窓際の席で 読解検定長文 小5 夏 1番
恭一はドアの外にたたずんで、去年、一人で 新幹線に乗ったときのことを思い出していた。 恭一にとって初めての 経験だったが、じつはそのときも何度かトイレに通った。ジュースのせいでも水のせいでもなかった。
トイレから出てきた 久子は、生真面目な 表情で 肩をすぼめていた。兄に 苦情を言われないようにと気づかっているようすだった。
「手を 洗えよな」
恭一は妹の細い 肩を 押すようにして、 洗面コーナーへみちびいた。それから、
「おまえ、さっき泣いたろ」
と、いきなり言った。
ホームまで送ってきた母が、 窓の外で笑いながら手をふったときのことだ。 窓ガラスに顔を 押しつけるようにして、妹は 肩をふるわせていた。それを、ふいに思い出したのだ。
「おまえ、手をふって泣いたんだろ」
久子は手を 洗いながら、かたくなに 黙りこくっていた。鏡に 映っている顔が、また泣いているように見えた。
しまった、と 恭一は思った。なんでこんなに、いじわるしちゃうのかな。
「おい、ハンカチあるのか」
急いでポケットを 探った。しかし、すでに 久子は自分のハンカチを出していた。
去年、一人で 伯母さんの家へ行ったとき、東京に着くまでに、 恭一は何度も 涙ぐんだ。ホームでの母との別れが悲しかった。このまま一生会えなくなるのではないか。そんなことを思うたびに、下 唇がゆがんできたものだ。
きっと 久子も、あのときの自分と同じ気持ちになっているのだろう、と 恭一は思った。
座席に 戻ってからは、 優しく話しかけた。
「おい、 眠ってもいいぞ。東京が近くなったら起こしてやるから」
「ううん、 眠たくないもん」∵
久子は 車窓の風景へ目を向けていた。こころなしか声がうるんでいる。
「ガムやろうか」
「ううん、いらない」
つむじを曲げたらしく、 久子はよそよそしい答え方をした。 恭一は 雑誌をひらいたが、妹のことが気になって、なかなか 漫画 のなかに 入り込めなかった。
「このまえ、おれ一人で来たときな」
雑誌に目を落としたまま話しだした。
「 隣に、ふとったおばさんが 坐っててさ。すごく大きないびきをかいて 眠ってたんだ」
久子は耳を 傾けているようすだった。 恭一は、いびきの 真似をして鼻を鳴らした。
「あんまりうるさいんで、こうやってさ、 腕を 突っついてやったんだ」
恭一は 肘を使って 久子の 腕を 小突いた。
「ツンツンって 突くと、いびきがゴンゴンって鳴るんだ。ツンツンツンって 突くと、ゴンゴンゴンだろ。面白くなっちゃってさ」
久子が、くすくす笑いだし、 腕を 小突かれるたびに身体を 揺すった。 恭一も笑いながら、ますます大げさに作り話をつづけた。
「おい、ジュース残ってんだろ」
さんざん笑ってから、 恭一が言った。
「ぜんぶ飲んでいいんだぜ」
「……だって」
とまどうように 久子がつぶやいた。
「いいってば、トイレに行ってもいいから。何度だって、ついてってやるよ」
漫画を読むふりをしながら、 恭一は言った。
やがて列車がトンネルに入って、 窓ガラスに 久子の 嬉しそうな横顔が 映った。 (内海 隆一郎「だれもが 子供だったころ」)
兄ちゃんが初めて 読解検定長文 小5 夏 2番
兄ちゃんが初めてカメラを手にしたのは、小学校の三年生の 誕生日のときだった。お祝いに買ってもらったおもちゃみたいなカメラだったが、とにかく写るものだから、おもしろがって、さなえばっかり、たくさん 撮ってくれた。さなえは、まだ 幼くて、それだけにカメラの前でおどけたり、本気になって泣いたり 怒ったり笑ったりしたから、ずいぶんおもしろい写真が 撮れた。だから、その 頃のさなえのアルバムはずいぶん 厚い。
兄ちゃんは、その後何度かカメラを 換えた。カメラが良くなるにつれて、さなえの方も大きくなって、昔ほどカメラの前で、 無邪気になれなくなっていた。すると、兄ちゃんの方も気乗りしないのか、少しずつ、別のものを 撮るようになっていった。さなえは、そんな自分のことも、兄ちゃんのことも、ちょっぴり 寂しかった。
そしてある日、兄ちゃんは、たまたま 裏山(といっても中央アルプスの山の一つなのだ)へ入ったとき 撮ったモモンガの飛行写真がやみつきで、山へ写真を 撮りに入るようになったのだった。
オオコノハズクがありノスリがあった。アオバズクもホシガラスもあった。兄ちゃんがスライドに作ったものを、時折、二階の部屋の 白壁に 映してくれるのを見ているうちに、さなえも、鳥が好きになってしまった。飛び立つときの 身構え、飛んでいるときの身ごなし、 飛び降りるときの 姿――そのどれもがやさしく強い美しさにあふれていた。兄ちゃんに言わせれば、「めったに 撮れない」カワセミの 後ろ姿の大写しなんかは、大きな 宝石のように美しく、さなえは何度見ても 見飽きることはなかった。
