怠け者でいくじなしの 読解検定長文 高1 春 1番
怠け者でいくじなしののび太は、ドラえもんの道具さえ使えば何でもできると思い、ますます努力を 怠る傾向がみえる。ドラえもんの道具に 依存症を示し、ドラえもんはそれを 嘆きつつも、友であるのび太に 奉仕せずにはいられない。いつも最後にはのび太が道具の使い方を誤ったり、悪用して問題を引き起こし、しっぺ返しを受ける。どんなにすぐれた道具を 与えても、誤用し悪用するのはいつも人間だというのだ。底知れぬ力を秘めた道具を不用意に貸し 与えたドラえもんがとがめられないという問題はあるにしても、人間のドラえもんに対する絶対的な 信頼は、ここに起因している。
アトムはことあるごとに自ら飛んで行って、すべて自分一人でやろうとする。それは、ひとつの動力から発生する力を歯車やベルトコンベアで分配して使うのと同じ発想で、アトムは工業時代の原理を体現している。しかし、力だけならばロボットの助けを借りるまでもなく、ガンダムのバトルスーツや『エイリアン2』のパワー・ローダーのように、自己の力を 増幅する方法を 既に人間は思いついている。または『ロボコップ』のように自分をサイボーグ化する方法もあるかもしれない。
一方、ドラえもんは自分が何かを行うのではなく、心を持ち合わせていない道具に機能を 託して、それを人間に使わせる。アトムは何かをなす判断を自らが下したが、ドラえもんは道具の機能に精通し、必要な道具を取り出して、その使用方法を説明するだけだ。その意味では、ドラえもんは最上のマニュアルであり、生き字引ならぬ生きマニュアル、ウォーキング・マニュアルなのだ。道具を使用するかどうかの判断は、あくまでも人間に委ねている。ドラえもんの場合には機能を道具化することによって、心をもった人工物のフェイル・セイフを 施しているのである。アトムにはそれが欠落していた。
最近ではSFが、科学技術に 遅れをとった裏返しとして、過去の技術に注目するようになっている情報技術の革命を経験することなく、過去の蒸気機関や時計じかけの技術がそのまま発展していたらどうなっていただろうかという設定の作品が増えている。こういった設定を、サイバーパンクに引っかけて「スティームパンク」と呼ぶらしい。この種の古典としてはいうまでもなく『メトロポリス』があるが、最近のスティームパンクの作品としては、ウィリアム・∵ギブスンとブルース・スターリングの『ディファレンス・エンジン』、 宮崎駿の『天空の城ラピュタ』、ティム・バートンの『シザーハンズ』などがある。『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』の蒸気機関車のタイムマシーンや、『未来世紀ブラジル』にも、スティームパンクの 傾向が表れているし、古いところでは チェコスロヴァキアの映画『 悪魔の発明』がある。スティームパンクが 描く古風な機械は、機能が 顕在化しているので視覚化しやすい。スティームこそ出していないが、ロケット 噴射で実際に移動をして、せっせと活動している姿を 描く『 鉄腕アトム』は、スティームパンクなのかもしれない。
コンピューターを使いやすくするために、エイジェントというものが提唱されている。一九八八年に アップル・コンピューター社が未来のマシーンを構想して視覚化したビデオクリップ「ナレッジ・ ナヴィゲーター」では、エイジェントが使われていた。 蝶ネクタイをした男性の秘書がディスプレイ上に現れて、外部データベースを 検索したり、かかってくる電話を選別する。
人工知能を利用した一種の秘書であるが、あえてエイジェントと言って人工知能と区別しているのは、決断はあくまでも人間が行なうからである。本人の代理としてエイジェント同士で会話した場合、どうなるのかという気がするが、エイジェント同士での取りきめはできないようになっているのだろう。エイジェントは使用中に利用者の特性を 記憶してゆく。エイジェントを「 雇用」する利用者は、特定の個性を持つエイジェントを選ぶことができる。
高度成長時代の担い手が、テクノロジーの 粋を集めたロボット、 鉄腕アトムを見て育ったように、われわれの子どもは、すべてを 成し遂げるエイジェントであるドラえもんを見て育っている。『 鉄腕アトム』がロボットに対する心理的 抵抗をなくした後、日本ではロボットが急速に 普及した。それと同じように、ドラえもんはエイジェント 普及を先導しているのだろうか。
