「家」は家族の全体性を 読解検定長文 高1 夏 1番
「家」は家族の全体性を意味する。それは家長において代表せられるが、しかし家長をも家長たらしめる全体性であって、逆に家長の 恣意により存在せしめられるのではない。特に「家」の本質的 特徴をなすものは、この全体性が歴史的に 把捉せられているという点である。現在の家族はこの歴史的な「家」を担っているのであり、従って過去未来にわたる「家」の全体性に対し責任を負わねばならぬ。「家名」は家長をも 犠牲にし得る。だから家に属する人は親子夫婦であるのみならずさらに祖先に対する 後裔であり 後裔に対する祖先である。家族の全体性が個々の成員よりも先であることは、この「家」において最も明白に示されている。(中略)
我々が日本的なる 恋愛の 特殊性について語ったことは、そのまま家族としての存在の仕方にも通用する。ここでは男女の間ではなくして夫婦の間・親子の間・兄弟の間が問題であるが、この「間」がまず第一に全然 距てなき結合を目ざすところのしめやかな情愛である。 素朴な古代人は夫婦 喧嘩や 嫉妬を物語るに際してすでにこのような 距てなき家族の情愛を示している。さらに万葉の歌人 憶良の「しろがねも黄金も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも」の絶唱は、日本人の心を言い当てたものとして、永く人口に 膾炙している。 憶良の家族的情愛はかの 罷宴の歌においてさらに一層直観的に現われる。「 憶良らは今は 罷らむ子 哭くらむその子の母も 吾を待つらむぞ。」このようなしめやかな情愛は大きい社会的変革を引き起こした 鎌倉時代の武士にも見ることができる。 熊谷蓮生坊の転心は子に対する愛情にもとづくのである。さらに足利時代の 謡曲においては、親子の情は最も根源的な深い力として 描かれている。徳川時代の文芸が人の 涙を 絞ろうとする時にこの親子の情を使ったことは言うまでもない。あらゆる時代を通じて日本人は家族的な「間」において利己心を 犠牲にすることを目ざしていた。自他不二の理念はこの場面において比類なく実現せられているのである。従って第二にそれはしめやかであると同時に激情的になる。情愛のしめやかさは単に 陰鬱に 沈んだ感情の 融合ではなくして、 横溢する感情を変化においてひそかに持久させたものである。強い感情が 燻し∵をかけられて静かな形に現われたものである。だから 距てなき結合を目ざす力は表面の静かさにもかかわらずその底力においてきわめて 烈しい。利己心の 犠牲も、単に 便宜上必要な程度に留まるのではなくして、あくまでも 徹底的に 遂行せられようとする。そこで 障礙に 逢うごとにしめやかな情愛は激して熱情的になる。それは家の全体性のゆえに個人を圧服し切るほどの強い力を持っている。だから第三に家族的な「間」は生命を 惜しまない 勇敢な・ 戦闘的な態度となって現われてくるのである。 曾我物語に現われているような親の 仇討ちの思想がいかに強く日本の民衆の血を 湧かせたかがそれを示している。親のために、また家名のために、人はその一生を 犠牲にする。しかもその 犠牲は当人にとって人生の最も高い意義として感ぜられていたのである。「家名」のために 勇敢であった武士たちは 皆そうであった。家の全体性は常に個人より重いのである。従って第四に人はきわめて 恬淡に己れの命をも捨てた。親のためあるいは子のために身命を 賭すること、あるいは「家」のために生命を捨てること、それは我々の歴史において最も著しい現象である。家族のために 勇敢であることが必ずしも利己心にもとづかず、従って 執拗に生を欲するのでないということは、しめやかな情愛がすでに利己心の 犠牲をふくむということによっても理解し得られるであろう。
