よく人からこんなことを 読解検定長文 小4 春 1番
よく人からこんなことを聞かれます。
「どうして高い山へ登るんですか」
あの有名な登山家マロリーは、
「山がそこにあるから……」
と答えましたが、これはほんとうの気持ちではなかったようです。なんでも答えるのがめんどうくさくて、なにげなく 冗談めかしてそういったらしいのですが、それがいつのまにか名言となって、それが通りことばとなったようです。
たしかに山がそこにあるから登るのでしょうが、わたしはそこのところをもう少し 掘り下げてみたくなりました。わたしは 絵描きです。よく人が、
「なにもそんなに高いところへ登らなくても、もっと楽をして絵を 描くようにすればいいのに」と、いってくれます。でも、せっかくそう言ってくれても、やっぱり高いところへ登ってしまうのです。
では、どうして高いところへ登るのかという問題です。人にはそれぞれ自分なりに持っている、自分自身にたいする 鍛え方というものがあるはずです。たとえば 体操をしたり、かけ足をしたり、大きな声で詩を 吟じたり、いろいろその人なりの 鍛え方があると思います。わたしの場合は、高いところへ登るためについてくるつらさというものを、わたしの 鍛え方としたいのです。(中略)
なぜこんなにつらい思いをしてまで、おれは登るのか、たしかに自分でもそう思うことが始終です。そこで 解答を出すわけなのですが、じつはそのつらさを 体験するために登っているのです。自分の今の 状態の 限界を 試してみて、そこで 耐えられる自分の強さを知りたいのです。 耐えられる強さは、なぜ自分はこうやって生きているのか、という自分自身への 解答になります。自分は絵を 描くためにこうやって生きてゆくんだという 確かめが、はっきり形となってとらえられるのです。これはわたし自身にとって、とても大切なことなのです。
そこで、みなさんの 大好きな野球を 例にとってみましょう。たとえば、 個人ノック。∵
初めのうちは、たいていかっこうよくボールを 捕っていますが、そのうち五十本になり百本ともなってくると、どうなるでしょう。足はもつれ声も出なくなってきませんか。
「さあ、こい」なんていってますが、からだは球についてゆきません。百五十本近くになりました。そんな時、もうとても 周囲のことなどに気をとられている 余裕などありません。ふとそこには自分もなにもない、心がからっぽになってしまう時があるのです。と、ノッカーから打たれた球は、 自然と君のグローブに 吸い込まれてくるはずです。
「やったあ……」そこには、できると思ってもいなかったものをつかみとった、じつにすばらしい感動が生まれてきているのです。なにもかもわからなくなった時、向こうから 飛び込んでくるもの、心もからだもくたくたになった時とらえられるもの、これこそわたしの 求めていたものなのです。そうです、わたしの場合はそれを山に向かってしているのです。おわかりになってくれたでしょうか。
そして、もう一つの 解答もあります。
それは高いところに登った 結果得られる、「白と黒」の世界を 描きたいという 願いです。わたしたちを取りまく世界には、たくさんの色があります。ところが、そんな色がだんだんと高みに登るにつれて消去されていく、そんなこと、 ご存じでしょうか。そしてついには花もなくなり 樹木もなくなり、白い雪と黒い岩石に 凝結されてくる、そんな 自然を 描きたいばかりに高みへ登ってゆくのです、つまり白と黒の世界、そんな世界を 捜し求めているのです。
そして高みに登った 果てに、その向こうに見えてくる世界を 望むことができる、そんな 喜びもあわせ持つことができるのです。どうですか、そういうものを 与えてくれる山はすばらしいと思いませんか。
みなさんも、ぜひ山へのあこがれを持ってください。
(山田 寿男「山のスケッチだより」)
さて、いろいろな点で 読解検定長文 小4 春 2番
さて、いろいろな点で勉強のやり方にくふうをしなければならないと思っているひとにいっておこう。勉強 法はなるべく 簡単なほうがいいということだ。 複雑に考えてやったことにいい 成果は出ないというのがわたしの意見だ。勉強の 目的は 各人によってちがうものの、何か 目標を決め、知りたいことを 解くという 目的であったら、シンプルなほうがいい。「学問に王道はない」ということわざがあるように、勉強にバイパスはないのだ。ひとつひとつを手前からやっていかないといい 結論は出ない。わからないコトはわからないコトとしてすてるのではなく、もちつづけることなのだ。
