私にとって、小学校五年生になるというのは 読解検定長文 小6 春 1番
私にとって、小学校五年生になるというのは 恐怖だった。四年生まではぼーっとしていても何の問題もなかったのだが、五年生になるといろいろと 面倒なことを 背負わされるからだった。近所に住む、同じ小学校に通う子たちとの集団登校のときも、今までみたいに、ただ足をたがいちがいに出していればいい、というわけにはいかない。
「集団登校のときは下級生の 面倒をみる」
これが五年生になった、小学生のさだめなのであった。五年生になったその日から、 私は集団登校の副責任者。 異様なくらいにおっとりした、六年生のタカシくんが先頭を歩いてみんなを引率し、五年生の 私はいちばん最後を歩く。みんなに変わったことがないかを気にしつつ、毎日、登校しなければならなくなったのだ。
六年生と五年生にサンドウィッチされた下級生どもは、こちらの気も知らないで、わいわいいいながら勝手に歩いた。自分の前の子のランドセルをつかんで、前後左右に大きくゆすり、その子の首がカクカクするのを見て喜ぶ 奴。道路わきのドブに、わざと 片足をつっこんで、
「落ちる、落ちる」
とわめく 奴。
(これから学校に行くっていうのに、何でこんなに元気なんだ、こいつ)
去年までだったら、こんな 奴をみても、 私はふふんと鼻でせせらわらってそっぽをむいていればよかった。しかし今年からは、ドブに 片足をつっこむ 奴には、
「ほら、ほら、ちゃんと歩いて」
と注意する。いちおうは、
「はあい」
と返事をするものの、三歩歩いたらまたドブに足をつっこんで、
「わあ、落ちる、落ちる」
とわめいていた。
「ほら、ちゃんとしてよ」
ちょっと声を 荒げると、
「うるせえなあ、デブ」
などという。 私は五年生になったとたん、だんだん体重がふえはじめ、顔も体もまん丸になってきたのだ。いちばん気にしているこ∵とをいわれ、うんざりしながら前方を 眺めていたら、 突然、列が 乱れた。二年生のシンジが転んだのだ。あわててかけ寄ると、シンジのすぐ後ろを歩いていた三年生のミチコが、
「あのね、あのね、シンジくんはね、後ろを向いて歩いていたんだよ。あたしがやめなさいっていったのに、後ろ向いてあっかんべえなんかやってたからね、石につまずいたんだよ」
と、たいした出来事でもないのに、 興奮して 目撃証言をした。
「ぴー」
彼は道路にはいつくばったまま、泣いていた。
「 大丈夫?」
とりあえず 私は声をかけた。
(このくらいのこと、平気だろ)
といいたかったが、 私の立場ではそんなことはいってはいけないのだ。
「ぴー」
彼は道路につっぷしたまま、首を左右に 振った。
「ほら、見せてごらん」
抱き起こしてふとシンジの顔をみると、左の鼻の 穴から、練り 歯磨きのチューブから 絞りだしたような、太い鼻水がだらっと 垂れていた。
(うわあ、きたない)
こんな 奴の 面倒をみるのは 嫌だったが、五年生の 私はそんなことをいってはいけないのだ。 膝のケガはたいしたことはなかったが、あまりにシンジが、
「 痛い、 痛い」
といってぴーぴー泣くので、タカシくんは 私に、
「保健室に連れていったほうがいいかもしれない」
とぼそっといった。
(あーあ)
私はわからないようにため息をつき、まだぴーぴー泣いているシンジの手をひいて、みんなより先に学校に急いだ。
(群ようこ「 膝小僧の神様」)
善太がお使いから帰って来ると 読解検定長文 小6 春 2番
善太がお使いから帰って来ると、げんかんに子どものくつと女の 下駄がぬいであった。
「三平らしいぞ。」
思わず 微笑がほおにのぼってくる。それでもまじめくさって、
「ただ今。」
と、上にあがって行く。 座敷で、おかあさんと 鵜飼のおばさんとが話している。おじぎをしてそばにすわる。「三平ちゃんは?」と聞きたいのだけれど、なぜか、その言葉が出てこない。立ってその辺を歩いてみる。茶の間にも、台所にも、 奥の間にもいない。げんかんの 帽子掛けにチャンと三平の 帽子があり、その下に 背おいカバンも置いてある。聞かなくても、三平は帰っている。こんどは外へ出てみる。 柿の木の下へ行ってみると、そこにおかあさんの大きな 下駄がぬいである。三平がのぼっているのである。 善太ものぼって行った。木の上でふたりは顔を合わせた。ニコニコして見合ったのであるが、言葉が出てこない。一週間ばかりしか別れていないのに、ふたりとも少しばかりはずかしい。三平ちゃんともいいにくいし、にいちゃんとも 呼びにくい。まして、三平が夢の中で子 捕りにとられて、自分が泣いたなんてことはいおうにもいわれない。三平とて同じである。しかしいつまでもニコニコしあっているわけにもいかない。三平は木をすべりはじめた。 巧みにすべるのである。五、六日でそんなにもじょうずになっている。無言で、そのじょうずなところを三平はやってみせた。 善太もそれにおとらず、じょうずにすべりおりた。 善太がおりると、三平は登りはじめた。登るのもじょうずである。二、三度この木登り競技をやって、ふたりとも下におり立った時、 善太が思い切って 呼んだ。
「やい、三平。」
「何だい。」
この声と共に、ふたりは取り組んだのである。うれしさ、はずかしさのやり場はこれ以外になかった。
「何だい、弱いじゃないか。」
