言語の階層化については 読解検定長文 高1 春 1番
言語の階層化については、 デイヴィッド・グラッドルの著書(一九九九)によくまとめられている。それによると、世界の言語階層の頂点は英語である。事実、英語は、現在世界で最もよく 普及し、最も広く利用されている。世界は、いま、英語に向かって集中の度合いを高めている。「言語 帝国主義」という 概念が広まってからすでに一〇年以上が過ぎたが、英語への一極集中は治まる気配がない。逆に、共通語としての期待が、ますます大きくなっている。英語は、成功の階段を 駆け上がるための手段と見なされているのである。
言語の国際市場は、いま、英語の売り手市場であり、世界はその反応に追われている。言語政策も外国語教育も、主役はいつも英語である。
通貨にたとえるなら、英語は、国際市場での 基軸通貨である。他の言語は、国内通貨としては何の不足もないが、国際市場では自由に身動きできない。その価値は、英語との 交換比率によって決定される。いま世界は、この新しい価値観に 振り回されながら、 基軸通貨の確保に 躍起になっている。
交換価値の低い言語の話し手は、競って英語の学習に精を出す。一方、英語を話す人は、最初から 基軸通貨を手にしているので、取引相手に対して有利な立場にある。アメリカ人やイギリス人が 一般に外国語学習に不熱心である理由の一つが、ここにある。
外来語の世界も、グローバリゼーションと言語の階層化の 影響を正面から受けている。どの言語も、外来語としての英語の助けなしには、日常的なやりとりにさえ支障を来たすようになっている。英語 嫌いで有名なフランス語の場合も例外ではない。英語からの流入が少ないとされていたトルコ語にも、同様の変化が起こっている。日本語に至っては、説明の必要はないだろう。
いま、外来語市場で取引の中心となっているのは、英語である。ここもまた、英語の売り手市場の様相を 呈している。他の言語は、自分たちの商品化をあきらめてしまった。英語という商品を買った方が便利なのである。なにしろ、どこででも手に入り、どこででも通用するのだから。こうして、たいていの言語が、 入超になった英語によって変容を 迫られることになる。∵
現在の世界は、英語の 影響から 逃れることはできない。どの言語においても、外来語としての英語はふえ続けるだろう。それを 懸念する向きもあるが、単純に異を唱えることも難しい。言語は、他の言語との 接触を通して豊かになる面があるからである。明治以来の日本語の成長を見ればよくわかる。それに、フランス語やドイツ語のように、すでに大言語としての地位を築いている言語の場合、英語の流入によってその構造が 歪められるということは起こらない。しかし、発展 途上国の言語の場合は、事情が 違う。近代 語彙が大きく不足している言語は、その分、大言語、とりわけ英語への 依存度が高くなるからである。
この文章の初めに、心理的な 越境こそが 鍵になる、と述べた。外来語への対応も、その例外ではない。地球上に 純粋な言語などというものは、ほとんど残っていない。言語に成長があると仮定すると、その成長は、異質の言語の存在によって 促進される。一方で、言語によっては、他の言語と 接触したために 衰退し、 極端な場合は死に至ることさえある。ロバート・ディクソン(二〇〇一)は、「小さい言語が生き残る 唯一の現実的な方法は、話者が他の世界から 隔絶された状態でいること――ニューギニアや南アメリカの密林の中にとどまることだ」と述べている。(中略)
いま、世界の言語は、英語という外来語によって変容を 迫られている。英語自身は、これまで外来語に対してきわめて 寛大であった。現在の英語は、三五〇以上もの異なった言語からの流入語を 含んでいる( デイヴィッド・クリスタル、一九九五)。その雑種性は、世界のどの言語も 対抗できないほどだという。その雑種言語である英語が、グローバリゼーションの旗手として、世界の言語にその雑種性をもち 込もうとしている。
(山田 雄一郎『外来語の社会学』)
研究に限らず、大事業の成功に 読解検定長文 高1 春 2番
【1】研究に限らず、大事業の成功に必要な三要素として、日本では昔から「運・ 鈍・根」ということが言われている。科学者の伝記を読むと、その人なりの「運・ 鈍・根」を味わうことができる。
