日本人の生活で 読解検定長文 小6 夏 1番
日本人の生活で 顕著なひとつの特色として言われているのが、日本人の 勤労精神である。 芳賀矢一が明治四〇年に書いた『国民性十 論』は 名著の聞こえ高い本で、「 忠君愛国」とか「 清浄潔白」とか、十か条のものを教えていた。ところが、「働き者だ」ということは書いていないのである。当時の日本人も今と同様 勤勉だったろうが、 芳賀は、日本人が働くことは当然だと思っていたらしい。いかにも日本人の 勤労を愛する精神が表れているではないか。
アメリカあたりの町では、すべての商店は日曜日はやすみで、たまにあいている店があると日本人の店だという。もっともキリスト教は、神が日曜日を休息の日と定めたのであるから、この点は日本人は罪深きものとして 非難されている。それはともかく、独立そのものが 危ぶまれた第二次世界大戦 終了時の状態以後の 経済成長ぶりは、日本人の 勤勉さのたまものにちがいない。筆者はインドネシアに行った時に、バスに乗るために道を走って笑われた。現地ではおとなは走るものではないのだそうだ。そう言われてみると、アメリカでは日本人と同じようにおとなが走る 姿をまれに見かけることがあるが、中国やタイではそのような情景は見ない。
一体に日本人は、海外に行ってもせかせかしている。空港の待合室で、飛行機の出発が一時間おくれるというニュースが入っても、外国人は大体平然としている。日本人に限って急にそわそわして立ち上がって、もう一度みやげ物店へ行ったりして、時間をつぶそうとする。日本人は始終なにかしていないではいられない民族らしい。
日本人のこの性格をよく表しているのが、「働く」という単語である。第一にこの「働」という字は中国の文字ではなく、日本製の文字、国字である。おそらく国字の中で、最も使用 頻度の高いのはこの「働」という字ではないか。 一般に国字には、訓読みはあっても音読みはないものであるが、この字に限ってドウという音読みをもっている。最も重要な国字がハタラクという字だということは、日本人の 勤勉性を 象徴していると思う。
そうして、このハタラクは英語にすればworkになるが、その語義を比べると、ハタラクの方が語義が 狭く、使い方がやかまし∵い。たとえば 机に向かって勉強しても、英語ではworkであるが、日本人はそういうのを「ハタラク」とは言わない。ハタラクは自分のために事をするのではいけないので、何か他の人の利益になること――金をとってくるとか、 掃除・ 洗濯をするとかがハタラクである。日本人は「うちの 娘は勉強ばかりして、ちっとも働かない」などと言うが、これを英語に 訳することは 難しかろう。
ハタラクの反対語はアソブというが、これも英語のplay(プレイ)とは 違う。playは「何かする」ことで、よいことであるが、日本の「アソブ」という方は、むしろ「何も役に立つことをしない」ことで、悪いことである。
じれったく師走を遊ぶ指 咎め
という 川柳があるが、 相撲の 中継放送などで「朝 潮の右手が遊んでいる」というように、よくない例に引かれ、日本的である。このごろは、日本人はレジャーの楽しみ方を知らないなどという 評論がよく聞かれるが、日本人は遊んでばかりいては不安になる民族である。
ついでに筆者は、いかにも働くことの好きな日本人の好む言葉として「いそしむ」という単語をあげたい。和英辞典を引くと、「いそしむ」はイコール「 励む」でendeavorと書いてあるが、筆者に言わせると「 励む」と「いそしむ」は 違う。「 励む」はガムシャラに働くことであるが、「いそしむ」は、働きながら、働くことに喜びを見出しているニュアンスがある。日本人は働くことを愛する。だからこそ「いそしむ」というような言葉ができるわけで、いかにも日本語らしい単語だと思う。
(金田一 春彦「日本語」)
若い人達の 読解検定長文 小6 夏 2番
若い人達の 敬語が 乱れている、という。しかし、おとなもずいぶん、いいかげんである。
――総理の申されまするには……などということばは、議会の 中継などを聞いていると、しきりにでてくる。これは、 間違いである。
申されの「れ」は、この文句をしゃべっている人の、総理に対する 敬語である。ところが、「申す」というのは「言う」ということばの、へりくだった言い方であって、それでは、「申す」と「れ」とが折り合わない。「総理の言われまするには」とでも言えばよいのだが、あきらかに、 謙譲語と 尊敬語の 混乱使用である。
もっとも、「総理がもうしまするには」という場合もありうる。しゃべっている人の、総理に対する 敬意は別として、総理の下にいる者が、他の人に対してへりくだった言い方をする場合だ。会社の電話の 交換手なら、他からかかった電話口で「ただ今、社長がいらっしゃいません」といっては、他に対して失礼だろう。かといって「ただ今、社長はいません」も 乱暴だ。適切には「ただ今、社長はおりません」というべきだ。
