男の子が生まれて 読解検定長文 小6 春 1番
男の子が生まれて一番 嬉しいと思ったのはこのプロレスごっこをはじめとした 乱闘あそびができることだ、と 私はいつかかなり 真剣な顔をして妻に言ったことがある。(中略) 岳が二、三 歳の 頃はまだ 彼はプロレスやボクシングというものをよくわからず、 抗争は「ウルトラマン対 怪獣」という図式になっていた。 岳はいつも正義の使者であり、 私は 宇宙の 暗闇からやってきて平和な地球を 滅ぼそうとする悪の 怪獣という役回りだった。
岳はこれを「たたかい」と 呼んでいた。保育園から帰ってくると「おとう、たたかいしようぜ」と早くも正義の使者の顔つきになって 闘争を 仕掛けてくるのだ。
「たたかい」が「勝負」に変ったのは 岳が三年生になってからだった。
それはいつもやられ役だった 私が その頃から意図的に時おりこっぴどく 彼を 痛めつけるようにしたからのようであった。サッカーをはじめた 岳の体がしだいに強健になり、すこしぐらい手 荒に投げつけても 大丈夫、ということがわかってきてから 私自身もふざけ半分ではなく本格的に力を 込めてたたかうようにした。(中略)
岳と 私の勝負がさらに 過激になっていったのは 私がパタゴニアの旅から帰ってきてからだった。パタゴニアの旅は氷河の海を航海し、あとはパンパという大草原を動き回っているだけだったので、 岳への土産は何もなかった。そこでチリの一番南の 端にあるプンタアレナスという町で 私は 岳のためのおみやげを制作したのだ。プンタアレナスは小さな港町で 港湾用品や金物屋ぐらいしか店がなかった。(中略)そこで 風呂の流しの金物や 真鍮製の 円盤、自動車用のコンドルの 飾り物などを買ってきて、ホテルの部屋にとじこもり、それでプロレスのチャンピオン・ベルトの 飾りものを作ったのだ。(中略)
私は家に帰り、そのベルトを 岳に見せ、ただでやるわけにはいかないぞ、と言った。おれと 闘ってピンフォールで勝ったらこのベル∵トをやろう、と言ったのだ。その 晩の 闘いは 私と 岳の 闘争史の中でも一、二を争うようなベストマッチとなった。
二十分の 死闘の中で、 私は 岳の 足腰がしばらく会わないうちにさらにまた 強靭になり、 蹴りやパンチのひとつひとつの 威力がずんずんと 恐ろしいほどに効くようになっているのを知った。そしてうしろ回し 蹴りという 凄じい技をなかばまともにくらって 倒れ、ピンフォールされた。まだ 私は全力ではやっていなかったが、今日は自分のもっている力の六 割ぐらいをきっちり出してやつに負けたな、と 畳の上にあおむけになったまま思った。
そして 岳は その頃から学校での 喧嘩ランキングを不動の第一位にしていったようであった。五年生になると学年だけでなく全校でやつが一番強いらしい、という話を 岳の仲間の何人からか耳にするようになった。
そうだろうな、と 私は思った。 衰えつつあるとはいえ体重七十二キロ、身長一七六センチ、 柔道弐段の 私をかなり手こずらせるようになっているのである。あいつが本気で 怒ったらいまのひょろひょろの六年生などまずかなうまい、と思った。 岳のそういう、良いか悪いかわからないけれど、まあそれはそれでひとつの「能力」のようなものを、 私はかなり意識的に 彼の 幼児の 頃から「たたかい」という遊びを通してじっくり着実に育ててきたような気がするのだ。(中略)
私はそんなふうに、「たたかい」の世界を 岳におしえてきたかわりに、その分だけ勉強というのを一切おしえなかった。「勉強しろ」とも言わなかった。そして 彼はそちらの方も着実にあからさまにその成果をあらわにしているのだった。「 子供にかまいすぎるとどっちにしても失敗するのさ」とクールに言っていた 沢野の顔が 私の目の前にまたぼんやり 浮かんできた。
( 椎名誠「続 岳物語」)
二年前、私は妹をお供につけて 読解検定長文 小6 春 2番
二年前、 私は妹を お供につけて母に五 泊六日の 香港旅行に行ってもらった。
「死んだお父さんに 怒られる」とか「 冥利が悪い」と 抵抗したが、もともとおいしいもの好きで、年にしては 好奇心も 旺盛な人だから、追い出してさえしまえばあとは喜ぶと判っていたので、 けんか腰の出発だった。
空港で機内 持ち込みの荷物の改めがある。 私は、母と妹が係官の前でバッグの口をあけているのをプラスチックの境 越しに見ていた。
「ナイフとか 危険なものは入っていませんね」
係官が型の 如くたずねている。 私は当然「ハイ」という答を予期したのだが、母は、ごく当り前の声で、
「いいえ持っております」
私も妹もハッとなった。
母は、大型の 裁ちばさみを出した。
私は大声でどなってしまった。
「お母さん、なんでそんなものを持ってきたの」
母は 私へとも係官へともつかず、
「一週間ですから 爪が 伸びるといけないと思いまして」
係官は笑いながら「どうぞ」といって下すったが、 私は、中の待合室でなぜ 爪切りを持ってこなかったのと 叱言をいった。