【2】「運」とは、幸運(チャンス)のことであり、最後の 神頼みでもある。「人事を 尽くして天命を待つ」と言われるように、あらゆる 知恵を動員することで、逆に人の力の 及ばない運の部分も見えてくるようになる。【3】人事を 尽くさずにボーッとしているだけでは、チャンスを見送るのが関の山。運が運であると分かることも実力のうちなのだ。
【4】次の「 鈍」の方は、切れ味が悪くてどこか 鈍いということである。最後の「根」は、もちろん根気のことだ。 途中で投げ出さず、ねばり強く自分の納得がいくまで一つのことを続けていくことも、研究者にとって大切な才能である。【5】論文を完成させるまでの数々の自分の苦労を思い出してみると、「最後まであきらめない」、という一言に 尽きる。山の頂上をめざす登山や、ゴールをめざすマラソンと同じことである。
【6】それでは、なぜ「 鈍」であることが成功につながるのだろうか。分子生物学の 基礎を築いたM・デルブリュックは、「限定的いい加減さの原理」が発見には必要だと述べている。
【7】もしあなたがあまりにいい加減ならば、決して再現性のある結果を得ることはなく、そして決して結論を下すことはできません。しかし、もしあなたがちょっとだけいい加減ならば、何かあなたを 驚かせるものに出合った時には……それをはっきりさせなさい。
【8】つまり、予想外のことがちょっとだけ起こるような、適度な「いい加減さ」が大切なのである。このように少しだけ 鈍く抜けていることが成功につながる理由をいくつか考えてみよう。
【9】第一に、「先があまり見えない方が良い」ということである。頭が良くて先の予想がつきすぎると、結果のつまらなさや苦労の山の方にばかり意識が向いてしまって、なかなか第一歩を 踏み出しにくくなるからである。【0】
第二に、「 頑固一徹」ということである。「 器用貧乏」や「多芸は無芸」とも言われるように、多方面で才能豊かな人より、研究に∵しか能のない人の方が、 頑固に一つの道に 徹して大成しやすいということだ。 誰でも使える時間は限られている。才能が命じるままに小説を書いたりスポーツに熱中したり、といろいろなことに手を出してしまうと、一芸に 秀でる間もなく時間が経ってしまう。私の恩師の宮下保司先生(脳科学)は、「 頑固に実験室にこもる 流儀」を 貫いており、私も常にこの 流儀を意識している。
第三に、「まわりに流されない」ということである。となりの 芝生はいつも青く見えるもので、となりの研究室は楽しそうに見え、いつも他人の仕事の方がうまくいっているように見えがちである。それから、科学の世界にも流行 廃りがある。「自分は自分、人は人」とわり切って他人の仕事は気にかけず、流行を追うことにも 鈍感になった方が、じっくりと自分の仕事に 打ち込んで、自分のアイディアを心ゆくまで育てていけるようになる。
第四に、「牛歩や道草をいとわない」ということである。研究の中では、地味で 泥臭い単純作業が延々と続くことがある。研究は決して効率がすべてではない。研究に 試行錯誤や 無駄はつきものだ。研究が順調に進まないと、せっかく始めた研究を 中途で投げ出してしまいがちである。成果を得ることを第一として、スピードと効率だけを追い求めていては、 傍らにあって、大発見の芽になるような糸口を見落としてしまうかもしれないのだ。(中略)
頭のいい人は批評家に適するが 行為の人にはなりにくい。すべての 行為には危険が 伴うからである。 怪我を 恐れる人は大工にはなれない。失敗を 怖がる人は科学者にはなれない。(中略)
頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に 愚かな 赤裸の自分を投げ出し、そうして 唯々大自然の直接の教えをのみ 傾聴する 覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。
( 酒井邦嘉の文章)
タクシーに乗って 読解検定長文 高1 春 3番
