学校で先生は 読解検定長文 小5 冬 1番
学校で先生は「あなたの意見は?」というでしょう。お 化粧ひとつにしても、洋服ひとつにしても、流行を追うのはおろかですよ、自分にあったお 化粧をしなさい、自分にあった服を着なさい、自分がたいせつですよと先生はいうでしょう。
しかし会社にでると、みんな自分というものを中心にするのではなしに、会社に、みんなに、あわせようという具合になるのがふつうです。
だが、このような事なかれ 主義、 個性のなさだけでよいでしょうか。世の中を良くしようとする人は、しばしば 異端の考えの持ち主の中から生まれるのではないでしょうか。一例をあげましょう。
アメリカの自動車会社、GMの小型車コルベアは、しばしば 事故をおこしました。車が高速でまがるとき、うしろが 浮きあがり、まがりきらず 事故をおこすのです。やがて、この車には 設計上のまちがいがあり、その 原因は、少しでも安くしようとして材料を節約した点に問題があることが 指摘されました。このことは、この車をつくっている人、したがってこの車をよく知っている 従業員の 指摘によって明らかになったのです。もしこうした 指摘がおくれたら、さらに多くの人が 事故にあったでしょう。だが、こうした 指摘が 従業員からでないような会社だったらどうなるでしょう。
日本では、おなじようなことをいった 従業員に、「そんなことをいうのは会社を 批判することで、われわれの 敵だ」という目が会社の中から生まれ、 現に、自動車会社にいられなくなったすぐれた 技術者がいます。
会社のためよりもっと重要なことがあったとき、会社第一と考え、ほんとうのことをいわず、かくしやすい――こうしたゆがみが日本の会社にはないでしょうか。
このような日本的な社会の中にいる人間は、それに合うようなことばを使います。みなさんの使っている日本語と、学校でならう英語とをくらべてごらんなさい。英語は文章のいちばんはじめに、なにがきますか。主語がきます。「 私が」とか「あなたが」というのがきます。なにかをするその 責任の 所在は、まず「 ?」なり「Y∵ou」なり、はっきり主語として、いちばんはじめにでてくるのが 特徴です。
そのつぎに、その問題に 賛成なのか反対なのか、イエスかノーかというのがきます。ですから英語を聞くと、はじめのところを聞いていると、だれがどういう 意志をもっているかがだいたいわかります。
しかし、日本語はそうではありません。たいてい主語がないでしょう。そして、イエスかノーかというのはまえにきません。文章のいちばん最後にくるのです。
会議のときなど話をしているうちに、みなが反対だなということが顔色でわかると「……というような考えもあるんだが、まずいですねェ」なんて、きゅうに方向 転換することができることばです。
つまり、相手とちがう考えをだすことはたいへん失礼だし、おたがいの関係をまずくする。なにしろ大部屋のなかにいっしょに住んでいるのですから。
そこで、相手と自分とがおなじような考えになるようにし、相手も 傷つけない、自分との関係もひびがはいらない――そういうようにもっていく 習慣や考え方が、ことばの 構造の中にもはいってくるのです。 賛成か反対かをいちばん最後にもっていくという、世界にも 珍しい日本語がこうした 習慣に 対応しているのです。
中国語だって英語とおなじことばの 構造で、 賛成か反対かを 示すことばが主語のつぎにきます。日本語は主語がはっきりしません。 責任の 所在をまずなくし、 賛成か反対かをいちばん最後につけて、どうにでもかえられるということばの 構造になっています。
ですから、問題がおこったときどうするかというと「 私は自分の 責任をよくよく考えて、こういう 結論に達しました」ということはしないのです。なにが正しいか、なにがいいか、それよりもみんなはどう考えるであろうかを考えるというのが多くの日本人です。そして顔色を見ながら、いつでも方向 転換できるようなことばの 構造をさぐりながら、最後でみんなが 一致するようにもっていく。これです。ボスといわれている人間はこれをやるのです。
佐藤栄作という、ひじょうに長く 総理大臣をつとめた人がいま∵す。この人は、自分で決定を下すことがなかったといわれています。
「他からすすめられた形をとりたい」
これが 佐藤さんの名 文句と伝えられています。自分できめたら自分が 責任をとらなければなりません。それは 団結をみだすことになります。なぜなら、反対意見の人がいるかもしれないからです。
ある 事件がおこった。みなの意見がとうぜん対立する。しかしボスは自分の意見をいわない。いえば、反対の人を 敵にまわすことになる。そこでなすがままにまかせる。たとえば、外国との 貿易で、一ドルが三百六十円であったのを三百円にするか、それとも三百六十円のままかという問題です。 佐藤さんはきめないのです。世界 経済は一九七一年八月十五日から 混乱し、この問題で大さわぎになったとき、 軽井沢に 逃げてしまったのです。東京にいれば、首相として自分がきめ、自分が 責任をとらなければならないからです。