かくして「家」としての日本の人間の存在の仕方は、しめやかな激情・ 戦闘的な 恬淡というごとき日本的な「 間柄」を家族的に実現しているにほかならぬ。そうしてまたこの 間柄の 特殊性がまさに「家」なるものを 顕著に発達せしめる 根拠ともなっているのである。なぜなら、しめやかな情愛というごときものは、人工的・ 抽象的な視点の下に人間を見ることを許さず、従って個人の自覚にもとづくところの、より大きい人間の共同態の形成には不適当だからである。そこで「家」なるものは日本においては共同態のなかの共同態として特に重大な意義を帯びてくる。
(和 辻哲郎『風土』)
私たちは日本という風土のなかで 読解検定長文 高1 夏 2番
私たちは日本という風土のなかで暮らしている。そして、日本の風土のなかで暮らしてきた人々の過去の経験を 受け継いでいる。日本的な農業や林業、漁業の仕方、日本的な建築、日本的な宗教観、祭りなどの行事やさまざまな習慣。私たちの発想や考え方も、この風土から完全に 離れてはつくられていない。いわば私たちは、日本の風土を基層文化としてもちながら存在しているのである。
ところが、そんなことは十分に認めているはずの私も、日本という国家に対しては、少し冷静な態度をとりたくなる。というのは、次のような気持ちが私にはあるからである。
私が上野村に 滞在するようになった 頃、村人が使う「公共」という言葉に関心をもったことがあった。「それは公共の仕事だから」とか、「それは公共のことだから」というようなかたちで、村人は何度となく「公共」という言葉を使う。ところが村人が使うこの言葉の 響きは、それまで私が東京で感じていたものとは少し 違っていた。
東京で「公共」といえば、国や自治体が担うもの、つまり行政が担当すべきものを指していた。それに対して私たちは「私」であり、「私人」であった。だが村人が使う「公共」は、それとは 違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のことであった。だから、春になって、冬の間に 荒れた道をみんなでなおすことは「公共の仕事」であり、山火事の報を受けて家から消火にとび出すことも、祭りの準備をすることも、「公共の仕事」であった。
「公共」と行政とは、村では必ずしも 一致していないのである。村人の感覚では、行政の前に「公共」があり、行政は「公共」のある部分を代行することはあっても、それはあくまで代行であって、行政イコール「公共」ではなかった。
そして村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動することによって責任を負える世界のことであった。つまり、自分との関係がわかる広さといってもよいし、それは、おおよそ、「村」という広さであるといってもよい。
つまり、村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられてい∵た。そして私には、その方が、社会の自然なとらえ方のように思われた。「公共」とは自分たちが共同でつくりだしている世界だととらえる考え方も、行政は公共のある部分を代行しているにせよ、けっして行政イコール公共ではないという見方も、社会とはそれぞれの地域の人々が責任を負っている場所の連合体だというとらえ方もである。
私には、近代国家はこのような社会観をつき 崩してきたように思われる。近代国家は、すべての人々を国民として共通化、平準化しようとしてきた。国民としての画一化をはかったといってもよい。おそらくその理由は、近代国家というものが、ヨーロッパの絶対王制の時代 状況下で生まれたからであろう。すなわち度重なる戦争をくり返していたヨーロッパ絶対王制の国家は、戦争に勝利するためには、臣民の国民としての統一と、国家統一のための国民的アイデンティティーの確立、共通意識をもった国民としての画一化が、どうしても必要であった。そしてこの国民としての共通化が、後に市場経済形成にも役立っていった。
この国民国家が、近代化の過程で日本にも移入されてきたのだとするなら、村人の感じている「公共」の世界と国家との間には、ずいぶん大きな 隔たりがあることになる。そのどちらに重心を置くことが、自然と人間の未来にとってよいのか。それは私たちが考えてもよい課題である。
