| ひとこと | (6月3週) |
| 誰かがいつか |
| アジサイ | の | 道 | の広場 |
| 武照 | / | あよ | 高1 |
| 「あの動物はかわいいですねえ。山の木々がきれいですねえ。こんな広い海 |
| を目の前にすると自然の雄大さを感じます。」我々はこのような自然番組をク |
| ーラーや暖房の効いた部屋でねっころがりながら見る。そして番組は次のよう |
| な言葉で締めくくられる「このような美しい自然が今人類の手によってなくな |
| りつつあります。次世代に美しい自然を残していきましょう。」そうして我々 |
| はそうだそうだと思いながらチャンネルを換えるのである。テレビに納得させ |
| られながら次の日には「カラスは害鳥だなあ」などと思っているのだから矛盾 |
| もはなはだしい。自然は生き物を生かしもするが殺しもすることをどれだけの |
| 番組が言っているだろうか。現代の社会はあるべき現実との距離を安易にテレ |
| ビや車やコピーなどによって縮めすぎているのではないだろうか。そもそも我 |
| 々の生きた実感というものは我々が現実との距離を歩ききった時に得られるも |
| のである。我々は自分の足で現実との距離を縮めていくべきであろう。 |
| ではどうすればよいのか。それは本物を見ることではなかろうか。マイケル |
| ・クライトンの書いたSF小説「ロストワールド」に次のような言葉がある「 |
| 科学や理論なんて言うものはすべて幻だ。それに比べてこの潮の匂いをかいで |
| ごらん、目を閉じて陽の暖かさを感じてごらん。それだけが本物だ。」我々は |
| 安易に複製品を見たり時には手に入れたりすることができる。しかしこの類似 |
| 品がすぐ手に入るという状況が返って我々を現実との距離を見えなくしている |
| 大きな原因となっているのである。本物はあくまでも一つである。われわれは |
| その一つの本物を見ようとすることによって現実との距離を再認識することが |
| できるであろう。 |
| しかし現実はどうかといえばレプリカやミニチュアの社会である。店に行け |
| ば聞き損ったオーケストラのCDを手に入れることが出きる。映画を見なくて |
| も後に発売されるビデオを見ることが出きる。場所は忘れてしまったが、複製 |
| だけを集めた大美術展というものが新聞に載っていた。教科書レベルの作品ば |
| かりが並べられているそうである。さらに我々はこの博物館行くことさえしな |
| くても本屋に行けば美しい写真の載った画集を手にすることができるのである |
| 。一つの作品を見るために外国の博物館に足を運ぶのはもう流行らないのであ |
| ろうか。 |
| 確かに科学は我々が「無駄な」時間を使わなくてように、「無駄な」体力を |
| 使わなくてすむように発展してきた。我々は車や電車がなければ隣の県に行く |
| ことも大仕事なのである。しかし我々は「無駄な」物を省いたがために人生で |
| もっとも大切であろう「生きる実感」を薄れさせてしまったのではなかろうか |
| 。スプーンで食事をあけた口の中に入れてもらうのが我々の幸せではないはず |
| である。自然番組ではなく自分の足で山を歩いてみることだ。現実との距離を |
| 自らの足で歩ききることが大切であり、それに基づいた新たな科学が今求めら |
| れているであろう。 |