現実はどんどんすすんで、とうとう反対もなにもあったものではなく、三百四十円、三百二十円と動いてしまいました。もうやむをえない、これを 認めるより道がないという、そういうところまで追いこまれて、みんなの意見がまとまり、さあそうするかというところまで待って 佐藤さんは山をおり、これを 認めました。したがって反対はおこりません。これが、 佐藤さんが日本でいちばん長い年月 総理大臣をつとめた 秘訣だといわれています。
もしまちがっていたならば、みんながきめたのですから、一億 総ざんげ、けっして 佐藤さんの 責任にならないのです。
しかし、 佐藤さんのような行動をしていると、なにもないときはいいのですけれど、重大な問題がおこったとき、それにたいして、はやく手をうち、 事態を 危険のない方向にもっていくということができないのです。
だれが戦争をするということをきめたかわからないうちに、いつの間にか中国との戦いがはじまり、ずるずる 拡大し、日本はあの敗戦を 経験したのではないでしょうか。そして、戦争の 責任というこ∵とになると、みんなが悪かったのだといって、だれも昔のあやまちを反省しようとしないのです。
したがって日本の社会のくさった部分、悪い部分、それを切り取ることもできませんでした。おなじ戦争をし、敗れたドイツは、まったくちがいます。戦争をひきおこした 責任者がいたのです。ヒットラーを中心とするナチスです。したがってその 責任を 追及し、くさった病の部分を取りのぞく。いまもってドイツはこのナチスの協力者を 裁く裁判所をもっているのです。だから新しく生まれかわることができたのです。
日本は、いつまでたっても仲良しクラブの中で、 責任もはっきりせず、病もはっきりせず、くさった部分をそのままにしながら、みんな 肩をくみながら動いている。これでいいのでしょうか。
小学校や中学校の先生は、自分の意見をいいなさいとみなさんにいったでしょう。それは、こういう病を取りのぞくことができるような人間に、みなさんをしたいと思っているからにちがいありません。
( 伊東光晴「君たちの生きる社会」)
子どもたちの好きな昔話に 読解検定長文 小5 冬 2番
子どもたちの好きな昔話に「王様の耳はロバの耳」というお話がある。どういうわけかロバのような耳をした王様がいた。それが知られるのが 嫌でいつも 帽子をかむっていた。ただ、 床屋にはそれがバレてしまうので、 床屋に 散髪してもらうたびにその 床屋を殺していた。とうとう、ある 床屋があまりにも助命を願うので、「 秘密を守る」ことを約束させて帰らせてやった。ところが、その 床屋は 秘密を守っているうちに変な病気になってしまう。 占師が 彼に対して、その病いは言いたいことを言わずにいるためのものだから、 誰にも聞かれないようにして町のはずれの 柳の木に向って、言いたいことを言えばよい、と教えてくれる。
そこで 床屋は 柳の木に向って、「王様の耳はロバの耳、王様の耳はロバの耳」と話すと、病気はすぐに治ってしまった。ところが、その後、風が 吹いて 柳の木が 揺れる度に、「王様の耳はロバの耳」と鳴りはじめたので、国中の人が王様の耳の 秘密を知ってしまった。王様はそれを聞いて、 皆に知られてしまったのなら仕方がないと 帽子をぬいでしまわれた。ところが、国民はむしろそのような王様を 尊敬して、「ロバの耳の王様」として 敬愛するようになった、というお話である。
子どもたちは、この話のなかで「王様の耳はロバの耳」という面白い 繰り返しを何度も楽しみながら、 彼らにとっても大変重要な「 秘密」ということと深く関連するものとして、 興味をもって聞くようである。 確かに、この話は 秘密の 機微について多くのことを教えてくれる。まず、 秘密を守っていて病気になった 床屋のこと。これは 秘密を守ることの 辛さや 難しさを 端的に 示している。 秘密は身体内に進入してきた 異物のように、外に 排除しないとたまらないときがある。
人間の心は ある程度のまとまりをもって 存在している。多くの場合、 秘密はそのまとまりを 壊しそうなものであることが多い。王様を 尊敬することと、王様がロバの耳をもっていることは 簡単には両∵立し 難い。それに、王様がロバの耳だということは、 凄いニュースバリューももっている。 床屋がしゃべりたくなるのも無理はない。そして、それを 辛抱し続けることは身体の病気をさえ引き起してしまうのである。
王様にとって「ロバの耳」は運命によって 与えられ、いかんともし 難い欠陥であった。 彼にとって出来ることは、あらゆる 手段を 講じてそれを 隠して通すことであった。そのためには、殺人ということも 避けられなかった。王の 犯した多くの「殺人」は、 彼が 秘密を守るために、どれほど多くの「 感情を殺し」、「人間関係を殺し」てきたか、と考えると 了解しやすいだろう。 実際、われわれは自分の欠点を 隠すために、どれほど多くのことを殺すことだろう。
ついでながら、殺されるのが 床屋というのも面白い。 床屋は 髪型を変えるという意味で、「 人格の変化」との関連で 夢や物語によく 現われる。王は自分の欠点を 隠すことに 固執して、自分の 人格の変化のチャンスを見殺しにしていたのである。
ところで、ある 床屋の 嘆願に王は心を動かされ、殺すのをやめる。 誰かの 心情に動かされることは、何か意味あることが行われるきっかけとなることが多い。王はそれまで殺してきた自分の 感情に 敢て身をゆだねることを決意した、ということができる。王はその後、自分の 隠したい 秘密が国中に広がっていることを知ったとき、すぐに 床屋を 罰することをせず、その 経緯を知って、それが「 柳の木のそよぎ」によって広まったことを知った。人間がいかに努力をしても、「自然」の力には 抗し 難いときがある。そのことを知った王は、自然の力の前に文字どおり「 脱帽」したのである。
