。中国大陸の原産で漢名を紫雲英しうんえいまたは翹揺ぎょうようと言い、「緑肥」として栽培さいばいがさかんに行われ出したのは明治中葉と言われている。
 レンゲの花が終わり、野を占めるし  ものの主役が虫媒花ちゅうばいかからイネ科の風媒花ふうばいかに変わるころ、田園の風景はにわかに色どりを失う。小学校の図画の時間、私も、級友たちも、いっせいに緑の絵の具が欠乏けつぼうしたものだ。赤やピンクやむらさきなど、派手な色を使いたいのはやまやまなのだが、見渡しみわた てみても、空は青、山は緑、屋根は草ぶきで
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焦げ茶こ ちゃ色。色数はそれだけしかないのだ。だから、春の野の花の鮮やかあざ  さは、農民たちには一種の救いであり、よみがえり来る生の季節の象徴しょうちょうとして喜ばれたのだろう。キンセンカ、ヤグルマギクに始まって、種子とりには不必要なほど多量のシュンギクの花が、抜きとらぬ   れもせずに咲くさ にまかせてある。不精なのではない。単なる風流でもないように思われる。少しでも風景を色どり豊かにしようと心がけてきた農民たましいのあらわれなのである。
 かつて大和の飛鳥ではレンゲ論争というのがあった。村長さんが音頭をとって、農家にレンゲの種子を配り、休閑きゅうかん田にまこうと奨励しょうれいした。観光客の誘致ゆうちのためである。「日本のふるさと」というキャッチ・フレーズのポスターには、ぜひとも野にみちるレンゲの赤が必要だ。レンゲにうずまる田園こそ、訪れた都会人たちの心をなごませ、楽しかった少年時代への郷愁きょうしゅうを呼ぶ――。植物学者のKさんがこれに抗議こうぎした。もともと日本にレンゲはなかった。古代の飛鳥の風景はもっと淡彩たんさい素朴そぼくであった。飛鳥が「日本のふるさと」ならば、そうした「ふるさと」の真実を訪問者に知らせることが大切なのだ。レンゲまきをすすめるなど邪道じゃどうだ――。
 春に咲くさ 野の花は、黄色の花が多い。量の多いタンポポやジシバリ類、キンポウゲ類、ヘビイチゴ類がすべて黄色で、白い花はハコベにしてもタネツケバナにしても小形で目立たない。これでレンゲがなかったのだから、古代日本の田園の風景は、もっと地味で寂しいさび  眺めなが だったにちがいない。そのような風景を眺めなが て、私たちの祖先は暮らしていたのである。

日浦勇ひうらいさむ『自然観察入門』)
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a 読解マラソン集 10番 最近、「手づくりの味」ということが ra3
 最近、「手づくりの味」ということが盛んに評価されている。文字どおり人間が素手で、せいぜい小道具を使う程度で、つまり大型の機械力を頼らたよ ずに作り出した製品についていわれるのが、この言葉である。かつては質素な日用品であり、今や趣味しゅみの対象と化した産物に対し、「民芸品」または「工芸品」という新しい呼称こしょうが付けられるようになった。手づくりの味の再評価とは、言い方をかえると、民芸品ブームということになる。
 伝統保存のため作られているという薩摩さつまがすりの場合を考えると、必需ひつじゅ品ではないまでも、日常の衣類として着ることが可能である。つまり現代社会において、実用品としての機能も、まだ保持しているわけである。ところがもっと極端きょくたんになると、例えば自分たちで手づくりの「わらじ」をこしらえ、これを履いは て楽しんでいるグループがある。わらじは、実用的意味を今ではほとんど持っていない。そういう非日常的な希少性だけが、その存在を支える価値だと言えよう。
 民芸品と呼ばれる産物と、その昔の同種の製品とが似て非なるものであることは、製作された環境かんきょうに目を向けた時、明らかになってくる。現在、そのような民芸品を職業として作っている。そういう人の数は多くないが、世間はこの人々のことを、職人よりも芸術家として待遇たいぐうする。また、職業ではなく趣味しゅみとして、手づくりに精出している人々もいる。作ること自体が楽しみになっている。生活に追われているだけでは、とてもできないことで、ある程度のゆとりがあればこそ、そういう世界に浸れひた る。これは一種のぜいたくと言えるであろう。日曜大工にしても同様で、家計の補助にと、無理して作っている人もないことはないかもしれないが、それが主流とは考えられない。日曜大工のほとんどは、余暇よかの利用を兼ねか た一石二鳥にちがいないのである。今の民芸品が日用品だったその昔、こういった状況じょうきょうはとうてい考えられなかった。日用品の大部分は、貧しい民衆が生活に追われ続けながら汗水あせみずたらして作っていたのである。 最近の「手づくり」への回顧かいこ趣味しゅみを見たとき、このあたりに根本的な誤解があるように感じられてならない。民芸品の独自の個性を愛好することは自由である。しかし、それはあくまでも民芸品であって、その昔の相似の製品とは別のものである。民芸品をな
