| ひとこと |
| 分析 |
| アジサイ | の | 峰 | の広場 |
| 正之 | / | おき | 高2 |
| ある立場から見た一つの射影が分析的方法である。あらゆる物質は、いくら |
| 細分化しても、それを捉えるためには立場や記号が必要であり、数学的表現の |
| みがそれを正確に表すのである。しかし、全く個性的なものはその分析的方法 |
| には適用できない。 |
| 分析的方法に応用できないものが出現していることが今日の問題ではないだ |
| ろうか。 |
| それは今まで物事をすべて分析的方法で解決してきたために、総体的な見方 |
| が困難になっているからだと思う。例えば、去年「脳死は死である」と決定さ |
| れたが未だに問題が多くあるのが実状である。この問題は分析的方法で解決に |
| 至ることはおそらく不可能であると思う。私は、この問題については、医療技 |
| 術が発達して脳死からの奇跡的な復活ができるようになるまで、問題解決の道 |
| を切り開くことはできないと思っていた。そして、そこまで医学が発展するこ |
| とを望んでいた。だが、もしそのことについて、総体的な見方をして解決の道 |
| を見つけることができる人がいるのなら、それはそれですばらしいことである |
| と思う。 |
| そのような問題解決のために、総体的な見地に立って問題と向き合うことを |
| 身につけていくべきであると思う。例えば、現在の医学は様々な部門に分けら |
| れで病院での診察が行われている。今では、そうして多くの分野の科が協力し |
| て全体的な見方をしなければ治らない難病も現れているのである。そういった |
| 治療のためにそうすることは大切なことであると思う。 |
| 確かに分析的方法は、これからの科学の進歩に影響を及ぼすもので大切かも |
| しれない。しかし、人間は、求めている限り迷うものだ。近年の問題で分析で |
| 解決できないのであれば、分析的方法をせずに、総体的な見方をする方法で、 |
| 将来立ちはだかる問題を 取り扱っていくべきではないかと思う。 |