王のこのような 態度に 接して、国民は王の 隠したがっていた欠点を知ったにもかかわらず、前よりも王を 敬愛するようになった、という点が大切である。人間は自分の大きな欠点が他人に知られたと∵しても、必ずしもそれによって他から 軽蔑されるとは 限っていないのである。国民が「ロバの耳の王様」と言って 敬愛したということは、王の欠点がかえって国民の親愛の 情を引き出す通路となっている、とさえ言えるのである。
欠点を知られること、 秘密を知られることなどは、必ずしも 軽蔑されるきっかけとはならないし、むしろ 逆のことさえ生じるのであるが、「ロバの耳の王様」の話が 示唆するように、そのようなことが生じるためには、それにふさわしい努力や、時の 熟することなどの 要素が必要なことを 忘れてはならない。
( 河合隼雄「子どもの 宇宙」)
文明人は時計によって 読解検定長文 小5 冬 3番
文明人は時計によって時間を 測る。それによって、一日は二十四時間に 正確に区切られ、共通の時間が 設定される。これは多くの人間が社会をつくっていくためには、 非常に大切なことである。これによって、われわれは友人と待ち合わせもできるし、学校も会社も、同一 時刻に 一斉に始めることもできる。時計の発明によって、人類はどれほど時間が節約できるようになったかわからない、本当に便利なことだ。
ところで 幼児たちは、大人のもつ時計によって区切られた時間とは 異なる時間を生きているようだ。「きのう」とか「あした」とかの意味も、はっきりとしていない子もある。「また、あしたにしようね」などと言っている子も、それは 厳密にあしたということをさすのではなく、「近い 将来」を意味していることも多い。
あるいは、何かに熱中していたが、何かで 中断しなければならなくなったとき、「また、あしたにしよう」と言うのは、このことを言うことによって、 中断することを自らに 納得させようとする意味あいで言っている子もある。この場合の「あした」は、二十四時間の 経過後に 存在する時期などではなく、 断念しなければならないという気持ちと、何か希望を残しておきたいような気持ちの 交錯した 現在の 状況をのべている 表現なのである。
道くさをしたために 叱られる 幼児たちが、悪かったという気持ちをあらわしながら、何とも 納得のいきかねる 表情をしていることがよくある。 彼らも 叱られながら、「おくれてしまった」「おそくなって悪かった」ということはよくわかっているのである。しかし、なぜおそくなったのだろう。「ぼくは何もしてなかったのに」、「ちょっとだけ、おたまじゃくしを見てただけなのに」と思っているのである。たしかに子どもたちは「ちょっとだけ」何かをしていたのである。しかし、残念なことに、それは大人のもっている時計では「一時間」も道くさを食っていたことになるのだ。
おたまじゃくしを見ていた子どもが、一時間を「ちょっとの間」と思ったように、われわれ大人でも、同じ一時間を、長く感じたり短く感じたりする。時計の上では一時間であっても、 経験するもの∵にとっては、その一時間の 厚みが 異なるように感じられるのである。もちろん、時間そのものには 厚みなどあるはずがないから、あくまで、それを 経験するものの主観として、 厚みが生じてくるのだ。
何かひとつのことに熱中していると、時間が早くたっていくことは 誰もが知っていることである。といっても、何かひとつのことをしていると、必ず 充実した時間を 過ごしたことになるとは 限らない。たとえば、テレビのドラマなどを見るともなく見ていると、ついひきこまれて終わりまで見てしまう。終わってみるといつの間にか一時間たってしまっている。しかし、このあとでは 充実感よりも 空虚な感じを味わうことだってある。時間は早くたったと感じられるが、その 厚みの方はうすく感じられるのである。
あるいは、ひとつのことをしていても時間が長く感じられるときもある。その一番典型的な場合は、「待っている」時間である。 誰かが来るのを待っているとき、われわれはなかなか他のことができない。そわそわしながら待つ。しかもその間は 随分と長く感じられるのである。「待つ」ということだけをしているのだが、時間を長く感じてしまう。
これらのことを考えると、自分のしていることに、その 主体性がどのように関係しているかにしたがって、時間の 厚みが 異なってくるらしいと思われる。「待つ」ことは、受動的なことである。その人がいつ来るかは、その人の行動にまかされているわけで待っている方としては、ただそれにしたがって待つより仕方がないのである。これはテレビの場合でも同様である。テレビを見終わって 充実感のない場合は、 私たちがテレビを見たのではなく、テレビが 私たちをひきこんでしまったのである。 私たちは受動的に見ていたのだ。