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がめ、「明治以前の日本人はこんなすばらしい技芸を持っていたのに、今は全く顧みかえり ず、機械文明のあとばかり追っている。」と、したり顔に批判する現代人こそ、恐れおそ を感じてしかるべきではあるまいか。かつてそれらの産物を作り出した民衆が、その境地からの脱出だっしゅつをどれほど渇望かつぼうし続けたことか。その中から生まれたものこそ、今の民芸品の原型だったのである。

筑波つくば常治「自然と文明の対決」)
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a 読解マラソン集 11番 ものを移すとき ra3
 ものを移すとき、いちばんやさしいのは物理的な移動である。任意のとき、任意の場所へ、そのまま移動できる。移されたものは、前の場所と新しい場所の違いちが などによってほとんど影響えいきょうを受けるということはない。たとえば、ヨーロッパから運ばれてきた机は着いた瞬間しゅんかんから机としての機能を発揮する。
 明治以来、わが国はおびただしい品物を外国から輸入してきた。品物は、手を加えずにそのまま移動できるので、手間がかからなくてよい。その方法を精神的文化財の輸入にあたっても適用してきたのではあるまいか。外国で流行していたり、重視されていたりする学問や芸術があると、すぐにそのまま持ってくる。なにしろ、これまで外国の学問をしてきたのはえりすぐりの人たちであるから、学問、芸術についてのこういう物理的な移動が、一応はできたように見えるのである。そして、人々は、しだいに文化が無生物ではなくて生命を持った有機体であることを忘れた。
 学問や芸術のような生き物を移すのは、植物的な移動、すなわち、移植でなければならない。たとえば、どんな小さな木でも移すとなれば品物を動かすように簡単にはいかない。まず、移植できるかどうかをあらかじめ考える必要がある。どんなにきれいな花が咲いさ ているからといっても高山植物を自分の庭先に移植することはできない。受け入れ側の風土、地味、気候などがその植物に適合しているときにはじめて、移植が現実の問題になるのである。すぐれたものならなんでも、どこへでも移すことができるようにわれわれは考えがちであるが、根づかぬものはいくらでもある。
 外国の文化を取り入れようとするとき、なるべく元のままを、というのは人情であるが、これも移植の立場からすると考え直す余地がある。移植ということは植物にとって恐ろしいおそ   危険を伴うともな 試練である。少しでも余分なものは取り除いて負担を軽くしなくてはならない。移植が枝を落として行われるのはそのためである。あるがままのものをあるがままの姿でそっくり移すというのは、ことばの上だけならばともかく、実際にはきわめてむずかしい。
 では、そういう困難をおしてまで移植する必要がはたしてあるのだろうかということになるのだが、よそに咲いさ ている花が美しいということになれば理屈りくつ抜きぬ でほしくなる。そこでいちばんてっとりばやい方法は、一枝手折ってきて花びんに生けておく手である。しかし、一時は美しくても、こういう花の命が短いのは当然である。われわれの最も多くお目にかかる外国文化の紹介しょうかいは、この手の生
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け花的なもので、移ろいやすい。日本には昔から、ももくり三年かき八年ということわざがある。植えてもすぐ実がなるものではないという教訓である。外国の文化を紹介しょうかいしようとしている人が、この程度のことを、文化の移植に関して考えていないとしたら奇妙きみょうなことである。それはおおげさにいえば移植の美学ともいうべきものだが、そういう関心が欠けていて、外国の文化がどうのこうのというのは、とにかく外国からものを買ってきて、上等の品物であると得意になっているようなものである。日本独自の文化が育たないのはむしろあたりまえのことであろう。移植した木が、根もおろさず新芽も出さぬうちに、もう次の木をすぐとなりに移してくる。八年はおろか三年も待っていては時代に遅れおく てしまうように思う。しかも、移してくるものが、申し合わせたように花盛りのものばかりときている。こういうものは、新しい土壌どじょうに根づいて、新しい花をつけるまでに、特別に長い時間を要するはずである。それを待つほどわれわれは気が長くない。性急に次の花に手を出す。これではいつまでたっても大木は育つまい。
