なまぬるいほこりがたつ焼津街道を 読解検定長文 中3 春 1番
なまぬるいほこりがたつ 焼津街道を、海の方に向かって歩いていると、前を行く若い女の人があった。上林先生だった。 髪にも、水色のスカートにもおぼえがあったし、歩く時の 肩の辺りの動かし方も、そうだった。 彼は 駆けて行き、息を 弾ませながら
――先生、と声をかけた。 彼女は 彼が近づくのを待っていてくれた。 彼は追いすがると、自分でも思い 掛けないことを言った。
―― 僕は 物凄い油田を見ました。
またいってしまった、と 彼は思った。 彼女はちょっと目を見張って、それなりに生まじめな表情になって、しばらく考えていた。 彼には、なんだかしゃくにさわることがあったが、それを 抑えなければ……、という自制も働いていた。 彼は自分のことを、緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい 葉陰で、一人で 翻転しているように感じた。
――アメリカよりも、ボルネオやコーカサスよりも大きな油田です。
気がつくと、 彼はそう深くいいつのっていた。 彼女は、 浮世絵人形のような表情を動かしはしなかった。 彼は自分が自然にしゃべっているのを感じた。そして、なにをいってもいいのなら、いうことは 一杯あるぞ、と思った。自分で自分に 深傷を負わせてしまい、血が止まらなくなった感じだった。 彼はまたなにかいおうとした。すると 彼女が、いつもの口調できいた。
――それは、どこなの。
―― 大井川の 川尻です。
―― 大井川の 川尻……。あんなところだったの、と 彼女は少し声をふるわせていった。 浩には、 彼女が胸を 弾ませているのがわかった。 駄目だと思いながらもたたいた 扉が、意外にも手応えがあって動き始めたようなことだった。 彼は自分の 嘘の効果が、 怖ろしく美しく 彼女に表れたことに 呆然としていた。∵
―― 大井川の鉄橋から見えるかしら。
――見えると思いますけど。
――それじゃ、 柚木さん、わたしこれから見に行くわ。そこへ連れて行って。
―― 鞄をうちへ置いてきていいですか。
―― 鞄はいいわよ。持っていらっしゃい。
――……。
―― 遅くなってお母さんが心配したら、先生があとでわけ話して上げるから。
――……。
―― 軽便で行くのね。
――え、ええ 軽便でいいんです。
浩は仕方なく歩き出した。軽便の駅までは大分 距離があった。うしろでは上林先生の運動 靴の足音が、ひっそりと、しかし確実にしていた。 彼はどこかへ 迷い込みたかった。迷ってしまったような 芝居をしたかった。だが、 彼の前にあったのは、そんな 芝居に 紛れて行きようもない、一から十まで知りつくした道だった。
(小川国夫『生のさ中に』)
門松がとれて 読解検定長文 中3 春 2番
門松がとれてまもない日曜日、 娘は庭でなわとびをしていて、白鳥がすぐそこの東の山に 舞いおりるのを見つけた。まっ白い鳥だから、白鳥といってまちがいではないけれども、童話に出てくるあの白鳥ではない。白サギである。
そういうと 娘はちょっぴりがっかりしたようだったが、 図鑑を持ちだしてきて調べはじめた。「サギの仲間」のページをひらき、松のこずえに 翼を休めている白鳥と見くらべている。
「頭にチョンチョリンがないから、コサギでもアオサギでもないわ。チュウサギかチュウダイサギよ。かたちがそっくりでしょう。」
なるほど、そのどちらかである。二羽いて、松のこずえに巣のあることがわかった。どうやら、カラスの古巣を 占領したらしい。たんぼや小川の水がすっかりかれてしまったので、小さな池のあるその山へ 引っ越してきたのだろう。
そういえば、十年ほど前にも、ひとつがいの白サギがその同じ場所に冬のあいだ住んでいたことがあった。 娘は幼かったので忘れてしまったのか、それとも 彼女が生まれる前だったろうか。
(中略)
サギの 寿命がどれほどか私は知らないが、こんどきた白サギは十年前のサギではなく、その子供たちか孫たちであろうか。いずれにしても、十年ぶりの白鳥の再来である。
私の 娘はその白鳥のことを人にうっかりしゃべると、わんぱくどもに石でも投げられて、鳥が山を去ってしまうのではないかと 恐れているのだった。そして、宝物をそっと小箱にでもしまいこむように、自分だけの秘密としてながめていたい。私にしても同じ気持ちである。
しかし、白サギを小箱にしまうわけにはいかない。まっ白な鳥が空を飛ぶのだから、近所の人はだれも気がついている。そのだれもが、気づいていて、知らんふりをしている。自分だけが知っている秘密だと思いこみたいのである。
ある日、妻が道に出ていると、 幼稚園に行っている近所の男の子が顔をまっかにして走ってきて、息をはずませながら妻にいった。
「ぼく、いま白鳥にさわっちゃった。ほんとだよ。でも、おばさん、ないしょだよ。白鳥のこと、ぼくしか知らないんだから。」∵