つまり「おっしゃる、いう、もうす」の三通りの言い方に対して、「いらっしゃる、いる、おる」が、対応しているわけだ。そして、この対応の、 敬語、 謙譲語を、さまざまの人間関係で使い分けることは、なかなかむずかしくて、決して、「 若い人」だけの 乱れではないのである。
ことに、茶の間のことば、家庭内のことばを、そとにそのまま持ち出すことは、全くおかしい。そして、これも決して 若い人だけの 錯乱混用ではなく、相当の 年輩の人でもよくやりそこなっている。
今はもう、六、七十 歳に達しているはずの老婦人たちが、今から三十年ほど前そういう 錯乱混用をわたしの前で実演したのには、 驚いた。わたしがまだ二十二、三 歳、大学でたての教員で、中学校の教師となった折のことである。父兄会で面接すると、母親たちが、実にめちゃめちゃなのである。
――おにいちゃんの方は、ほうっておいても、一人でどんどん勉強するのですが、ぼくちゃんの方は、少しも勉強しません。∵
わたしは、その「ぼくちゃん」の 担任として、その、おにいちゃん、ぼくちゃんの兄弟の母親と、話しているのである。
――あの子もかわいそうで。何しろおとうちゃまが、 喧ましゅうございまして。
わたしの面接している女性の 亭主が「おとうちゃま」なのである。そしてこれらの例は、戦前、昭和十年代に、わたしを 驚かせたことばづかいである。今の 若い人達だけを、とやかくいうことはできない。
問題の一つは、社会における人間関係の変わり方の 激しさである。 敬語ということばづかいの 体系を支えて来ていた、旧社会の、目上、目下、 長幼序ありの根本的な感覚が、変わってしまえば、そうした感情なしに使えば、形式のまねぞこない、ということも起るだろうし、第一に、初めから、使おうともしなくなってしまうであろう。それは、 敬語のことばづかいが 乱れたのではなく、その 背後の社会的人間関係が変わり、特に、目上だから、先生だから、親だから、というだけで、まず 尊敬する、という感情が失せたのである。だとすれば、 敬語の 乱れを 叱る前に、そういう変化をどう 認識するかが、大事である。
ふだんのことばづかいと、よそゆきのことばと、使い分けることは、必ずしも賛成しないけれども、茶の間と会社とでは、自然とそこに 相違がある。それならば、少なくとも、そとの人間関係においては、ていねいなことばを使うことは、必要であろう。そのことぐらいは教えなくてはなるまい。 若い人が流行語を 盛んに使うことなどは、さして心配することはない。自分で自分を規制しうる者なら、そう不快なことばなどは使わないからだ。
(池田 弥三郎「 暮らしの中の日本語」)
春太は、さっきから 読解検定長文 小6 夏 3番
春太は、さっきから何度も、 鞠投げの仲間に入れてくれよと 頼んだが、 彼は受け入れてもらえなかった。
「くやしかったら、ひとりでおやり。」
「ハッちゃんとやればいいものを。」
ハッちゃん……。
春太はこのようなしんらつなものを、期待していなかった。 彼の顔は、まっかになってしまった。すると、それをあおるように、最後にアサコが、
「ハッちゃんと、仲よしだもんね。」
といった。
しかし、アサコはさすがに、日ごろから春太と二人きりで遊ぶ手前があるので、面と向かってはいえなかった。それで、 鞠をほうりながら、それを受け止める相手に向かって、同意を求めるようにいった。
アサコまでが、それを信じているとは。――春太はもうがまんできなくなった。春太はハツなんかと、何でもありゃしない。 鉛筆を貸してやったのは、好きだからではないのだ。級長であることの責任感から貸してやったにすぎないのだ。
春太は一人一人 捕まえて、 彼女らが信じていることは、根も葉もないうそであると 納得させてやりたい 衝動を覚えた。それは 無駄な努力にすぎない。なぜなら、一人一人を 捕まえてみれば、春太に 征服されてしまうのであるが、集団に返れば、再び手に負えないものに逆もどりするのであるから。
春太はハツと仲よしだなどといわれるのが 恥ずかしくもあり、くやしくもある。そのとき、持っていき場のないふんまんは、何というよいはけ口を 与えられたことであろう。アサコの手をそれたボールが、春太の足もとに転々と近づいてきた。
しめた。――アサコが追っかけてきて、手を 伸ばしかけたところを、横からやにわにボールを 奪い取ると、春太は 楠を回って、 宝蔵倉の方へ 逃げ出した。返してよ、返してよ。ざまあ見ろ、思い知ったか。