( 浜野保樹『中心のない迷宮』)
人の生活を支えるシステムには 読解検定長文 高1 春 2番
人の生活を支えるシステムには、 不如意なことや予測し得ないことが起きても対処できるような仕組みが、本来あるはずだ。ところが、昨今の事件に対する社会の反応を見ていると、この 柔軟性を欠いているように強く感じる。
例えば、小学校に変わり者が乱入した。すると、変わり者がいつ現れても 大丈夫なように、警備員を配置し、登下校には親が 付き添い、絶対に再発しない形を目指す。台風で窓が割れないようにと、窓のない家を作るようなものだ。
いつ何が起こるか分からないシステムは信用しないことにしようという方向に、社会全体が進んでいる印象を受ける。しかし、いつ何があるか分からないけれどまず信用する、というのが人間関係の基本であるはずだ。薬と言われれば、プラシーボ( 偽薬)効果で、うどん粉も効くことがある。信用が根底にない社会は悪事を増やす一面がある。
本来めざすべき形は、子供たちがよりよい 環境の中で、自然とも地域の人間とも親しみつつ、教育の成果を上げることではないか。ところが、いざことが起こると、 泥縄式に、すべてを変えようとする。
この 傾向は、世の中 全般に見られる。例えば、今月の目標値を定めると、数字が独り歩きし、それに達しないと満足できなくなる。本当に大事なのは取り決めではなく、取り決める時の 状況。しかも 状況は刻一刻と変わる。今の 状況では、その時決めた数字はおかしいかも知れないのに、 顧みることもない。
例外的なことが起こっても 揺るがないシステムが、かつての日本にはあった。それを私は「やおよろず的」と呼んでいる。いろんな価値観の並立を認め、いろんな考え方があっていいんじゃないのという 寛容心に包まれた社会だ。
パソコンで言うと、日本人のベースにあった基本ソフトが「やおよろず」ソフトだった。「 和魂洋才」と 称し、外国の様々なアプリケーション(応用)ソフトを持ってきて使えた。キリスト教は悪と言っているが、イスラム教ではどうも 違うぞ、という風に。
今、この基本ソフトの教育がないまま、応用ソフトばかりをたた∵きこまれた 弊害が、一挙に 噴出している。多様なものを単一化、画一化するという形で。 企業は経済原理だけで 合併を進め、政治も単一化につぐ単一化。個人のレベルでは、アイデンティティー(単一の個性)によって 縛られる。統一的なアイデンティティーを前提にすると、そこからはみ出すものは異常、となってしまう。人格の「ゆらぎ」を誤差として認めない。
ただ、「やおよろず」的な時代に時計の針を 戻すことはできない。まず行うべきは、カオス( 混沌)としての自然や身体を見直すことではないか。現代社会は、「身体」をあまりにも軽視している。日本語では、「身」「心」という。「身」には「心」が混じっているし、「心」には裏付けとして「身」が 含まれる。 相互に重なりあっていて、 西欧の精神・肉体の二元論とは全く 違う。これが日本の独自性だ。
「あいまいさ」は日本人の欠点のように言われてきたが、「身」によって伝わるものが共通認識としてあるからこそ、「心」を全部言語化しなくても分かり合えるということだ。共通認識の部分が、論理ですべてを理解しようとするロゴス(理性)主義の 西欧人より広い。欠点ではない。自信を持っていい。
人間は自然の一部。人間そのものもまた、大いなる自然。自然そのものに 矛盾はないが、自然を 解釈しようとする人間の頭の中に 矛盾が生まれてくる。自然の本質はカオスだから、ロゴスでは説明がつかない。何をするか、何が起きるかわからない自然というものを前提に、借り物でない、日本の実情に見合ったシステムを作り直す必要がある。
あまりに強く因果律にしばられた効率重視の社会を 越えるものの一つが遊びだろう。 禅には「 遊戯」という言葉がある。何かをして、それに見合った結果を後に期待するのではなく、今していることの中に楽しみを見いだし、人生の喜びにかえてしまおうという考え方だ。
七福神の精神をご存じだろうか。なぜ七福神がめでたいかというと、あの7人はどんな問題をぶつけても、必ず意見が割れるから。その代わり、6人が反対しても必ず1人は賛成してくれる。