その話を私にした妻は、しかしこのことは 娘には 黙っていましょうよといった。 娘に話せば、 彼女が自分だけの秘密をとられたようにがっかりするだろうからというのである。 娘にすれば、白サギにちょっとでもさわってみたいと、どんなに願っていることだろう。
ところが、 娘がひとりで白サギをそっと見にいったある日、 猫に追われて 妙な鳴き方をして 彼女の前へ山から走り出てきた一羽の 小綬鶏を 猫から救ったのだった。
「びっくりしちゃった。あんなことってほんとうにあるのね。わたし、 小綬鶏を助けてあげたのよ。でも、これもほかの人にはないしょ。」
その日から 娘は、 小綬鶏に 与える一 握りの米をかくし持って、白サギと 小綬鶏を見に、そしらぬふりをして山へ出かけていくようになった。命を助けてやった一羽の 小綬鶏も、 彼女の秘密にくわわったのだ。
やがてその小さな山に、 小綬鶏たちがめざましい声でさえずる春が訪れる。私が 徹夜の仕事を終えて外をのぞくと、まだだれもが 眠っている夜のしらしら明け、母親鳥を先頭にひなたちが一列に並び、しんがりを父親鳥がうけたまわって、 小綬鶏の一家が道を散歩している姿を見かける。その季節には白サギの夫婦は山を去っているだろう。
だが今年は、私の住む町の近くに、 彼らのもどっていく水田があるだろうか。わずかに 小綬鶏たちが住みついている東のちっぽけな山も、市の保存林としての期限が数 ヵ月後には切れる。それを知っているから、わが家の近所の人たちはおとなも子どもたちも、十年ぶりに山にやってきた二羽の白サギを、ひっそりとながめているのかもしれない。それぞれの夢を白鳥に 託しているのである。
( 佐江衆一『それぞれの白鳥』)
ひとりの人間の内部に 読解検定長文 中3 春 3番
ひとりの人間の内部に発生している状態と極めてよく似た状態が、もうひとりの人間の心の内部に生ずる過程、それが共感である。そして、それはしばしば、生理的な次元でも発生する。
たとえば、痛みの経験だが、母親と子どもといった細やかな関係のなかでは、痛みに単に想像上経験されるだけでなく、実際の生理的な痛みとして体験されることがある。子供が、「痛い」というたびに、母親もその部分がほんとうに痛くなったりするのだ。
もっと単純な生理的共感は、たとえば、 乳離れしたばかりの幼児にものを食べさせたりする時の親子の情景を 思い浮かべてみればよくわかる。子どもにアーンと口をあけさせるとき、自然と親の口も、そんなふうに開かれてしまう。親が口をあけるから子どもがそれを 模倣しているのだともみえるが、子どもが口をあけるのに 釣りこまれて、親が口をあけてしまうようにもみえる。そんな経験は、だれでももっているはずである。
親しい人間同士を形容して、「ともに笑い、ともに泣く」という表現が使われるのは、このような共感能力と関係する。ある人間のよろこびがそのままもうひとりの人間のよろこびになる、というのは、ふたりの人間の間に高度な共感が成立するということだ。ひとの悲しい経験に「もらい泣き」したり、おもしろい話に「 釣りこまれ」たりという表現は、すべて人間同士の間ではたらく共感のふしぎな作用を表しているといってよい。この共感作用は、「同一化」ということばで説明される過程とかさなりあう。同一化とは、相手方の置かれている 状況だの、相手方の内部で発生している状態だのと似た 状況や状態を体験することだ。それは、われわれが映画を見たり、小説を読んだりするときのことを思い出してみたらいい。
たとえば、手に 汗をにぎるような大活劇というのがある。映画館のスクリーンの上では、ビルの屋根の上をとんで 渡ったり、スポーツカーで 追跡をしたり、という活劇が展開している。それを見ているうちに、われわれはその活劇に 釣りこまれる。スポーツカーが走りまわっている場面では、あたかも自分がその自動車を運転しているような気持ちになって、目の前に 突然ガケが現れたりするとハラハラしてしまう。ビルの屋上に追いつめられて、 隣のビルにとび∵移る場面では胸がドキドキする。まさしく「手に 汗にぎる」のである。そして、そのときのわれわれは、映画の中の登場人物に自分自身を置きかえているとはいえないか。
小説を読んでいるときもそうだ。主人公の 境遇だの、人生の設計の仕方だの、われわれは小説を読み進めるにつれて、主人公の立場と自分とを密着させてしまう。主人公が悲しければ、読者であるわれわれも悲しくなる。主人公がよろこべばわれわれもよろこぶ。われわれは主人公の「身になって」しまうのである。
共感あるいは同一化が、どんなふうにしてわれわれの内部で発生するのかはよくわかっていない。しかし、われわれは事実の問題、あるいは体験の問題として、共感の現象があることを知っている。われわれは「相手の身になる」能力をもっているのである。
( 加藤秀俊「人間関係」)
書物はいつの世にも 読解検定長文 中3 春 4番