タクシーに乗って、運転手と会話を交わす。そのような時、私たちは、当たり障りのない話題を選ぶ。今年のプロ野球はどうだとか、最近景気はどうですかとか、だれでもある程度興味を持つような、そしてあまりプライベートなことにかかわらないような話題について、いつ止めてもいいような形で会話を交わす。このような時、多くの人にとって、タクシーという、見知らぬ他人がいきなり密室の中で 一緒になって五分や十分の時間を過ごさなくてはならないという 状況でしか生まれないような「モード」あるいは「パーソナリティ」が現れる。だからこそ、私たちは、タクシーを降りた時に、「今まで快活な会話を交わしていたあの私は何なのだろうか?」という疑問とともに、ふーっと「我に返る」ような感覚を持つ。
私たち人間は、その日常におけるふるまいをじっくり観察してみると、必ずしも常に同じ「自分」を 貫いているわけではない。友人としゃべっている時、 恋人としゃべっている時、学校や会社の 同僚としゃべっている時、コンビニの店員としゃべる時、迷子の子供に名前を聞いている時、ホテルに予約の電話をかける時、……それぞれの時に、少しずつ異なる自分が立ち上がっていることは、少し自省してみれば、明らかなことだろう。このように、 状況に応じて少しずつ異なる自分が立ち上がることを、私たちは通常「ふり」をするとは言わない。「ふり」をするということは、「よいカードが来たのにポーカーフェースをする」、「 誰かのマネをする」、「知っているのに知らないふりをする」など、かなり意図的に自分の行動を 偽装する場合に限られると 普通は考えられている。しかし、私たちの日常の行動を観察してみると、実はそのような意図的な場合以外にも、あらゆる場面において 普遍的に「ふり」が成立していることがわかる。
以上のようなことを考えると、「ふり」をするということを、「意図的に何かのマネをする、意図的に何らかの心の状態を 偽装する」というような 狭い意味でとらえるのではなく、より広い意味で再定義する必要がある。その際、 鍵になるのは、「そうしないこともできるのに、そうしている」ということである。タクシーの運転手と会話している時、私たちは愛想よくプロ野球の会話をしないでおこうと思えばそうできるのに、会話している。もちろん、「そう∵しないこともできる」という可能性を、常に意識しているわけではない。意識した場合には、より 狭義の「ふり」(pretend)に近いと言えるが、意識していない時も、 狭義の「ふり」をすることに近い何かが認知プロセスとして進行しているのである。
「そうしないこともできるのに、そうしている」というのは、まさに、子どもが「ごっこ遊び」をしている 状況にあてはまる。 怪獣のふりを止めようと思えばいつでも止められるのに、あえて、「ガオー」とか、「やられたあ」などと 叫ぶ。 端から見れば、なんでそんなことをしているのだろうと思えないわけでもない。しかし、同じことは、「ごっこ遊び」とは一見無関係な、タクシーの中や、学校の授業や、会社や、家庭や、電車の中や、それこそ人間社会のありとあらゆる場面で見られる。
母親は、母親でないようにふるまうこともできるのに、子どもを前にすると、あたかも母親のようにふるまう。同じ母親が、学生時代の同級生と 喫茶店で会う時は、キャッキャッと笑ってまるで女の子のようになる。だったら、なぜ、自分の子どもを前にキャッキャッと笑ってまるで女の子のようにならないのかといえば、まさに「そうしないこともできるのに、そうしている」、あるいは、もっと強い何らかの力によって、母親であるという「ふり」を、半ば無意識のうちに自然にしている(させられている)のである。
このように考えれば、「そうしないこともできるのに、そうしている」という意味での「ふり」という現象は、それこそ朝起きてから 眠るまで、人間が生活している現場で常に起こっている 普遍的な現象であるということがわかる。さまざまな「ふり」の間を 柔軟に行き来できるということが、私たち人間のすぐれた特性であると言うこともできるのである。
( 茂木健一郎の文章)
新しい言葉の指す 読解検定長文 高1 春 4番
新しい言葉の指す新しい 事柄を人はどうやって理解するのか。そこにはほとんど常に、 既知の 事柄へのなぞらえという作業があるのではないだろうか。こうした観点から「なぞらえ」が人の 概念体系の根底にあることを説くのがレイコフとジョンソンである。
