ざーっ。裏手の大えのきが 読解検定長文 中1 春 1番
ざーっ。裏手の大えのきが風に鳴って……ぱら、ぱら、ぱらっ。 落葉が時雨のようにふりこぼれる。
まっさおな空。 沼の向こうに富士も見えて、まさに絶好のもみ干し日和だ。
和夫は、今日から五日の 農繁休暇。もちろん、父母の仕事を手伝うのはいやではなかったが、しかし 彼の胸の中には、 妙に 溶けない一かたまりがあった。それは、五日間、くたくたに働きつかれて登校すると、その五日間を遊びくらした同級生が、新刊の雑誌などを 小脇に、いそいそやってくることだ。
今年の初夏、田植期の 農繁休に、雨にぬれて 苗を運ぶつらさから、ふとその不公平を口にすると、母のかねは苦笑して、「生まれどころがまずかったね。せめて、 三井家でないまでも、裏の本田さんへでも生まれてくればよかったのに」といった。
本田さんは、もと、地主。農地解放で田畑はへったが、十町歩ばかりの山林がものをいって、けっこう、昔の生活をつづけている。母はそのことから、高校へ進学したがる和夫に、 冗談半分に言ったのだ。
だが、和夫としては、それは見当はずれな母の言葉だった。和夫は、こういいかえしたかった。
「おれは、おれだけよければ、それでいいなんて思ってないよ。おれは、 百姓の子だけ、 農繁休だといって、くたくたになるまで働いているのを、大人たちが、あたりまえみたいに見ているのをおかしいと思うんだ。」
けれども、和夫はそれを口に出してはいわなかった。いえば、生意気だと、父母はもちろん、兄や姉にも、笑われるか、しかられるかするに決まっているからだ。
ところで、母に手伝って、 筵を広げていく和夫を、じっと見ていた父の 仙吉は、
「和夫よかったな」
そしてからから笑った。
しかし、和夫には、何が「よかった」のかわからなかった。
すると、母がいった。
「そうだ、今年は 洪水にもとられず、風にもやられず、こんなにどっさり米がとれて、おかげで和夫は、 農繁休の 甲斐があってョ。」∵
「ちぇっ!」
和夫は苦笑で舌打ち。
兄と姉はげらげら笑った。
だが、父たちが 稲刈りに出かけてしまうと、母は、内密のようにいった。
「和夫。来年も、今年みたいに豊作だったらお 父は、和夫を、高等学校へやってくれるそうだよ。」
「ほんとか?」
和夫は、目をみはった。それは、まんざら予期しないことではなかったが、しかし、今日、母の口から聞くのは意外だった。
実は昨日、 農繁休暇についての注意のあとで、担任の平野先生が、高校進学希望者を調べた時、和夫は、一たん 肩のあたりまで挙げた手を、ひょいとおろしてしまったのだ。それにひきかえ、並んでいる白石 昇は、確信に満ちて手を挙げた。それは和夫にとって、まるで夢のような一場面だった。というのは、戦後、外地から 引き揚げてきて、 荒れた常陸野の一角に 開墾の 鍬をおろし、やっと 雨露をしのぐ 掘っ立て小屋に、ランプでくらしている 開拓農家。 昇の家もその 開拓農家の 一軒だったからである。
和夫だけではない。 昇が手を挙げた 瞬間、二年二組の四十六人は、あっ、といっせいに 呼吸をのんだ。みんな、 出し抜かれたような気がしたのだ。
( 住井すゑ『生きて行く』)
最初のうちこそ荒涼と見えた 読解検定長文 中1 春 2番
最初のうちこそ 荒涼と見えた樹木も景色も、いつか季節の移り変わりのパノラマの中で 清澄な美しさとして私の目に映るようになり、私はもの心ついた時からずっとかかえこんできた空想 癖をのびのびとふところに包み入れてくれる大きな手にようやくめぐり会えたのです。