書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだと私は思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。展覧会も至る所で開かれている。だからといって、音楽を能率的に 聴き、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する限り速読を目指すのはどういうわけなのだろう。おそらく、書物というものが 鑑賞するというより知識の伝授の 媒体と思われているせいであろう。確かに本とレコードでは 違う。本のほうがはるかに多目的である。 鑑賞するというよりは、情報を得たいために読まれる本のほうがずっと多いだろう。そんなことは十分承知の上で、なおかつ、私は 遅読を 勧める。
速く読むということは一見能率的のように思えるが、結局は損をすることになる。私も必要に 迫られて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いでよんだ本に限って、あとに何も残っていない。そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、全く読み 違えていたことに 驚くのである。こうなると、速読するよりは読まないほうがましである。なぜなら、誤解は無知よりも有害だからである。
そんなことを言っても、必要に 迫られて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。しかし、必要に 迫られたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に 迫られる以上、あくまで誤解は許されないからだ。たとえ明日までにどうしてもこの一冊を読み上げねばならないという必要に 迫られた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を閉じたらいい。そのほうが、いい加減に 斜め読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
遅読を 勧めるもう一つの理由は、いくら速く読んでみたところでたかが知れているということである。どんなに速読の技術を身に付けたところで、二倍のスピードで読めるものではない。仮に二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだときの二分の一に過ぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半∵分が前に述べたように誤読に 陥りやすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気付くであろう。実際、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその 選択が大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる効果を持つのである。
わずかな本しか読めなかったなら、それだけ視野は 狭くなり、とても現代に追い付いていけないと言うかもしれない。確かにそういった不安が現代人を速読へと 駆り立てている。だが、そんなことは決してない。十冊読む人よりも五冊読む人のほうが視野が広く、立派な見識を身に付けているというようなことはざらにあるのだ。読書の価値は何冊読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。
私は、読書とは「 葦の 髄から 天井をのぞく」ことだと思っている。ふつうこの言葉は、そんなちっぽけな穴から天をのぞいてみても、広大な天のほんのわずかな部分が見えるだけだ、とその視野の 狭さを笑ったものと解されている。確かにそういう意味だろう。しかし、実際にのぞいてみると分かるが、 葦の 髄からでも結構天は 仰げるのである。いや、むしろ小さな穴からのぞいたほうが対象がよく見えることも多い。
とにかく、本はゆっくり読むに限る。ゆっくり読めば一冊の本はどれほど多くを語ってくれることか。読書とはただそこに書かれていることを理解するという単純な作業なのではなく、いかにして、書物により多くのことを語らせるかという技術なのである。それは、優れたインタビュアーが相手からおもしろい話を十分に引き出すことができるようなものだ。性急な読書では本は何も語ってくれはしない。仮にその内容を要領よくつかんだとしても、ただそれだけの話である。それでは本を読んだというより、本をつかんだというに過ぎない。
読書とはあくまで著者と読み手の対話なのである。読み手が時間をかけてゆっくりと問いかけなければ、著者は、それこそ通り 一遍の答しかしてくれないのである。
(森本 哲郎「 遅読術」)
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