しかし、記事の生命は 読解検定長文 高2 春 1番
しかし、記事の生命は真実である。それに可能なかぎり接近するためには、 膨大な取材が必要だ。取材は、もちろん相手の都合が最優先する。こちらの時間に合わせてくれるなどと思わないほうがいい。相手は、なにも記者に語る義務はない。もし、向こうから情報をもってやって来たら、利用されるのではないかと、逆に用心しなければいけない。そういう世界なのだ。昼間は 多忙な政治家や財界人を追っかけるには、夜討ち 朝駆けとなる。労多くして得るところ少ないことは、分かっている。だが、この積み重ねなくして 信頼できる紙面はできない。
(中略)
後輩記者が当時の実力者金丸信の担当を命じられた。だが、新米記者とあってなかなか相手にしてくれない。あるとき大雪になった。金丸は富士五湖の 山荘にいるという。 彼は 吹雪のなかを 山荘に 到着した。金丸は感激した。おい、いつでも来ていいぞ。以来、 彼にとって金丸は重要な情報源となった。「だから政治記者はいつまでも政治家べったり、お 涙頂戴なのだ」という批判は 甘んじて受ける。だが、重要な政治情報が一部の政治家に 独占されている時代にあっては、こうした取材も必要だった。
政治部記者の取材の対象は、どうしても政治家・高級 官僚・財界首脳といった国の上層階層になる。その情報はすべて政治部デスクに集約され、 繰り返し比較検討され、補足取材され、真実へ向けてしだいに一本化され、紙面化されていく。これまで、 一般の人びとの視点がそこに入りこむ 余裕はなかった。こういう取材と紙面化の仕組みをここでは「政治部 中核型構造」と呼ぶことにしょう。
この政治部 中核型構造が問題にされなければならないのは、政治家密着型・夜討ち 朝駆け型の身を粉にして働く記者の生活スタイルではない。問われているのは第一に、この構造のもとで得られた情報が国民の知る権利にこたえる形で読者に 還元されたか、である。第二に、なるほどこの構造は上層部の極秘情報の取得に大きな成果をあげただろうが、半面、それが結果的に日本の政治の古い体質を助長したのではなかったか、ということである。∵
こうした反省が出てきたのは八〇年代後半から九〇年代にかけてだった。有権者の政治 離れが加速していった時期である。政治への失望は、政治部構造が生み出す政治部 中核型の紙面への失望でもあった。有権者が政治を見限るということは、その 一端を担ってきた政治記事をも見限ることだった。しかし、私たち政治部記者の多くは当時それに気づかなかった。政治 離れは政治が悪いから起きる、と思いこんでいたふしがある。その間に政治 離れと新聞 離れは密接にからみあい並行して進んでいたのである。読者の新聞 離れを加速させた主因の一つは政治部 中核型の紙面づくりにあった、ということは認めざるを得ない。
九八年の朝日新聞読者調査によると、「党利や 派閥に関する記事は読みたくない」という回答が多く、「いちばん読みたくない記事は自民党の 派閥に関するもの」というのもあった。半面、「客観的事実だけではなく、背後にどういうことがあったか、それがどういう 影響を国民にあたえるか、きちんと書いてほしい」「政治が決める数字が生活にどう 影響するか、シミュレーションをまじえて解説してもらいたい」といった希望が多かった。質の高い政治記事なら必ず読者は 戻ってくることを確信させる。
(中馬清福『新聞は生き残れるか』による)
冷戦は「仮想の戦争」などとも 読解検定長文 高2 春 2番
冷戦は「仮想の戦争」などとも呼ばれました。実際に 砲弾が飛びかうことはなかったものの、米ソ両 超大国がいつも敵意を向け合い、 一触即発の状態が続く、ある種の世界大戦だったという理解です。四〇年あまり続いた冷戦が終わったとき、世界には「これで暗く危険な時代が終わった」という 安堵感が広がりました。たしかに、米ソ 核戦争の 脅威が遠のき、圧政に苦しんでいた共産主義体制下の人々が解放されたのですから、そういう 安堵感にも無理からぬものがあります。これで世界平和が約束されたかのような、楽観的な 雰囲気さえ世界には 漂いました。資本主義と自由主義が勝利し、もはや争いの種はなくなったのだから、これで「歴史は終わった」とする、いまにして思えば性急にすぎる予言まで飛び出したものです。
言うまでもなく、世界の 状況はそのように好転したりはしませんでした。むしろ、冷戦までの世界にはあまり見られなかった種類の戦争が見られるようになったのです。見られるようになっただけでなく、それが多発するようになったとさえ言えるかもしれません。