「 出掛けに気がついたんだけど、 爪切り 探すのも気ぜわしいと思って」
言いわけをしながら「お父さん生きてたら、 叱られてたねえ」
とさすがに母もしょんぼりしている。(中略)
祖母が 亡くなったのは、戦争が 激しくなるすぐ前のことだから、三十五年前だろうか。 私が女学校二年の時だった。
通夜の 晩、 突然玄関の方にざわめきが起った。
「社長がお見えになった」
という声がした。∵
祖母の 棺のそばに 坐っていた父が、客を 蹴散らすように 玄関へ飛んでいった。式台に手をつき入ってきた初老の人に お辞儀をした。
それは お辞儀というより 平伏といった方がよかった。当時すでにガソリンは統制されており、民間人は車の使用も思うにまかせなかった。 財閥系のかなり大きな会社で、当時父は 一介の課長に過ぎなかったから、社長自ら通夜にみえることは予想していなかったのだろう。それにしても、初めて見る父の 姿であった。
物心ついた時から父は 威張っていた。家族をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった。地方支店長という 肩書もあり、 床柱を 背にして 上座に 坐る父しか見たことがなかった。それが 卑屈とも思える お辞儀をしているのである。
私は、父の暴君 振りを 嫌だなと思っていた。
母には指 環ひとつ買うことをしないのに、なぜ自分だけパリッと 糊の利いた 白麻の 背広で会社へゆくのか。部下が 訪ねてくると、分不相応と思えるほどもてなすのか。 私達姉弟がはしかになろうと 百日咳になろうとおかまいなしで、一日の 遅刻欠勤もなしに出かけていくのか。
高等小学校卒業の学力で給仕から入って 誰の引き立てもなしに会社始まって以来といわれる 昇進をした理由を見たように思った。 私は 亡くなった祖母とは同じ部屋に起き 伏した時期もあったのだが、 肝心の 葬式の悲しみはどこかにけし飛んで、父の お辞儀の 姿だけが目に残った。 私達に見せないところで、父はこの 姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険 契約の成績が思うにまかせない 締切の時期に、八つ当りの感じで飛んできた 拳骨をも許そうと思った。 私は今でもこの夜の父の 姿を思うと、 胸の中でうずくものがある。
(向田 邦子「 お辞儀」)
自分らしさ、っていったい 読解検定長文 小6 春 3番
自分らしさ、っていったい何なのだろうか。その人らしさ、個性、とは、どのようにしてできあがるものなのだろう。自分らしさは自分でだんだん外側へつくりだしていくもの、という考え方や感じ方があるようだ。ちょうど、雪だるまをつくるときのように、新しいものをだんだん外側へくっつけて、自分をふくらませていくというイメージだ。
しかし 私は、自分らしさとか個性というものをそのようなイメージでとらえてはいない。それは、自分でつくり出すものではあるけれど、同時に自分で自分の内側を発見していくものなのだと思っている。自分の中には、はじめから自分らしさがちゃんと備わっている。その自分の声に耳を 澄ませながら、自分らしさを見つけだしてゆくことが、自分を 探す旅であり、自分の人生を生きるということなのではないだろうか。
そのイメージは、雪だるまをつくるようなものではないとすれば、むしろ果物の実がふくらみ、 熟れてゆくありさまに似ている。外側へふくらみつつ、内側に備わった自分の味を実らせてゆく。りんごはりんごの、 桃は 桃の味を、たしかに見いだして、内側を 充実させてゆく。外側への広がりと、内側の実りが、果実の 成熟である。
りんごはりんごの、 桃は 桃の味、と言った。すみれはすみれの、マーガレットはマーガレットの花の色、と言ってもよい。決してひとは生まれたときは白紙ではないし、成長とともに 環境によって 染められるだけのものではない。
ところが、ひとは生まれたときは白紙で、そこには何でも書きこめるし、自由に作れるという考え方がある。たとえば、ある心理学者は、「わたしにひとりの正常な 赤ん坊を 与えてくれて、しかも 環境を自由に 操作することを許してくれたなら、その子をどんな人間にもしてみせるし、どんな職業にもつかせてみせる」という意味のことを言った。人間をどのようにもつくれるという考え方をとらない心理学者もいるけれども、しかしさきにひいた言葉のように、ひとは 環境をととのえればどんなふうにも自由につくれるという考え方は、いまの世の中にかなり根づよくはびこっている。けれども 私は、その考え方は 誤りだと思っているし、むしろ 危険な考え方だと思っている。それとは逆に、「子どもは白紙ではなく、∵一 冊の本である」といった人がいる。その本を、大人は心をこめて読んでいこう、というのである。この考え方の方が 私はずっと好きだ。その 私の考え方や感じ方は、 私が 太郎と 次郎というふたりの子どもと長いことつきあってくる中で、しだいにはっきりとしてきたものだ。また、子どもたちについてだけでなく、自分自身というものについても、だんだん明確な考え方がもてるようになってきたといえる。
