洞察やひらめきによって今まで見えなかったことが弁別できる、わからなかったことが腑に落ちるということは誰でも経験することである。しかし、だからこそ、私たちはそこに介在している暗闇への跳躍に驚くことを忘れ、ついつい陳腐な数直線的時間観へと自分の生を写像してしまう。
しかし、本来、生というものは「一瞬先はわからず」「一瞬前は取り返しのつかない形で確定している」ということの繰り返しであり、そこに最大の驚異があるはずだ。たとえ一日の短い時間の中でも、不確定から確定への跳躍がその中にいくつあるかということを思えば、そこには真に瞠目すべき私たちの人生の、そして意識の流れの属性がある。(中略)
無限というものを、一気に俯瞰できるようなその仮想の実体においてとらえるのではなく、可能体においてとらえること。1、2、3、……という自然数の数え上げにおいて、ある数の次にまた数があるということ自体が無限を保証しているように、私たちの生もまた、この瞬間の次に何が起こるかわからないという点において無限を保証されているということを直視すること。たとえ、その不確定性の中に自らの死というアクシデントが含まれていたとしても、その死への自由をも含む「何が起こるかわからない」という事態こそが、自然数の数え上げのごとき可能無限を担保する。
一日のうちに含まれる可能無限と、長き一生のうちに含まれる可能無限は、その質において同等である。そのような覚醒と覚悟を持って生きる時、永遠の命とは決して数直線のようなメタファーの中にとらえられるものではないということが首肯される。
死の床に就いた人の哀しみは、「次の一瞬に何が起こるかわからない」という意味での不確定性の幅が次第に狭まっていく点に由来する。確定したものとして未来の出来事を知ってしまった男が直面するであろう自由意志のパラドックスとどこか似ている。たとえ残りの時間が物理的な意味において少ない場合でも、「次に何が起こるかわからない」という不確定から確定への跳躍のときめきを
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