その一つは、国家対国家の戦いではなく、他者との差異を意識する人間集団の間で、その差異を 誇示することが目的であるかのように戦い合う武力 紛争です。典型的には、一九九二年から九五年まで続いた、ボスニア= ヘルツェゴヴィナ紛争を考えればよいでしょう。それまで ユーゴスラヴィア人として共存していたモスレム(ムスリム)人、セルビア人、クロアチア人等の人間集団が、 凄惨な殺し合いをくり広げた戦いです。
分かりやすく、「民族 紛争」と呼ぶこともできますが、一九四五年からの四六年間は、 ユーゴスラヴィア国民として上手に共存していたのですから、全く異質な民族同士が争うのとはやや 違います。また、民族ごとに自前の国家を持とうとした、というのとも少し 違います。各共和国が「独立」した後も、それぞれの中で「民族」混在は続いているからです。むしろ、何かに 憑かれたように他者との差異、つまり自分たちのアイデンティティを強調し、相手にそれを 押しつけるために戦った、という面が多分にあるように思われる∵のです。
このように、自己のアイデンティティを主張することが目的であるような政治関係を、イギリスの平和研究者であるメアリー・カルドーは「アイデンティティ・ポリティックス」と呼び、それが引き金となって起きる武力 紛争を「新しい戦争」と名づけました。それに対する「古い戦争」とは何か。それも説明が簡単ではないのですが、しいてひとくちで言うなら、国益をめぐって国家と国家の間でおこなわれる戦い、ということになるでしょうか。
国益というものが一応は具体的であるのに対し、アイデンティティというものは多分に 抽象的です。自分のアイデンティティと他者のアイデンティティとの 違いを強調したところで、それが必ずしも自分の利益に結びつくわけでもない。そのために殺し合いまでしなければならないことだとは考えにくいのです。それまで一つの国民として共存できていたのなら、なおさらそうでしょう。にもかかわらず、それが起きやすくなりました。旧ユーゴと似たような 紛争が、冷戦 終焉後、それぞれに 違いはありますが、ソマリアでも、ルワンダでも、コンゴでも起きたのです。
(最上 敏樹『いま平和とは』による)
明治の新しい日本が 読解検定長文 高2 春 3番
明治の新しい日本が、西洋文明の移入を合言葉とし、その移植によって成立したことは、 誰しも知るところですが、この輸入された西洋の「文明」のなかには、少なくもはじめのうちは「文学」は 含まれていませんでした。
明治初年の代表的思想家である 福沢諭吉は、 坪内逍遙が「当世書生気質」を発表したとき、「文学士ともあらう者が小説などといふ 卑しいことに従事するとはる 怪しからん。」と 憤ったと伝えられています。
この 挿話は 真偽の点で多少うたがわしいようですが、少なくもこういう 噂が不自然でなく流布したという事実は、 象徴的な意味を持っています。
それはまず 諭吉らの代弁した「文明」の性格を、次にそのような時代の常識に 敢えて逆った若い 逍遙の 反抗の意味を、さらにその作品の内容よりむしろ「文学士」の 肩書で世間を 騒がせた 逍遙の仕事の実質を、 巧まずして現わしています。
諭吉と 逍遙はともにすぐれた 啓蒙家であり、 西欧文化の 紹介者であったのですが、 彼等は二十 歳の 年齢の差とともに、異った価値の 秩序に生きていたのです。「西学の 東漸するや、初その物を伝へてその心を伝へず。学は則格物 窮理、術は則方技兵法、世を挙げて西人の 機智の民たるを知りて、その徳義の民たるを知らず。 況やその 風雅の民たるをや。 是に 於いてや、世の西学を 奉ずる者は、 唯利を 是れ図り、財にあらでは喜ばず。……天下の士は 殆ど彼のプラトオが政策を学びて詩人を 逐はんとするに至れり。」と森 鴎外が「しがらみ草紙」の創刊号でいいますが、ここに 逍遙と並んで「 風雅」の 偉大な 啓蒙家であった 彼に、明治初年の時流がどう映ったかがはっきり示されています。
福沢諭吉は西洋の武力とその根底をなす知力、あるいは西洋の社会をきずきあげた「人民の活発な気性」については、 透徹した理解の持主でしたが、 幾度か西洋の地を 踏んだにもかかわらず、その芸∵術にたいしてはまったく何の興味も同感も示していません。
幕吏として外遊し、「 彼の国の『ダンス』を見れば 捧腹に 堪へず、」とした 彼は終生その説を改めなかったので、自分の西洋 讃美は、その「美術の美を見て 之に 心酔するにも非ず。」といいきっています。
こうした文学にたいする態度は、 福沢個人の資性より、むしろ明治の初年という時代の性格であったので、 艦隊の 脅威のもとに 鎖国をとき、「列強」の圧力に 対抗し、亡国の運命をさけるために、その文明の採用を 焦眉の急とした時代の人々が「近時文明の 骨髄」を「蒸気電信の発明、郵便印刷の工風…… 其他医薬 殖産工業……政治経済論」とのみ見たのは当然のことであり、もっぱら国家に有用という立場からなされた明治初期の西洋文明移植が、後代から想像し得ぬほど、急激な革命として断行されたのと照応して、この時代を支配した 啓蒙家たちの功利思想はいわば革命期の 偏狭さを持つ 徹底した性格のもので、そこに小説のような「無用」の存在を許す余地はなかったのです。