たとえばわたしはエジプト考古学を 専攻している。そこではいくつも大きな 疑問が出る。(中略)
今から二十年近く前に、五センチくらいの 象牙の 棒と石 製の 化粧板が 遺跡から出た。 化粧板はすぐわかったのだが、 象牙の 棒についてはわからなかった。そこで 教授クラスのひとが、「ヘアピンだ」といいきったものだから、 遺物台帳にそう書きこまれてしまった。わたしは「ヘアピン」というのに 疑問をもったが、当時は学生だったので 教授に 異論をはさむ立場でなかったし、といって、はっきりなんだと 反論する 説も、もちあわせていなかったのでその場はだまっていた。
あるときシナイ半島のベドウィン( 遊牧民)の家族のテントをおとずれたとき同じようなかたちのものを見た。ただし 木製であった。そこでカイロ大学の友人のお母さんがその 木製の 棒のもち主だったので、聞いてもらった。答えは「マスカラ」であった。その 棒と対になっているビンも見せてくれた。平らな皿にすみを流して使うこともあると聞いたとき、わたしたちが発見した 象牙の 棒が、ヘアピンでなくマスカラであることを予感した。
さっそくカイロに帰って 博物館に行って、すみからすみまでさがしたところ、 象牙のマスカラを発見することができた。はじめから 博物館をたずねて調べればよかったのだが、 教授という 権威がいった「ヘアピン」という言葉の重みで、そこまでできなかったのである。∵
この 例は、すぐに思いつきで何かを 判断しないほうがいいということと、すててさえなければいつの日か 解けるときがくるということの 証である。これ 以外にもこうした 例はたくさんある。勉強のやり方でいちばん大切なことは、勉強するひとなりに 独自のやり方を考え出し、それを守るということだろう。(中略)
勉強と聞くと身ぶるいするひともいると思うが、その発想をかえないとだめだと思う。勉強は楽しいはずだと思うことがその第一歩となる。よく考えてみると、人間しか勉強をしない。ということは、勉強は人間の 特権であるとともに人間の 証でもある。それならば 積極的にとりくまなければ 損だ。
勉強は子どものときで終わりだと思っているひとは少なくないと思う。少なくとも大学を 卒業したときに終わったと思っているだろうが、そうではない。人生は死ぬまで勉強がつづくのである。(中略)
わたしは大学で教えたり、研究 調査をしている大学人なので、社会人としての 自覚はないが、友人の社会人はわたし 以上に勉強している。 往復の電車のなかで人生 論の本を読み自分の人生を 豊かにし、会社では日々ひとと会って勉強をしているという。こういう前向きのひとは生きていても毎日が楽しいことだろう。休日は電車に乗って山へ行き、 森林浴をしたり、木や草を見ながら 自然のすばらしさにふれる。夜は山小屋にとまり、夜空を見上げ、星たちをながめることで 宇宙の 神秘を想う。なんと楽しい人生を送っていることだ。
こんな人生を送れるというのも、子どものころから勉強を苦とせず、楽しいものと考えていたからである。
成績がいいとか、悪いとかではなく、自分の 好きなコトを見つけ、それを勉強していると、しぜんとほかのコトもついてくるのだ。
( 吉村作治「 好きなことを勉強する楽しみ」)
私たちは東京に住むと 読解検定長文 小4 春 3番
私たちは東京に住むと東京の生活一色になってしまいますが、そうでなくて 田舎に行く。 観光地に行ったり、 盆のときにバーッと行くのではなくて、そこで二週間ぐらい 昼寝したり、そこでとれるものを食べたり、いっしょに畑をやってみたりする。いちばん子どもにとってだいじなのは、動物が生まれるところをみせる、死ぬところをみせることです。あるいは自分がなにかを植えて、それが一日一日と大きくなって、やがてそれが 刈り取られて死ぬところをみせる。そうやって人間が 自然のなかの一部であり、 自然とどう 付き合っていくかがだいじだということを教えないといけません。そういうことを学者ふうにいいますと「農業の教育力」といいます。これはルソーの言葉です。農業は教育力があるのです。