子どもを育てながら、母親たちはいろいろなおしゃべりをする。その中にしょっちゅう登場する次のような話題がある。それは、「同じ両親から生まれて、同じように育てているつもりなのに、きょうだいでもぜんぜん 違うわねぇ」というような言葉である。「そうね、だから子どもを育ててると面白いのねぇ」などと話は続いていく。
あなたに、もしきょうだいがいたら、やっぱり自分ときょうだいのことをそう思うのではないだろうか。同じ親から生まれ、同じ家庭で育っても、ひとりひとりはおもしろいほど 違う。長子と次子のちがいだとか、ひとりっ子の性格だとか、 環境論をとなえる人々は言う。けれど、どうもそれでは説明のつかない色あいの 違い、持ち味の 違いのようなものが、ひとりひとりの 核にあるというのが、子どもとよくつきあったことのある人の実感なのだと思う。
( 小澤牧子「自分らしく生きる」)
今年の秋、ウィーンの楽友協会ホールで 読解検定長文 小6 春 4番
今年の秋、ウィーンの楽友協会ホールで武満 徹さんの新作クラリネット・コンチェルトがウィーン・フィルハーモニーによって 演奏される。二百年前、モーツァルトのクラリネット・コンチェルトがウィーンで初 演奏されたのを記念する 催しで、百年前には同じ 趣旨でブラームスがクラリネット五 重奏を作曲していることを考えると、これは日本の音楽界だけでなく日本にとって大きな出来事だと思う。おそらくわが国の文化芸術の分野でこれに 匹敵することはかつてなかったし、今後もそうそうあることではなかろう。(中略)
製紙会社の会長と作曲家武満とのかかわり合いを不思議に思われる方もあると思うが、家内同士が学校時代からの親友で、武満さんが二十 歳を過ぎたころから家族ぐるみのお付き合いをしてもう四十年にもなろうとする。だからといって 私は 彼の音楽をいっこうに理解するものではないが、今回世界の 存在とまでなった武満さんの人生の来し方を 眺め続けてきた者として、その人間的バックグラウンドを語ってみたい。
何よりもまず自分の道を自分のやり方で歩いてきた人である。作曲家としても 徒手空拳、自ら一家をなしたので、音楽学校へいったわけでも特定の師についたのでもない。本当に才能のある人は 既成概念で教育など授けないほうがよほど 純粋に成長できるという真理を 彼もまたわれわれに示してくれた。 大江健三郎との 共著「オペラをつくる」の中で 彼はこういっている。
「ぼく自身が音楽家としての四十年、音を表現 媒体として、自分でしか言い表せないようなことを表す。……音楽といってもその表現のスタイル、形式は多様で、たんに 慰めや 娯楽のための音楽であれば、時代の人たちが喜ぶような表現方法はあるように思います。しかし、ぼくがやっている音楽はそういうものでなくて、音というものを通して人間の実在について考える。どちらかというと、詩とか 哲学とか、そうしたものに近い表現形式として音楽をやっているわけで、これがいちばんむずかしいところなんですね」
創造性と個性、いまの日本人にこれほど求められているものはない。∵
武満さんはまた世界人であると同時にすぐれて日本人である。 彼の作風からもこのことはよくうかがえる。代表作であるノヴェンバー・ステップスには和楽器である 琵琶と 尺八が取り入れられ、本来西洋のものであるコンチェルトに日本の音色を植えつけたことはあまりにも有名である。前述の本の中で 彼はまた、「 僕の音は西洋音楽の音とはまったく 違う」とも述べている。 彼の音楽は西洋の 亜流ではないようだ。そこが世界の注目をひき絶賛を博しているのだと思う。(中略)
ややしかつめらしいことを書いてきたが、多くの人々が武満さんにひかれるのは、根っからの 市井人である一面であろう。 立派なサイレント・マジョリティの一員、 卑近な言い方をすれば 熊さん、八つぁん的要素である。 熱狂的な 阪神タイガースファンでシーズンになると外出先でもラジオを 離さず 一喜一憂している。まさに日本人の判官びいきを絵に 描いたようなものである。
私は 彼の 背広姿をほとんどみたことがない。 普通はズボンにセーター、改まったときは、ネクタイなしだが独特のスタイルのジャケットを着用している。最近、だれのデザインですかと聞いたら、これは森 英恵さんですと答えた。これで日本はおろか世界中を通している。 私はひそかに浴衣がけの外交と 呼んでいる。あのとても 頑丈とはいえない肉体で年に何回となく外国に出かけるエネルギーは 聡明で 献身的な 奥さん、才気 煥発の お嬢さん、そして 猫二 匹という 恵まれた家庭のたまもので、これは 彼の最大の作品かもしれない。 市井人の常識が申し分なく働いている。ここにもいまの日本人がともすればないがしろにしがちなものがある。
武満 徹論を最後に 締めくくれば、世界への道の前に日本の道があり、日本への道の前にわが道があったということであろうか。そして 平凡の中に 非凡があることがなんとも 魅力的である。
(河毛 二郎「逆風順風」)
|