したがってこの 啓蒙家たちの頭脳に宿った文学不要論は、 儒学と結びついた英国風の功利主義として後の時代まで明治の政治家の思想の基調をなしたので、 逍遙以後の明治小説は、 硯友社も、自然主義も 一貫してこのような社会の良識にたいするさまざまな 反抗の形式として発達したのです。
このような時代の性格がもっとも 露骨に現われた明治初年には、西洋の「文明」は新しい文学をおこすどころか、逆に在来の文学を 枯らす作用しか持たなかったので、ことに 戯作として 江戸時代にはまともな文学としても 扱われなかった小説は、わずかに社会の 片隅に 余喘を保つだけでした。
(中村光夫の文章より)
さらに、人格を形成していくための 読解検定長文 高2 春 4番
さらに、人格を形成していくための重要な場所として、かつては技術の修得が今日よりもはるかに重い手応えを持っていました。現在も技術の修得が人間を作っていることは事実ですが、しかし、これもまた、残念ながらその重さの点で戦線を縮小しつつあるといわなければなりません。たとえば、昔は大工さんになるためには一生の努力を必要とするといわれたもので、私のうちへ時たま来てくれる大工さんは三十年のベテランですが、そういう人が、「大工というものは一生修行ですよ」と今でもいっています。しかし、その後で 彼は頭をかいて、「今どきこんなこといっていると、時代からとり残されますがね」とつけたすのです。
というのは、現代では技術そのものが現実体験ではなくて、情報化された一種の知識の組み合わせになっていて、その分だけたいへん修得しやすいかたちに変わっているからです。早い話が、板というもの一枚を取り上げても、昔の板は人間が 鉋を 握って、その 鉋を動かす自分の 腕を通して体験する本当のものでありました。しかし、現在の板はほとんどが合成 樹脂で、 鉋や手は必要ではなく、いわば、人間の目さえあればそれで用のすむ存在になりつつあります。一枚の板がものであることをやめて、しだいに板のイメージ、すなわち一種の情報になりつつあるわけです。
そうなると、それを 扱う個人の技術はいちじるしく単純化されて、肉体に 触れる体験の領域が小さくなって来ます。今日、技術の修得は一生の仕事だという人は、だんだん少なくなり、だいたい 免許証をもらえば、技術はそれで完全に習得されたことになっています。料理人や 理髪師、自動車の運転手に学校教師、すべて 免許証をもらえば、 彼にとって職業および技術の修得段階は終りだという意識が拡がっています。現に、それさえ持っていればまず最低限度の生活はできるわけですが、その代わり、その技術をさらに 伸ばして、 彼独特の技術にする楽しみもなくなりました。
(中略)
職業のことをドイツ語ではベルーフ(Beruf)といいますが、ベルーフとは「神の呼び声」という意味です。日本語にも「天職」ということばがあるわけで、職業とは食うために勝手に人間が選ぶものではなく、最終的には運命か、あるいは神が人間をそこへ呼びこむものだ、という考えが伝統的にありました。それほど職業∵には神秘的といってよいほどの重みがおかれていたのですが、そのひとつの理由は、人間が職業訓練の中で意識的な知識以上のものを 獲得する、という事実ではなかったでしょうか。ものに 触れる体験というものは、たんなる知識の学習とは 違って、人間が自分で意識できない自己の部分を豊かにします。 鉋で板を 削って十年、二十年を過ごすということは、 彼の肉体の思いがけない部分をふとらせることもあるし、「職人気質」などという、いわくいい難い精神の部分を養うこともあります。じつは、人間の個性とはそうした無意識なものの集積として生まれるものであり、この部分こそ個人の中で真に 交換不可能な要素だというべきでしょう。
これに対して、現代の現実が情報化していくということは、いいかえれば、現実のすべてが知識化していくことであり、その内部の意識を 越えた部分が 消滅しつつある、ということだといえるでしょう。そして、それにつれて、現実とかかわる人間もまた情報化され、肉体も気質も持たない観念的な存在に変質しつつあるわけです。ひとつの中心を持ち、有機的な統一を持った「私」としての人間が解体し、 巨大で、しかし全体像の見えない、 奇妙な機械の部分品になりつつあるのが現代だと見るべきでしょう。
( 山崎正和『 混沌からの表現』による)
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