登下校の道は言葉ではとても言いつくすことのできないすばらしい私の 書斎であり、宝庫であり親しい友と歩く時は応接間ともなるのでした。その道は冬の朝、きしみをあげる 薄氷の下に秋の名残の燃えたつような紅葉の落葉を 緋の 絨毯ともまごうばかりに 敷きつめているのです。雨のあがった夏の早朝、動こうにもそれができないほどびっしりと 霧がたちこめ、それなのに私の 肩や顔のそばでは白い水蒸気が 幽玄のもののごとくに音もなく流れていくのです。
松のこずえを 渡る風の音を聞きたさに、いく度ひとりで林のある小高い 丘に登ったでしょう。 手賀沼の 葦の間から立ちのぼる 陽炎の 香気にむせびたくて、いく度 朽ちかけた船着き場へ足を運んだでしょう。
これらの思いは、胸の内だけにかかえこむにはあまりに 清冽で 豊麗で大きすぎ、何かの手段をもってこれを外にほとばしらせないことには、自分がどうかなってしまいそうでした。
そうして私は生まれてはじめて自分の意志で日記を書きはじめることとなったのです。それは、もう一人の自分に語りかけることでした。もう一人の自分は、私が何を語りかけても、容姿が 劣っていることを理由に 突き放したりしないし、私の感動を、あざ笑ったり茶化したりも決してしません。それどころか不思議なことに、思いがけない問いを返したり疑問への答えの糸口さえあたえてくれる、実につきあいがいのある相棒ですらあるのです。
与謝野晶子の『みだれ 髪』を、まだ中学生が読むには早いと母に反対された時も、 彼女だけは認めてくれましたし、大好きだったリルケの『マルテの手記』がどう読んでも理解できなくて苦しんでいた 頃も 彼女はいっしょになって頭をひねってくれました。∵
(池田理代子『私の少女時代』)
公団住宅では、犬や猫を 読解検定長文 中1 春 3番
公団住宅では、犬や 猫を飼うことが禁じられていた。それでも幼い子供たちはどこからか、よれよれに毛のよごれたむく犬や生まれたばかりの 猫の子を拾ってきて、夕方まで 飽くこともなく遊んだのち、きまったように「今晩だけでいいから 寝かせてやって。」と切ない顔をしてねだった。手ごろなボール紙の箱に古綿などを 敷いて、ベランダの 隅に子供が置いてやったか弱い生き物を、子供たちの 寝入ったのちにそっと捨てにゆくのは、むごくて罪深い感じがした。
翌日の朝、目を覚ますやいなや飛び起きていって、目に 涙を 浮かべて立ちつくしている子供に、「ゆうべお母さん 猫が 迎えに来て喜んで帰っていったのだから、もうそっとしておいてやりなさい。」と言い聞かせながら、親の心も楽しくはなかった。
いろいろ考えたすえ、文鳥を買ってきて飼うことになった。本当はもっと大きくて感情の動きの分かるインコのようなものがほしかったが、貧しい私には手が出なかった。まだよく毛も生えそろわないで、あちこち 赤肌のむき出しになっている小鳥の 雛の姿は、あまりかわいいものではない。 餌をほしがって意外に太い声でのどを鳴らしながら、くちばしを精いっぱい開いた顔は、 貪欲で 妖怪じみた感じさえした。
だが、子供たちは、腹がすくとしりに火がついたように鳴きたて、腹がいっぱいになるとうつらうつら夢ばかり見ているような小さな生き物に、時には気まぐれな、時にはこまやかで 頼もしい保育本能を示すようになった。それにこたえるように、ひと月、ふた月とたつにつれて、二羽の白文鳥の 雛は毛なみが整い、半年ほどたつとくちばしや目のふちに桜貝のようなやさしい紅の色をにじませ、羽はつやつやと内側から 輝くような美しさを見せるようになった。かごの入り口を開けると、すぐてのひらに乗ってきて、 腕から 肩によじ登り、耳たぶを 突っついたり、 髪の毛を引っぱったり、親愛のかぎりの動作を、いたずらっぽくやさしく、いつまでも 繰り返すのであった。
このかれんなやさしさは男の子には少しもの足りないだろうな、と思って見ていた。∵