注 上野村――群馬県多野郡にある山村。
(内山節『「里」という思想』)
そもそもプラトンが 読解検定長文 高1 夏 3番
そもそもプラトンが主著ともいうべき対話 篇『国家』で展開した画家批判以来、伝統的美学は、原像の直接的再現という理念の重圧を、芸術に対してかけてきた。すなわちイデアに 即して作られた 寝椅子の模写にいそしむ画家を念頭に置いたプラトンは、絵画による 模倣が、原像からの二重の 離反・ 劣化( 寝椅子の絵は、イデアの 模倣物たる現実の 寝椅子を、さらに 模倣したことになる)を引き起こし、直接的な再現という課題達成を、一層不可能なものにしているのだとして、画家の業を 寝椅子職人のそれよりも下位に位置づけたのだった。けっして再現されえないイデアを再現せねばならぬという重荷は、この後イデアが神の内へ、さらに人間精神の内へとその座を移しても、ずっと 荷い 継がれていく。ところが、それに対して 柳が示そうとしたのは、近づきえない原像への接近という不条理な 促しではなく、むしろ「原像からの 距離が別な美を生み出していく」という希望である。 既に『工芸の道』の 柳は、こういっていた――「かりに一人の作者が一つの 壺を作り、 其上に山水の画を 描いたとする。そうしてそれを見本として民衆が何千何万と作り得たとする。 既に見本を意識せずして作り得る 迄に熟達したとする。 其時それは美において、 遥か見本よりも美しくなっているであろう」。
原像から遠ざかれば遠ざかるほど、かえって「本質的なもの」へと近づいていくという反イデア論的な美は、たとえば 柳が染色の領域で強い期待を寄せていた 芹沢けい 介の仕事などに具体的に現われる。 芹沢の型染は、肉筆の下絵に基づく形紙切り出しの段階で、モデルとなった事物の姿を 既に二段階単純化させているのだが、さらに形紙による 糊付け・色差しと進むにつれてデッサンから 離れ、水洗いを経て最終的に布地に定着するに 及べば、さまざまな 貝殻や 互いに 寄り添って泳ぐ 鯛などが、見事なかたちに 結晶化して出現してくる。∵
工程の重なりを経て原像から遠ざかっていくことは、 柳によれば、主体の 思惑を 削り落としていく過程でもある。 柳は 紺絣を例にしてこういっている――そもそも 絣を生み出すやっかいな工程は、どうあっても原画の模様に、ずれを生み出さずにはおかない。けれどもそのずれがむしろ 絣を美しくするのであって、むりやり 人為的に 揃えてしまえば、 絣独特の良さが消えてしまう。さらにそれが実際に使用されて洗いさらされることによって、出来上がり当初なお残っていた人間的 臭みも、洗い流されていく。
「個性が間接にされる」と 柳がいう反復の根本 傾向、すなわち 作為の 脱色を意味する「間接性」を、 柳は版画や 大津絵などにも見てとる。それら「工芸的絵画」は、あの「革命の画家」たちが 描いた近代絵画のように、個性表現を目指した絵画ではないが、「個性を去る境地にこそ絵画の一天地」がある。たとえば 浮世絵の場合、近代的な理解からすれば、絵師の筆による原画が、個性という原像にもっとも近いだろう。けれども「 大概の場合 段違いに版画になったものの方が美しい。原画の 殆ど凡ては版画以上に美しくあることはむずかしい」。
柳は反復におけるかたちの生成を、このように工芸に 主軸を置いて考えていた。この態度は、なるほど、それはそれで、ギリシア以来の手仕事への 蔑視を基底に 潜めた西洋的伝統に対するアンチテーゼではあっただろう。けれども 魯山人の視線を通して「手としての人間」をピカソと結びつけてみたように、私は、 柳のこうした限定を 乗り越えて考えたいと思う。すなわち 柳の思想的可能性を単なるアンチテーゼに留めず、積極的に 徹底化する方向で、 彼が見たかたちの生成を、造形のより広い領野に見出しうるものと考えたいのである。
( 伊藤徹『 柳宗悦――手としての人間』)
