| ひとこと |
| 身体 |
| アジサイ | の | 峰 | の広場 |
| 乱月 | / | あし | 高2 |
| 私たちは刻一刻と統合を繰り返している。表面上は同じ統合の範囲にとどま |
| る人たちも、実は実現しうる潜在的な統合可能性を構造化しているのだ。それ |
| ばかりではなく素質のように未来に実現すべき可能的統合もあれば、病者にと |
| っての健康のように回復すべき可能的統合もある。このような統合を内蔵して |
| いる私たちは、不連続な過程を経て統合しやすくするための網目を作り上げる |
| 。しかし1たん網目が出来上ると私たちは突然その作業に飽くようになる。どん |
| なユートピアでさえ人間は飽きる存在なのだ。今日の社会ではその「ユートピ |
| ア」がどんどん現実のものとなっていて、老人ホームをはじめとした施設も発 |
| 達を遂げつづけている。しかし先述のように人間というものはその「ユートピ |
| ア」に飽き、果てには破壊しようとさえも考える存在だ。私はこの行き過ぎた |
| 「ユートピア」が問題であると思う。 |
| 健常者は介護を必要とする人々をこちらの都合のいいように扱っているだけ |
| なのだ。言葉の上ではかなり気を配った表現を用いるようになったものの、結 |
| 局は劣った人間としか見ていないのだ。そのために知ってか知らずかかれらを |
| この現代社会から隔絶された監獄へと送り込んでしまうのだ。私の父はそのよ |
| うな人たちの人権を守るような運動をしているが、やはり身近の人でさえもそ |
| ういう認識は低いという。私たちはそんな認識を丸めて夢の島にでも捨ててし |
| まわなければならないのだ。 |
| 私たちの住む社会に完全に適合させてあげてはどうだろうか。手に職を与え |
| 、必要以上の介護はしない。もし未練がましくただ生きることだけを求める人 |
| がいたら、いっそのこと見殺しにしてもよいだろう。それが本来ある人間の姿 |
| だろうし、普通の人間ならそれを求めるはずだ。第二次世界大戦後の復興時に |
| は皆が活力にあふれていて、その結果1960年代の高度成長期を生み出した |
| 。これが私たちの有るべき姿だといえよう。 |
| 確かに健常者が社会の大半を占める中、老人や障害者の心を理解し、共存し |
| ていくことは難しいかもしれない。しかし今日の誤った「ユートピア」を更に |
| 「住みよい場所」にしていくよりは多少の犠牲を払おうとも「過酷」な世界に |
| した方がよいだろう。過ぎたるはなお及ばざるが如しというが、この「ユート |
| ピア」は本当に住みよい時期があったのかもしれない。 |
| 言い換えれば昔のような生活に一度戻してみるべきだ、ということだ。 |