私は山の中の 一軒家で育ったけれども、もの心ついたときからいつもそばに犬がいた。犬好きの父は、多いときには十二 匹もの紀州犬を飼っていた。私が学校を終えて村はずれの橋のところまで来ると、きまってそこに、父に命じられて私を 迎えに来た犬が待っていて、そこから二キロの山道を後になり先になりして歩いて帰るのだった。家に帰りつくと、父は私と犬とを 交互にいたわり、おやつをくれた。
古代とあまり変りのないような自然の中で、家に飼う生き物と、自然に 耐える厳しさを分かち合って生きた幼時の体験を持つ私には、子供たちが小さな小鳥とかわし合うちまちまとした愛情は、見ていていらだたしく、もの悲しくなるような気がした。それでも何も飼わないよりはよいと思った。
それから二年ほどたった年の夏、私たち一家は 蓼科へ三、四日の小旅行をすることになった。二羽の文鳥は小さな鳥かごに移されて、兄弟が 交替で持った。ふろしきにすっぽりと包んで運ばれるかごの中に、文鳥はひっそりとおとなしかった。後から考えると、真夏の東京の暑さから 冷房した列車へ、さらに長い間バスに 揺られて 蓼科山ろくの自然の 涼しさの中へと、一日のうちにめまぐるしく温度の変ったことがこたえたのにちがいない。部屋に入って、 覆いの布をとってやっても、ぐったりとして元気がなかった。私たちは 環境の変ったせいだろうと軽く考えていた。
翌日の早朝、 白樺の林で鳴くジュウイチやカッコウの声に目を覚まされて、真っ先に起き出した子供たちが鳥かごの異変を見つけた。まだ 薄暗い部屋の 隅で、文鳥は二つの白い綿くずのようになってこと切れていた。小さい命の失われ方のあまりのあっけなさに、ぼうぜんとなるばかりだった。
( 岡野弘彦『文鳥と月見草』)
働きはじめた記念に 読解検定長文 中1 春 4番
働きはじめた記念に、 腕時計を買ってくれたのは、兄であった。それに 寿命がきて、自分のふところから次の時計を 購った。そのころ流行らなかったアラビア数字の文字 盤のを選んだのは、父の古い 懐中時計に対するあこがれが、心の底に残っていたからだろうと思う。安価なものだったが、 寿命は長かった。いまのは四代目になるが、例の 液晶時計である。毎日ネジを巻いてもやらないのに、健気にも正確に動いている。何だか、自分自身、そして、この世に在る働き好きの男や女に似ているようで、つらくなる。
働いて働いて、その行くさきが、働く同士のしあわせならいうことはないが、その逆になるのだったら、これは困る。
そんな、時計の針を逆まわりさせるようなことに、私の時間を使いたくないし、使われたくない。
村の駅にあったあの 振子時計は、戦場に送られるたくさんの若者と、白木の箱になって帰ってきたたくさんの若者をしっかりと見ていた。その時計は、いまははずされて、電気時計にかわっている。けれども、そのあたらしい元気ものの駅の時計に、古い 振子時計が見たものと同じものを見せたくない。
私たちの時計、目に 触れるあらゆるまちの時計に、かつて犯した人間にそむく歴史の時間をふたたびきざませていいものか。
時計は 何故、時をきざむか。
私たちは、何故に時間を 恵まれるのか。つまり私たちは、何故こうして生きて、暮らしているのだろうか。よくはわからないけれどもただひとつ言えることは、人の命を 奪ったり 奪われたりする戦争なんかのためではない、ということである。私たちが、これからどう生きるか、それを時は見守っている、と思う。私たちのあらゆる時計に、あやまった歴史をきざませてはなるまい。
(増田れい子『インク 壺』)
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