 明治以来、わが国はずいぶん無理な文化移動を重ねてきた。移植の美学などにかかわりあっていられなかったのはいたしかたもないことであろう。しかし、これを全部不毛なりと決めてしまうのはどうであろう。島国という文化風土は、外来のものをなかなか受け入れない性格を持っているといわれる。百年にわたる欧米おうべい文化の摂取せっしゅによって、地味もだいぶ変わってきた。欧米おうべいから移されてくるものにもいくらかなじむようになっている。これまでに移植されて、もうだめかと見放されている木の中からも、ひょっとすると、そろそろ新しい芽を出すものが現れるのではなかろうか。なんでもかんでもだめだという絶望こそ、植物を立ち枯れた が させる有害な病気である。
 ユネスコが明治以降のわが国における翻訳ほんやくについての調査をするらしい。この調査も、これまでの移植のあとをもう一度振り返っふ かえ てみて、どの木がよく育ち、どれが枯れか たかを調べようとするものだとも解される。おもしろい仕事である。大がかりな調査はともかく、われわれ個人としてもよく考えてみるべき問題であろう。

(外山滋比古しげひこ「日本語の個性」)
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a 読解マラソン集 12番 ある夏の、ひどくむし暑い日 ra3
 ある夏の、ひどくむし暑い日のことだった。上の兄は学校へ行き、私と下の兄とだけが残されて、退屈たいくつしていた。二人はただ目的もなく大堰おおせぎばたの方へ歩いて行った。大堰おおぜきばたの水は流れが止まったように淀んよど でいて、岸には雑草がしげり、日ざしはじりじりと照りつけていた。そのとき兄は水面に近く、ふなを見つけたのだった。
 ふなは水温が上がり過ぎたために、苦しがって水面に浮かびう  、口をあけて喘いあえ でいた。それが意外にも五ひき、六ぴき……十ぴきもいた。私たちは興奮した。兄は流れの岸にうずくまり、手近なところに浮いう ている小鮒こぶなをそっと両手で追ってみた。ふな逃げるに  だけの気力もなく、黙っだま て兄の手に捕らえと  られた。それからが大変だった。水から上げたら魚は死んでしまう。ふなを水の中で捕らえと  たまま、兄はどうすることもできなかった。兄は顔だけをふり向けて、
「おい、うちへ帰って何か入れ物を持って来い。あきかんでも何でもいい。大急ぎだぞ」と言った。
 私は柔順じゅうじゅんな弟だった。いつも兄たちの命令には絶対服従だった。私は言いつけに従っていきなり走り出した。私自身、生きたふなを持って帰りたくもあった。だが、そこから私の家までは二百メートル以上もあった。私は日盛りの、人通りの絶えた乾いかわ た道を小さな下駄げたを鳴らして夢中になって走った。あせを流し、暑さに喘ぎあえ ながら家まで帰りつくと、あきかんを一つ見つけ出して、また同じ道を引き返した。その途中とちゅうで、石につまずいて転び、ひざをすりむいてしまった。私は痛みに耐えた 、泣きながら走った。それほど私は柔順じゅうじゅんな弟だった。そして兄を怨んうら でいた。川岸まで駆けか 戻っもど てみると、兄はまだ元のところにうずくまって、一ひき小鮒こぶなを両手でつかまえていた。兄は家に帰ってから、(おれがったふなだ)と言った。私はそれが不満だった。
 ふなよりも、私はトンボが好きだった。一番大型のオニヤンマは大型という魅力みりょくはあるが、黒と黄色のだんだらしまで下品だった。つか
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まえたことのうれしさはあるが、少年の心を陶酔とうすいにさそう「美」がなかった。そこへいくと、ギンヤンマという、あの中型のヤンマの美しさは私をうっとりさせた。私はほとんどヤンマを尊敬していた。
 夕方になると、時として私の家の前の道路に、無数のヤンマが飛んでくることがあった。おびただしい数だった。ところがその時刻がちょうど私の家の夕食だった。夕飯を食べながら、私は気が気ではない。はしを投げ出すなり土間に飛び降り、下駄げた突っつ かけると同時に竹竿たけざおをつかんで駆け出すか だ 。ヤンマの群れの中で、やみくもに竹竿たけざおをふりまわすと、羽が切れたり、が切れたりして落ちてくる。時として全身無傷のヤンマを取ることがあった。これは私たちの宝物だった。魚籠びくに入れて、布でふたをして、持って帰る。小部屋を閉め切って、ヤンマを飛ばしてみる。その飛び方の優雅ゆうがさに私は見惚れるみほ  のだった。

(石川達三「私ひとりの私」)
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