善太がいってみる。
「ナニッ。」
三平は顔を真っ赤にして、手足に力を入れた。∵
「そうか、少し強くなったかな。」
「強いさあ。」
三平はメチャクチャに力を出すのである。ウーム、ウームとうなって 押すのである。前からあった 押し出し相撲の丸の中から、 善太はとっくに 押し出されていた。
「こりゃ強いぞ。」
善太がいうと、三平はますます 押して来る。
「負けた。負けたよ。」
そういっても、三平は 押し手をゆるめない。
「オイ、にいちゃんが負けたんだよ。」
「なあにィ。」
とうとう 善太は 垣根の 檜のところまで 押しまくられ、 檜の枝葉の中に 押しつけられた。
「 降参、 降参。三平ちゃん、ぼくの 鉛筆やるからなあ。」
それでやっと三平の手をはなしてもらった。
( 坪田譲治「風の中の 子供」)
針葉樹は現在、世界中に 読解検定長文 小6 春 3番
針葉樹は現在、世界中に五六〇種ほど知られており、多様化という意味でも、植物進化のうえでの成功者といえるグループである。それに対して、世界各地で化石が多く出土することから、かつて地球上にかなり広く分布していたと 推測されるイチョウの仲間は、今では分布 域がいちじるしく限定され、 現存種はイチョウ一種だけである。
繁栄を続けた 針葉樹と 衰退の 一途をたどったイチョウ類。ここ数百万年間の植物界での交代 劇の主役たちの命運をわけたのは、 針葉樹が進化させた 松脂だったのではないかと 推測されている。 針葉樹は、 松脂という非常に効果的な 防御物質を進化させることによって、食害を効果的に 回避することができるようになったのである。
虫に食べられてしまうのを防ぐことができれば、 厳しい環境で成長が 抑制されたとしても、光合成で 稼いだものを少しずつ 蓄積しながら、時間をかけてゆっくりと成長していくことができる。それに対して 松脂を発明するという適応進化をなしえなかったイチョウは、食害に苦しんだ結果、 樹木進化の主役の 座を 降りなければならなかった。そして、大気 汚染に強いことにあらわれているような別の面でのストレス 耐性を 獲得したイチョウ一種だけを残して 絶滅してしまった。
はてしない適応進化の一断面として、現在にその 姿を伝えている生物は、その一種一種が、地球および 地域の地史と生命史の産物として、かけがえのない歴史的 存在であるといえる。
( 鷲谷いづみ「生態 系を 蘇らせる」)
ぼくの小さいころは 読解検定長文 小6 春 4番
ぼくの小さいころは、買い物をするのに定価のないことが多かった。店の人と世間話から始まって、 値切るやりとりがあった。そして、自分が 値をきめたような気分が少しはあって、その 値段にチョッピリ自分の責任があった。
もちろん、ドジだと高く買わされる。要領のよいのがトクをする。同じものを買うのに、高く買うのもあれば、安く買うのもいる。まったく、「不平等」だった。
このごろでは、共同 購入などと、代表者にまかせるのまである。そのかわり、みんなが同じ 値段で買う。国家と生命の売買をやるのだって、代表者にまかせて、みんなが同じ 値段でやるのじゃないかと、時節がら少々不安である。
ドジを重ねて、要領をおぼえたものだ。それで、ある日急に買い物上手になったりもする。店との相性もあるもので、気に入りの店だと安く買えたりする。なじみがいもあった。ドジが固定するものでもないし、ある店ではドジでも、別の店では要領よくナジミになったりもした。
いつでもドジだと 困るかというと、そうした人間は、店のほうからまけてくれた。ドジにつけこんで、いつももうけていたのでは、店の評判も落ちるのだった。
そして、要領のよい子を相手にとなると、店のほうでもなかなかシブトイ。 値切り合戦というのは、ゲームでもあった。そしてそこには、ヤヤコシイ人間関係があった。
若い人に聞くと、そんなのメンドクサイ、と言う。金を出して物を手に入れる、それだけならば、だれでも同じ 値段で物が手に入るのが「平等」だ。その 極端なのは、自動 販売機で、機械にお世辞を言っても、まけてくれない。
しかしぼくは、要領のいいのやドジなのや、さまざまに混じりあって、店も客もさまざまに気を使いあう世の中が、よい世の中だと思う。
校則だって、守る生徒やら守らない生徒があって、うるさい教師や 甘い教師があって、そのなかで 叱られたり 逃げたり、そのほうが気持ちがよい。このごろの「非行生」の文句に、「他の人間もやってるのに、自分が 叱られるのは不公平」というのがある。これは、「非行」それ自体よりも、人間社会にとってよほど 危機ではない∵か。
自分がドジで 叱られようが、要領のよい仲間が 叱られずにすむことは、喜ぶべきことであるはずだ。「不公平」というのは、ヤッカミ根性のことかもしれぬ。
問題は自分だけのことだ。他人が 叱られようが 叱られまいが、どうでもよいことだ。今はドジでも、今度はうまくやればよい。こういうのこそ、「自立してない」と言うんだろうな。せめて「非行生」だけでも自立してほしい。「 優等生」が自立してないことは、大学生を相手であきらめてるんだから。
(森 毅「ひとりで 渡ればあぶなくない」)
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