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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
※最初にログインをしてください。言葉の森の団体コードは、aaa001です。
※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
2.はじめに、音声入力を始めるのボタンを押してください。
3.音読が終わったら音声入力を止めるのボタンを押してください。
4.音声入力を止めたあと、結果を送信するのボタンを押してください。



【長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。】
【1】「大丈夫(だいじょうぶ)、寒くない、寒くないぞ。」
 僕(ぼく)はドアを開けて外へ飛び出した。
 もうすっかり春とはいえ、半ズボンはさすがに寒い。しかし、これに負けていてはいけないのだ。僕(ぼく)には自分を鍛え(きた )直して健康になるという、大きな目標があるのだから。
 【2】僕(ぼく)は体が弱い。すぐに喉(のど)が痛く(いた )なって熱が出るし、お腹( なか)を壊す(こわ )し、貧血になる。苦しい思いはたびたびしてきたが、今までそれで困っ(こま )たことはなかった。周りもみんな気をつかって、助けてくれていたからだ。
 【3】だが去年、僕(ぼく)は高熱を出してしまい、林間学校に参加することができなかった。その旅の様子は、みんなから聞いた話と、撮ら(と )れた写真でしか僕(ぼく)には分からない。みんな最高に楽しそうな笑顔で写真に写っている。
 【4】誰(だれ)にからかわれたわけでもなかったが、自分がみじめで悔しい(くや  )思いがした。だから僕(ぼく)は一念発起したのだ。今年は日光への修学旅行がある。それには絶対に参加するのだ、と。
 そのため、手始めに僕(ぼく)は半ズボンをはいて通学し、寒さに慣れることにした。
【5】「大丈夫(だいじょうぶ)、恥ずかしく(は    )ない、恥ずかしく(は    )ないぞ。」
 僕(ぼく)は自分に言い聞かせて、ドアを開けて教室に飛び込ん(と こ )だ。見慣れない僕(ぼく)の半ズボン姿(すがた)に、友人たちは実にいろいろな反応をした。「えっ。」という表情になる人もいたし、「なに、その格好。」と笑う人もいた。【6】しかし、そのくらい、なんてことはない。これは目標達成のための、僕(ぼく)なりの努力なのだ。笑いたければ笑えばいいという感じである。
 そもそも、体育のときはみんな短パンで運動しているのだ。私服(しふく)の半ズボンだけ恥ずかし(は   )がることはないはずだ。【7】僕(ぼく)はいつもどおりに挨拶(あいさつ)をして、席に座っ(すわ )た。僕(ぼく)の覚悟(かくご)が伝わったのか、友達もすぐに何も言わなくなった。
 目標のためなら、人間は大胆(だいたん)な行動がとれる。むしろ、大胆(だいたん)な発想や決断なくしては人間の進歩はないと言っていい。【8】そう考えると、僕(ぼく)の似合わない半ズボン姿(すがた)だって、まるでピカソの芸術やエジソンの発明のように輝かしい(かがや   )ものではないだろうか。
 この前の朝礼のとき、校長先生が「寒い日が続きますが、今朝、私(わたし)の横を元気に駆け抜け(か ぬ )ていった生徒が半ズボンで……」という話をした。【9】それは間違い(まちが )なく、僕(ぼく)のことだ。やはりこれは誇っ(ほこ )ていいことなのだと実感した。僕(ぼく)はこれからも半ズボンをはき続けていこう。
「大丈夫(だいじょうぶ)。寒くないぞ。」
 僕(ぼく)は、今日も半ズボン姿(すがた)で元気に学校に向かう。【0】