子どもがテレビを見すぎることはよく問題になる。たしかにテレビを見すぎることは、子どもが「 与えられた 映像」を受動的に楽しむことによって、主体的な時間をもたなくなる点に 危険性が 存在している。しかし、テレビの主体的な見方だってあるはずである。 怪獣にしろ、チャンバラにしろ、子どもにとっては必ず 経験しな∵ければならない世界なのである。だから、それを見たいときには「主体的」に十分に見させることがいいのではないか。主体的にテレビを見させるということは、子どもの「見たいままに 放任する」ことではない。 放任の中から 主体性は出てこない。
テレビは見たいが勉強はどうするのか、父親は野球が見たいが 子供は 漫画が見たい。これをどう 解決するか。食事中にテレビを見ないのはわが家のおきてである。ところが、食事時間にどうしても見たい番組ができた。これをどうするか。
これらの 葛藤と対決していくことによってこそ 主体性が得られる。対決を通じて 獲得した時間、それは 主体性の 関与するものとして、「 厚み」をもった時間の体験となるのである。
( 河合隼雄「子どもの『時間』体験」)
ぼくは子どものころ、 読解検定長文 小5 冬 4番
ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
たとえば、近所に 鬼がわらのような顔の子がいて、「 鬼の子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親が 涙を流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを 理解していないことが多い。
いじめている人間が、強いわけではない。 抑圧されている人間は、いじめる相手を 探しがちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由 主義的)な 雰囲気のあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、 体制によっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
ときには、だれかをいじめているという、加害 意識のないことも多い。その 集団が、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。 罪の 意識なしに悪いことをするほど、 困ったことはない。
それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした 状況に 強制されて、 罪の 意識なしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう 過去をとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした 状況のなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに 劣らず、みじめなものだ。
とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。 彼もしくは 彼女が、 存在しないように 扱う。顔を合わさず、声をかわさず、 存在自体を 無視してしまう。これは、一種の 精神的殺∵人である。 暴走よりも、万引きよりも、もっとひどい、最大級の 非行だと思う。
ときに、いじめの計画者がいないことさえある。 集団自体が、いじめ 存在になる。ちょっと 怪談じみたこわさがある。こうしたとき、みんな 普通の中学生で、だれも、いじめているという 意識のないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚は、 怪談の感覚である。
ときには、いじめられている子までが、それを 意識していないこともある。こうなると、最高にこわい。 意識していなくても、いじめは 存在している。 意識にのぼらない 魂の底で、一種の 夢魔の世界で、だれかがだれかをいじめている。
( 中略)
中学生の間で、いじめが 増えているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、 普通の子だと思う。いまの中学生の 状況が、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。
それでも、もしきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。
だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの弱さだ。人間というものは、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろいとおしむほうだが、この場合だけは、いや、この場合こそ、きみに強くなってほしい。
やる気を出せとか、 根性でがんばれとか、そんな声にのっかって、強くなれというのは、ぼくの 趣味ではない。それより、どんな 状況にしろ、 状況に負けて、他人をいじめることで心のバランスをとったりしないような、自分自身の心の強さがほしい。
(森 毅「まちがったっていいじゃないか」)
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