「おれは 違うけど、お前も面白いね」と言って笑い合う態度。
( 玄侑宗久「 信頼喪失社会を語る」『読売新聞』)
耳にピアスをしている若者が 読解検定長文 高1 春 3番
耳にピアスをしている若者が目につくようになって久しい。以前は女性でさえイヤリングはしてもピアッシングまではしなかったものだが、最近はピアスをしている男性が少しもめずらしくなくなってしまった。
ことは日本に限らない。中国にはつい五十年ほど前まで 弁髪もあったし 纏足もあった。西洋にしたって同じだ。三百年ほど前には、たとえば女性は額を大きく 削り上げていたのである。コルセットにいたっては今世紀初頭まで残っていた。身体を傷つけないことこそ文明であると見なされるようになったのは、つい最近の出来事にすぎなかったわけである。おそらく、十八世紀の 啓蒙主義以降のことと言って大過ないだろう。その段階で文明に関する考え方が大きく変わったのだ。
いうまでもなく、動物は自分の身体を傷つけない。ただ人間だけが傷つけるのだ。とすれば、身体加工こそ人間の 特徴、すなわち文明であるということになる。ピアスをしたり、 毛髪を 特殊なかたちにしたりする若者は、したがってきわめて人間的であり、文明的であるということになる。ちょっとした逆説である。
刺青でも 抜歯でもいい。人間が人間になったのは、明らかに自分の身体を傷つけることによってである。それではなぜ人間は自分の身体を加工するようになったのか。自分が自分であることを確かめたいため、社会における自分の位置を明らかにしたいためだ。とすれば、人間は自分が自分であることを確かめずにはいられない存在なのだということになる。逆に言えば、人間は、確認しないかぎりは、自分が自分ではない存在なのだ。
これはとても興味深い事実だ。なぜならそれは、人間はじつは何にでもなれる存在だということだからである。 狐にでも 狼にでもなれる存在、木にでも石にでもなれる存在だということだからだ。実際、 憑依現象は人間の文化と 切り離しがたく結びついている。
憑依現象といえば、まるで未開や 野蛮の典型のように 響く。だが、そんなことはない。むしろ文明の 発端なのである。 類人猿に 憑依現象はない。人間は、 巨大集団を形成することによって他の動物には見られない力を発揮してきたが、それが可能になったのはこの 憑依現象によってなのだ。宗教や芸術の根底にも同じ 憑依現象が∵あると言っていい。
自分が自分であることを知るには、他人にならなければならない。人間の自己意識の仕組みは、そのまま社会の仕組みに重なっているのである。人間の社会が 類人猿の社会から 飛躍したのはこの仕組みによってだが、そのもっともカンメイな表れが 憑依現象だったわけだ。自己とは小さな 憑依現象であり、社会とは大きな 憑依現象であると言いたいほどだ。だからこそ人間は、 憑依現象の一形式としての 舞踊を、そして演劇を発明したのである。
難しいことではない。要は、人間は何にでもなれるということにすぎない。けれど、この自由はそのまま不安をも意味している。身体加工は、何にでもなってしまいかねない自分というものを、あるひとつの何かに固定する技術として成立したのである。とすれば、いま若者たちが自分の身体を加工することに熱中していることの背後にも、同じ不安が 潜んでいると考えるべきだろう。
問いはしたがって、若者たちに向けられるよりは、身体加工をしなくなった人間たちに向けられるべきなのだ。なぜ人間はこの二百年ほど不安を感じなくなったのか、と。
身体加工は 啓蒙主義の 頃から 廃れはじめた。おそらくその 頃から、自分は人間であると信じるだけで、不安がある程度は解消されるようになったのである。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい。これが人間主義すなわちヒューマニズム時代の標語だった。だがおそらくいまや、自分が人間であるといった程度のことでは不安が解消されなくなってしまったのだ。科学技術の 驚異的な発展とともに、人間はついに自分たちの不気味さに本格的に気づきはじめたとでも言おうか。
膨大な情報の 洪水のなかに 溺れながら、いま人間はふたたび、原始時代と同じ不安にさいなまれはじめているように思われる。