(言葉の森長文作成委員会 ι)
 【1】こうしてこれまでに人間は、平和のための備えをし、平和のためと称する(しょう  )戦争を始め、いつしかそれが人間から平和を奪う(うば )ただの戦争になっていた、という経験をしばしばしてきました。【2】備えをすることが全く不要だとは言えないでしょうが、平和というものが相手のある問題、他者との関係である以上、備えさえあれば平和でいられるという単純(たんじゅん)なものではないことも、次第に明らかになってきたのです。
 【3】加えて、平和についての思索(しさく)が進むにつれ、こういう別の問題も意識されるようになります。すなわち、戦争さえなければそれで平和と言えるか――。
 たとえば、多くの人々が極度の貧困(ひんこん)にさいなまれ、飢え(う )に苦しんでいるような社会は平和だろうか。【4】また、人種や性による差別が根強く残り、女児の就学(しゅうがく)率が男児のそれよりもいちじるしく低いような社会は平和だろうか。あるいは、字が読めないばかりに十分な社会参加ができず、自分たちが不利益をこうむっていることさえ気づかない人がたくさんいる社会は平和か。そういう問題です。
 【5】一九六〇年代も終わる頃(ころ)、それらもまた暴力と呼ぶ(よ )べきだ、と主張する学者が現れました。ノルウェーのヨハン・ガルトゥンクという人です。【6】いま述べたさまざまな問題は、誰(だれ)かが誰か(だれ )を殴っ(なぐ )たり殺したりするという意味での暴力ではないが、みずから望んだわけではない不利益をこうむる人は確実にいるのだから、それもまた別のかたちの暴力と呼ぶ(よ )べきだという考え方で、その種の「暴力」に「構造的暴力」という名前をつけました。【7】これに対し、人を殴っ(なぐ )たり殺したりするような種類の暴力を「直接的暴力」と呼び(よ )ます。
 「構造的」という言葉づかいはあまりなじみのないものかもしれませんが、おおよそ次のような意味です。たとえば、一つの社会の中で、一方には巨額(きょがく)の富を占め(し )、飽食(ほうしょく)している人がいる。【8】もう一方にはいくら働いても十分な収入(しゅうにゅう)が得られず、あるいは職さえも得られず、十分な食糧(しょくりょう)さえ得られない人がいる。それが当人たちの能力ややる気の問題ではなく、富の配分の仕組みが不適切であることの結果であるとしたなら、また、特定の人種や性が原因でなかば自動的に貧困(ひんこん)や飢餓(きが)の中に閉じ込め(と こ )られているとしたなら【9】――それは社会構造が原因で生み出されている暴力と呼ぶ(よ )ほかないのではないか。富める人々が貧しい人々を殴りつけ(なぐ   )て飢え(う )させているのではなく、したがって加害者は特定できないが、社会構造の被害(ひがい)者はいるという意味での「暴力」なのではないか。【0】
 この構造的暴力論(ろん)は、それまでの平和論(ろん)の見落としていた点を浮き彫り(う ぼ )にし、新たな地平を開くものでした。それまでは「戦争のないこと」が「平和」だとされていたのに対し、戦争がなくとも「平和ならざる状態」はある、という視点(してん)を理論(りろん)化するものだったからです。その背後(はいご)には、平和とは何より社会正義の問題なのではないか、という問題意識があります。人間が自分の責任によらないことで差別され、排除(はいじょ)され、悲しみ、傷つく(きず  )のは平和とは言えないのではないか、という問題意識です。
 平和研究の課題は一挙に広がりました。戦争や武力紛争(ふんそう)や軍拡(ぐんかく)が主題だった(少なくともそう信じられていた)のに対し、貧困(ひんこん)や開発や人権(じんけん)や平等といった、いわば非軍事的な社会問題に関心を広げていったのです。いまでも平和研究といいますと戦争や軍拡(ぐんかく)の研究ですねと言う方が少なくありませんが、けっしてそうではありません。それ以外の問題に対する関心も高く、その中にはジェンダーとか環境(かんきょう)とかいった、今日的な問題も含ま(ふく )れます。それは単に「研究対象を広げた」ということではありません。暴力の意味が変わり、平和の意味が変わったからそれらの問題が必然的に平和研究に入り込ん(はい こ )できた、ということなのです。

(最上敏樹(としき)『いま平和とは』)