さなえは、自分もそんな写真を 撮ろうとは思わなかった。ただ、そんなすてきな写真を 撮る兄ちゃんと 一緒にいて、そんな写真を 撮る手伝いがしたかっただけなのだ。
――木に登ってさ、ブラインドはってさ、そン中に何日もたてこもるなんて、さなえには、できっこないよ。
とか、∵
――夜中にタヌキなんかが、不意に 駆け出してきたら、 心臓が止まるくらいびっくりするぞ。さなえなら、きっと、止まるもンな。
とか、
――たちの悪いハンターに鳥と 間違えられて、木にいるとこを 撃たれたりするんだぜ。よせよせ。
とか、人のことを一人前に 扱ってくれないのだから、さなえは、おかんむりなのだ。そんなとき、さなえはいつも、小さいときの出来事を思い出し、もっと 悔しくなるのだった。それは、さなえが初めて海へ連れていってもらったときのことで、初めてヒトデを見つけたさなえが、
――あ、お星様の 影が落ちてる!
と 叫んだのを、兄ちゃんに大笑いされ、何度も 繰り返して笑い話の種にされたことだ。
(兄ちゃんたら、いつまでたってもさなえのことを一人前に 扱ってくれないんだから……)
そんなある日、兄ちゃんは、何を思ったものか、さなえにおみやげをもって帰ってくれた。小さなフクロウのヒナで、それはまるで、あの不思議な毛玉ケサランパサランみたいに、 頼りなくふわふわしたものだった。さなえの手のひらにも十分 収まるくらい小さく、それでも目もくちばしも羽根も一人前にちゃんとそろっていて、さなえのことをまっすぐ見つめるのだった。ヒノキ林で拾った、親鳥の巣を 探したが、どうしても見つからなかった、 独り立ちできるまで、めんどうをみてやろうと考えて持って帰ってきた、そいつをさなえに 任せたいのだけど、できるかい?――というわけだった。
さなえはこおどりした。兄ちゃんのことを 嫌いになりそうだったことなど、いっぺんに 忘れてしまった。
――ちゃんと育てて、また森へ返せるくらいにしてくれたら、そのときは、さなえを「助手」として、山へ連れてってあげる……。
兄ちゃんはそう言ってくれ、さなえはうれしくて、るるるるとキジバトみたいにのどを鳴らして喜んだ。
( 今江祥智「あたたかなパンのにおい」)
二か月、三か月と 読解検定長文 小5 夏 3番
二か月、三か月とすぎた。まだ、 兵太郎君は学校へ 姿をみせない。そのあいだ 久助君は 兵太郎君についてほとんど何もきかなかった。ただ一度こういうことがあった。ある朝 久助君が教室に入ってくると、ちょうどいきちがいに、ふたりの級友が 机を一つ 廊下へさげ出していた。「だれのだい。」と何げなくきくと、ひとりが「兵タンのだよ。」と答えた。それだけであった。それからこういうことがもう一度あった。薬屋の 音次郎君が、ある午後 裏門の外で 久助君を待っていて、いまから兵タンのところへ薬を持っていくからいっしょにいこうとさそった。 久助君はびっくりしたが同意して出かけた。薬はアスピリンというよく熱をとる薬だそうである。 兵太郎君はかぜをひいたのがもとだから、このアスピリンで熱をとればすぐなおってしまうと、 音次郎君は医者のように自信をもっていった。ほんとにそうだ、と知らないくせに 久助君も思った。それにしても、それほどよくきく薬ならなぜもっと早く持っていってやらなかったのだろう。やがていつもは通らない村はずれの 常念寺のまえにきた。 常念寺の 土塀の西南のすみに小さな家が 土塀によりかかるように(じじつ、すこし 傾いている。)たっている。それが 兵太郎君の家である。ふたりは 土塀にそって歩いていった。 兵太郎君の家のまえにきた。入口があいていて中は暗い。人がいるのかいないのかコトリとも音がしない。陽のあたる 閾の上で 猫が 前肢をなめているばかりだ。ふたりの足はとまらなかった。むしろ足ははやくなった。そして通りすぎてしまい、それきりだったのである。
久助君はほかの友だちと笑ったり話したりするのがきらいになった。そして、ひとりでぼんやりしていることが多かった。それからひどくわすれっぽくなった。何かしかけてわすれてしまうようなことが多かった。いま手に持っていた本が、ふと気づくともう手になかった。どこにおいたか、いくら頭をしぼっても思いだせないというふうであった。お使いにいって、買うものをわすれてしまい、あてずっぽうに買って帰って、まるでラジオできく落語みたいだと笑われたこともあった。∵
もとから 久助くんは、どうかするとみなれた風景や人びとの 姿が、ひどく殺風景にあじきなくみえ、そういうもののなかにあって、自分の 魂が、ちょうど 茨のなかにつっこんだ手のようにいためられるのを感じることがあったが、このころはいっそうそれが多く、いっそうひどくなった。こんなつまらない、いやなところに、なぜ人間はうまれて、生きなければならぬのかと思って、ぼんやり庭の外をながめていることがあった。また、冷たい水にわずか五分ばかりはいっていただけで、病気にかかり死なねばならぬ( 久助君には 兵太郎君が死ぬとしか思えなかった。)人間というものが、いっそうみじめな、つまらないものに思えるのであった。