( 三浦雅士『考える身体』)
一九世紀の自由主義は 読解検定長文 高1 春 4番
一九世紀の自由主義は、危険とは 誰の目にも見えるもので、危険 回避は各自の自己決定に委ねればいいという考え方に 立脚していた。危険の経験的自明性と自由主義は内側でつながっていた。すなわちJ・S・ミルの『自由論』が出された一八五九年には、見えない 微生物が危険だという医学思想はまだ成立していなかった。病原体説の成立は、コッホによる 結核菌の発見が一八八二年であり、パスツールによる 狂犬病研究が一八八〇年以降である。自由主義の原則は、危険の経験的自明性というある意味では誤った想定の上に作られてしまった。
その後、われわれは見えない危険の時代を 迎えることになった。自動車を走らせると地球が温暖化する。だれもその因果関係を見ることはできない。手に取った黒土のひとかたまりにダイオキシンがどれだけ 含まれているか、見ることはできない。トウモロコシDNAの中の危険な塩基配列も見えない。 吹き寄せる風のなかの放射能も見えない。
現代で安全性を理解するためには、「地球全体で人間が空気の中にすてる炭酸ガスが原因になって地球が温暖化し南極にある氷河が 溶けて、二〇年後に太平洋のなかの 珊瑚礁の国を 水没させる」ということを理解しなくてはならない。
この文章の中には見えないものがたくさんある。「地球全体」は見えない。「空気の中にすてる炭酸ガス」は見えない。「地球の温暖化」は見えない。「炭酸ガスという原因による温暖化という結果」は見えない。「南極の氷河」は見えない。「二〇年後」は見えない。「太平洋のなかの 珊瑚礁」は見えない。それではどうして「ゴミをへらせば地球を守ることになるのか」が分かると言えるだろう。もしも、「疑わしいことを信じてはいけない」というタテマエを守るなら、「ゴミをへらせば地球を守ることになる」と信じてはいけないという結論になるのだろうか。
そこで真理をつきとめることにしよう。「科学的真理は何度も同じ条件で実験を 繰り返すことによって確かめられる」というタテマエにしたがうとする。石油をたくさん燃やして何度も実験をして見たら、「地球に 砂漠が増える」、「たくさんの生物が 絶滅する」、「人間が生きていくための地下資源がなくなる」、「地面の下がゴミだらけになって水が飲めなくなる」という結果が起こったと仮定∵しよう。やっぱり「ゴミをへらせば地球を守ることになる」というのは正しかったという結論がでるだろう。しかし、そのことを確かめる人間は、生き物のいない 砂漠で食べ物も水もないという 状況にいるかもしれない。
「ゴミをへらせば地球を守ることになる」が本当かどうか。何度も 繰り返して確かめることができない。 環境問題は日常の経験だけでは判断がつかないので、高度の専門的な知識を学ばなくてはならない。情報 依存的にしか因果関係は 把握できない。悪い結果がでてしまった後では取り返しがつかないので、 後悔しないですむように情報を 捉えて事前に予防しなくてはならない。
どんな 事柄でも「悪い結果がでないように完全に予防すること」はとてもむずかしい。「 風邪の予防」の場合には、予防に失敗してもあまり心配はいらない。予防に失敗しても 風邪は必ずなおるからである。ところが「 砂漠が増える」とか「 珊瑚礁が 水没する」とか「明日から使う石油がない」とか「 鯨が 絶滅する」とかということは、予防に失敗したら永遠に取り返しがつかない。完全予防という側面からも安全の情報 依存が成立する。
ベックは、その『危険社会』(一九八六年)で「ヒューム以後明らかとなったように、因果関係は本質的に知覚を通じては推定できない。因果関係の推定はあくまで理論に基づくのである」と述べている。
安全性について情報 依存型の社会を作りあげることなしには、われわれは安全を確保できない。安全性は古典的自由主義のタテマエからすれば自己決定権の 範囲に 含まれる。これは自分の生命の自己防衛権と同種のものと受けとめられている。実際には、安全であるか否かは経験的に自明ではなく、 信頼できる情報に 依存している。
( 加藤尚武『価値観と科学/技術』)
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