一般に「現代の精神的状況における 読解検定長文 高1 夏 4番
一般に「現代の精神的 状況における自我の問題」 云々という場合、そこにはあるべき「自我」についての 了解がすでにあり、それが 歪められ、しかも今日では失われているという見地が前提に 含まれている。しかしそうして 歪みや 喪失を、かりにわれわれが日本人とその社会について 倫理的に 糾弾してもあまり有意味ではないだろう。なぜならもともと「自我」 概念そのものが、すぐれて近代 哲学の産物であり、その 哲学とはソクラテスや、ルターや、フランス革命などを経てきた西洋の伝統だからである。
またそれだけに、「自我の 形骸化」は西洋人にとっては深刻に受けとめられた。「大衆」をキーワードとしたヤスパースの 状況判断なども、単に 冷徹な時代 分析というようなものではなく、あるべき「自我」の 喪失への危機感に裏打ちされた切実なものであった。だとすれば、そうした思想伝統を持たない日本人の場合に、「自我」の「 喪失」 云々を言うことは本来できないはずであろう。
ただ、「自我」 概念が輸入された明治期には、本来のあるべき自己に目覚めた理想的な自我という観念は、単なる 浪漫主義に 尽きるものではなく、それにはそれなりのリアリティーがあった。旧来の 封建制度や、その因習から生じるさまざまな 抑圧に対する 反抗を通じて「自我」が強調されたからである。すなわち、 克服されるべき過去の遺物への「反」として強調された。だが、今日のわれわれの社会ではそうした 抑圧も因習も多くは姿を消し、形だけが受容された「自我」 概念も、それに 伴い中身は急速に 曖昧かつ 稀薄になってきている。そう感じるのは私だけであろうか。
西洋近代の 啓蒙思想、科学、民主主義等を受容した後の、とくに戦後の日本で教育されたわれわれは、「自我」を確立すべきだとか、他人も自分と同じようにそれぞれの自我を持っているに 違いないと容易に信じてしまう。学校教育の場でも「主体性のある人間」が目標に 掲げられる。「自らの意志で考え、行動を 選択し、決定す∵る」生き方こそ、あるべき「自我」の姿だとされる。そこから自由と責任の表裏一体化が強く 示唆される。
だがそうしようとすると、われわれは現実の社会や人間関係のなかでそのつど 挫折し、 当惑してしまう。連続的でもなく主体的でもなく合理的でもないような自我たちが 一般的なのであり、そしてまた自分もその一人だからである。
そもそも通常の生活では、「自らの意志で考え、行動を 選択し、決定する」ような場面は実際のところかなり 稀ではないだろうか。多くの 選択や決定は周囲の個々の 状況のなかで、異なった要因の複雑なからみあいの結果として生じるからだ。
しかしわれわれは他方では、自我の同一性や主体性を自分にも他人にも要求してやまない。 信頼していた人がもし従来の言動を急に変えると、われわれは多少とも 当惑する。喜ぶ人はまずいない。あげくは裏切られたと 憤慨するかもしれない。それは、自我は西洋の「実体」 概念のように、持続的、同一的なものであるという、ほとんど 信仰にも近い前提が、われわれの日常の意識にすでに 染み込んでいるからだ。かりに 環境や性質がある程度変化しても、人格はいちいち変わらないだろうと予想する。こうして人格の不変は 倫理的に賞賛されるべき 事柄であるのに対し、人格の変化は 倫理的に悪であるかのように非難される。(中略)
そこで、いっそ前提を 転換して、むしろ、西洋でいわれるような意味での不変の「自我」など、少なくとも日本人の社会では 誰も始めから持っていなかったし、持つと期待してもならない、と考えることはできないだろうか。「主体」的自我という 啓蒙の 信仰を止めたほうが、われわれは誤解や絶望に 陥らず、したがって無用の 摩擦や 疲労を起こさずに済むのではないだろうか。
( 酒井潔『自我の 哲学史』による)
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