彼らの共著『レトリックと人生』の 主旨を一言で要約するなら、「われわれが 普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいている 概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立っている」ということである。 彼らの言う「メタファー」は表現 技巧としての 隠喩ではない。理解や思考のための方略である。 彼らの規定によれば「メタファーの本質は、ある 事柄を他の 事柄を通して理解し、経験することである」。この「メタファー」を日本語にするならば、「 隠喩」よりも「なぞらえ」という方が適切であろう。 即ち彼らのメタファー論とは、なぞらえ論にほかならない。「筆者らは人間の思考過程の大部分がメタファーによって成り立っていると言いたい」という 彼らの主張は、人の思考がロゴスよりも「なぞらえ」に 依存しているということである。
彼らは「 概念」を、「固有の属性」によって定義されるものではなく、むしろ各人にとっての意味であり、従って各人が理解しているもののことであると考える。そして、ある 概念についての私たちの理解は、その大部分が他の 概念へのなぞらえによってなされているとする。ただし、それは一観念を他の一観念と 比較することではない。「理解というものは、経験の領域全体に基づいて生ずるのであって、個々の観念に基づいて生じるのではない」からである。 言い換えれば、私たちが理解するものはコトの経験という全体であって、個々の観念はその構成要素にすぎない。むしろ観念はそのコトの中に位置づけられることによって意味を得るのである。「なぞらえ」とは、 既に理解ずみの経験領域に基づいて未知の経験領域を理解することである。そこで理解されるものは、二つの領域に共通する経験の「型」である。これをレイコフらは「経験のゲシュタルト」と呼ぶ。「なぞらえ」とは、ある領域に、別の領域の「経験の∵ゲシュタルト」をあてはめて、その 事柄を理解することなのである。たとえば「議論」についての理解は「戦争」のメタファーに基づいていると 彼らが言うとき、それは議論というコトの経験の領域全体、 即ち開始があり、敵と味方があり、 攻撃と 防御があり、勝利と敗北があるという、議論経験の全体が「戦争」と同じ構造をもつものとして理解されているということである。
さらにレイコフらは言う。
「重要なことは、私たちは単に戦争用語を用いて議論のことを語っているだけではないということである。議論には現実に勝ち負けがあり、議論の相手は敵とみなされ、相手の議論の 立脚点(= 陣地)を 攻撃し、自分のそれを守る。優勢になったり、 劣勢になったりする。戦略をたて、実行に移す。自分の議論の 立脚点(= 陣地)が守りきれないとわかれば、それを 放棄して新たな戦線をしく。議論の中でわれわれが行うことの多くは、部分的ではあるが戦争という 概念によって構造を 与えられているのである。」
もちろんレイコフらが念頭においているのは英語の「議論」の 概念だが、日本語でも事情は変わらないだろう。もっとも文化が 違えば 概念が 違うことはありうる。そこで 彼らは「議論」を「ダンス」のメタファーによって理解している文化を想像してみる。論者は 踊り手とみなされ、議論の目的は見た目に美しく論じあうことになる。多分人々は議論について「息が合わない」とか「創造性に 乏しく単調だ」とか「中だるみはあったが最後はうまく決まった」などと語るだろう。そして言うまでもなく、 概念の異なる文化においては、行動も異なるであろう。
「われわれは議論を戦争とみなし、戦争をするような議論の仕方をするが、 彼らはダンスとみなして、ダンスをするような仕方で議論をする、ということになるであろう。」
私たちの 概念のほとんどは、他の 概念への「なぞらえ」によって理解されているということである。従って、私たちの 概念体系は「なぞらえ」を原理として構築されているということである。
( 尼ケ崎彬の文章)
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