ところで、春太がアサコに追われて、 宝蔵倉の前の、だれもいないところまで来たとき、事態はへんてこになってしまった。アサコ∵は 真剣になって、ボールを追ってくるのだ。 彼女はボールのみを念頭において、そのボールを 奪った春太を追っかけてくるのだ。春太の気持ち――仲間に入れてくれないばかりか、ハツの名まで持ち出して、いやがらせをいった 腹いせなど、 彼女は 忖度する 余裕をまるでもっていないのだ。もし、 鞠を失うようなことになったら、アサコはその場で泣きだすかもしれない。しかし、春太はこのままおとなしく返してやる気には、どうしてもなれない。そのようにばつの悪いことが、できるものではない。
もう、どうにでもなれという気持ちがわいた。春太はボールを 宝蔵倉の横から、坂の下の方へ力いっぱい投げた。二人は坂を一気にかけ下りて、ほとんど同時に、ボールの場所に 到着した。そして、二人はそこで、はからずも 鉢合わせをしなければならなかった。それははげしい 衝突だった。
アサコの額は、こんなにも固かったのか。――春太はめまいを感じて、そこに 膝をついてしまっていた。二人は二人の間のボールを取ろうとしなかった。そして、 痛みの去るのを待っている間、相手を 互いに眺め合っていた。何というこっけいな場面だろう。
春太はおかしくなって、ちょっと笑ってみた。するとアサコも、それに応じた。二人は同時に笑い出した。
春太は、そのような変な 巡り合わせの場所で、今までアサコとの間には、一度も 存在したことのなかった、ある平和な気持ちが生じていることを感じた。それはまさしく、アサコも感じているものに 違いなかった。二人のもっている真実の面が、ぴったりと重なり合って、そこに生じる和やかな美しいリズムであった。
春太は、ついさっきまで 抱いていたふんまんや 腹いせや、それに 伴う快感など、そうしたもの一切が、春光につつまれた 雪塊のように、 跡かたもなく 溶け去っていくのを感じた。
「ごめんね。」
と、アサコが立ち上がるときいった。春太も、何かわびたいような気持ちがあった。しかし、春太は 微笑して、首を左右に 振った。
(新美 南吉「 鞠」)
美術担当の先生洋は 読解検定長文 小6 夏 4番
美術 担当の先生洋は、学校の近くで開かれている写生大会を見まわりながら指導していたが、その 途中で、 描くのに苦労している女の子の下絵をよかれと思って手伝った。一方、学校で何かと話題の中心になる根元少年の 姿が見えず、気になっていたが……。
ふりむくと――根元少年が立っていた。
―先生は 描かんのきゃあ?
と、きいた。
―ん? 今日は見まわるだけで 手一杯やからな。
正直に答えてから、ふと気になってきき返した。
―根元はもう 描いたンか。
根元少年は 黙って画板をさしだした。白紙だった。ピンを外して 裏返して見ても何も 描いてなかった。
―今までなにしてたンや。
ちょっときつい声になってとがめるように言ってしまった。根元少年は平気で、チョウチョを追いかけとった――と答えた。
―白紙なんか受けとらヘンよ。
と言ってやっても、やっぱり平然としている。そしてさっきとおなじ質問をした。
―先生は 描かんの?
― 描く用意してへんさかいなあ。
根元少年は 黙って自分の画板と絵具箱と、カンヅメを利用した水入れをさしだした。
―根元のを 描いてやるわけにはいかんがな。
やんわり断ると、根元少年はついと横をむいて鼻を鳴らした。
―女の子のは手伝ってやったのによ……。
どこからか見ていたらしい。
―あんまりおそいから、ほんのちょと手伝うたンや。
弁解がましくなると知りながらも正直に説明した。すると根元少年は自分の画用紙を指して、おれの方がもっとおそい……と、つぶやいた。
―それはちがうで。あの子は 一生懸命やってもおくれたンや。根元はチョウチョを追うとっておくれてただけやろ。
∵さすがに洋もちょっととんがった声で言ってやると、根元少年は首をすくめ、
―言えてる。
さすがに自分のさぼったことをみとめた。
―今からでも 描くか。手伝わンけど、見てたるさかい……。
洋が 誘うと、根元少年は素直にうなずいた。
―どこで 描くンや?
―さっきの女の子のとこ。
根元少年はただちに答えた。
―あそこ、先生の気にいったとこだろが。
―なんでわかるンや?
―チョウチョ追いかけながらでも気がついとったけど、先生、あそこに五ヘンも立ってたもんだでよ。
(ちゃんと見ておったンやな。いや、おれをつけとったな。そやさかい、こっちが 探しても見つからんわけや……。)
洋は苦笑して、さっきの場所へいそいだ。ところがそこで思いもかけない光景を見てしまったのだ。
( 今江祥智 「牧歌」)
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