そうした教育力が工業になぜないかといいますと、 現代の工業は 産業システムのなかの一部分しか一人の人が 担当しないからです。たとえば一人の人が 鉱山から鉄を 掘るところからはじまって、あるいはそこまでいかなくても、せめて一人ですべての部品を組みたてて車をつくっていくとするなら、これはおそらくすばらしい 体験になると思います。でも、それは 許されない。流れ作業とかの 産業システムのなかの一部分だけ、ただいつも同じボルトを 締めているしかないのです。そうすると、自分でなにかをつくったという 体験にならない。
誰でも 経験があると思いますが、何か自分でものをつくるとしますね。頭のなかにそのつくるものをイメージする、やってみる、うまくいかない、がっくりくる。でも、この次がんばってやってみる。そのくりかえしのうえにできたときにすごい 喜びがあります。それとおなじように、ことしはこの畑になにをまこう、あるいは牛を育てよう。そういうふうに仕事というのは、まずゴールがイメージできて、自分の力でそれにいっしょうけんめい近づいていき、それを 達成したときには 喜びがあるというのが、仕事のいちばんだいじなところだと思います。
ところが、 不幸にして、 現代の工業システム、 産業システムは、人間からそういう仕事の 喜びを 奪ってしまう。 試行錯誤をしたり、考えこんだりしているヒマがあったら、はやく、たくさん、同∵じものをつくらなければ 効率が悪い、 競争に負けるというのが、 現代の工業の考え方です。自分のやっていることの意味が全体のなかでわからないから面白くない。ところが、農村にいくと全体が身をもってみえるのです。
工業が 自然を 破壊してしまうのも、これと 関係があると思います。 私は、工場や商社に 勤めている人がみんな 環境破壊をしようと思っているなどとは思いません。しかし、工業のシステムに入ってしまうと、自分のやっていることが地球のなかでどんな意味をもっているのかわからない。自分が 締めているネジが、自分が使っている薬品が、どんな 影響を地球に 与えるかなどというのは、流れ作業のなかではまったくみえてこない。それで、知らず知らずのうちに、地球をこわしてしまっているのです。
( 中略)
農業はいまや日本のGNP( 国民総生産)の二%ぐらいしかないからもう 要らないというのが 産業界の意見ですが、そうではないのです。それはコメやなんかの 値段だけ。 値段だけを 比べてほしくない。その 陰になっているものを 認めなければならない時代がきたのです。
それは 経済性を追わないという時代でもあります。追わないことがかえって 利益になる。 即座には 利益になりませんが、あとあとそれが 利益となって帰ってくるのです。
( 井上ひさし「 続 井上ひさしのコメ 講座」)
連日の梅雨空です 読解検定長文 小4 春 4番
連日の 梅雨空です。いまも雨こそふってはいませんが、空は、むらなく、うすいグレー一色にぬりつぶされています。
「おーい、 美奈代!」
男の子の声がとんできました。
運動場をまっすぐにつっきってかけてくるのは、となりのクラスの岩田 勇。赤ゴリラというあだ名そのままの体形で、リンゴのような赤いほっぺたが近づいてきます。
美奈代と 菊菜は、べつにふりむきもせず校門にかかりました。
「 美奈代、 美奈代! おまえを 呼んだんだぞ!」
勇は、息をはずませながら、
「 呼ばれたら、立ち、どまるとか――へ、返事を、する、とか、しろ。 美奈代。」
「気やすく 呼ばないでね。」と、 美奈代は、そっけなく、「で、なんの用?」
「まず、こっちを、見なよ。」
と、 勇は、ふざけました。
「相手にしない、しない。」
と、 菊菜が 美奈代に注意しました。
「 三枝さん、そういういい方って 失礼だと思いますよ。」 勇は、わざとじろりと 菊菜をにらんでから、「うちの先生が 呼んでるよ、 美奈代。うそじゃないから教室のほうを見なよ。」
美奈代は 校舎をふりむきました。すると二階から南野先生が、たしかに手まねきをしていました。
「な、そうだろ。」
「キク、待ってて。」
美奈代は 菊菜にいいのこして、運動場をかけもどりました。
( 福永令三「クレヨン王国の赤トンボ」
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