三学期の終わり 頃、ついに 兵太郎君が死んだということを 久助君は耳にした。 弁当のあと 久助君は 教壇のわきでひなたぼっこをしていた。すると、向こうのすみで話し合っていた 一団の中から、
「兵タンが死んだげなぞ。」
とひとりがいった。
「ほうけ。」
と 他の者がいった。べつだんおどろくふうもみえなかった。 久助君もおどろかなかった。 久助君の心は、おどろくには、くたびれすぎていたのだ。
「うらのわら小屋で死んだまねをしとったら、ほんとに死んじゃったげな。」
とはじめのひとりがいうと、他の者たちは明るく笑って、 兵太郎君の死んだまねや 腹痛のまねのうまかったことをひとしきり話し合った。
久助君はもうきいていなかった。ああ、とうとうそうなってしまったのかと思った。そっと 片手を 床の上の陽なたにはわせてみると、自分の手はかさかさして、くたびれていて、悲しげに、みにくくみえた。
日暮だった。
(新美 南吉「川」)
久助君の身体のなかに 読解検定長文 小5 夏 4番
久助君の身体のなかに 漠然とした悲しみがただよっていた。
昼のなごりの光と、夜のさきぶれの 闇とが、地上でうまくとけあわないような、 妙にちぐはぐな感じのひとときであった。
久助君の 魂は、長い悲しみの 連鎖のつづきをくたびれはてながら、旅人のようにたどっていた。
六月の 日暮の、 微妙な、そして 豊富な物音が、戸外にみちていた。それでいて静かだった。
久助君は目を開いて、柱にもたれていた。何かよいことがあるような気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだという気もした。
すると遠いざわめきのなかに、一こえ 仔山羊のなき声がまじったのをききとめた。 久助君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日ばかりの 仔山羊を、ひるま川上へつれていって、 昆虫を追っかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、 仔山羊はひとりで帰ってきたのだと 確信をもって思った。
久助君は山羊小屋の横へかけ出していった。川上の方をみた。
仔山羊は向こうからやってくる。
久助君にはほかのものは何も 眼にはいらなかった。 仔山羊の白いかれんな 姿だけが、―― 仔山羊と自分の地点をつなぐ 距離だけがみえた。
仔山羊は立ちどまっては 川縁の草をすこし 喰み、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
久助君はむかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
仔山羊は電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手のこわれたところもうまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
久助君は 胸が熱くなり、なみだが 眼にあふれ、ぽとぽとと落ちた。
仔山羊はひとりで帰ってきたのだ。
久助君の 胸に、今年になってからはじめての春がやってきたよ∵うな気がした。
久助君はもう、 兵太郎君が死んではいない、きっと帰ってくる、という 確信を持っていたので、あまりおどろかなかった。
教室にはいると、そこに――いつも 兵太郎君のいたところに、洋服に着かえた 兵太郎君が白くなった顔でにこにこしながら 腰かけていた。
久助君は自分の席へついてランドセルをおろすと、 眼を大きく開いたまま、 兵太郎君をみてつっ立っていた。そうすると自然に顔がくずれて、 兵太郎君といっしょに笑い出した。
兵太郎君は 海峡の向こうの 親戚の家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで帰ってきたのだそうである。それだけ 久助君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。 兵太郎君は帰ってきたのだ。
休憩時間に 兵太郎君が運動場へはだしでとび出していくのを 窓からみたとき、 久助君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そしてめったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうに 尊く、美しく思われた。
(新美 南吉「川」)
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