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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」
 ヨウはかまどに薪(たきぎ)をくべているるい婆さん(ばあ  )に蒲団(ふとん)の中からちいさな顔だけを出して聞いた。るい婆さん(ばあ  )はもやのたちこめる暗い土間の隅(すみ)にしゃがんだままゆっくりとふりむいて、
「春の夢でも見たんかや」
と日焼けした顔から白い歯をのぞかせて言うと、こくりとうなずいた孫娘(まごむすめ)に、
「ああ、もうとっくに日向ッ原(ひなっぱら)じゃ春の歌がはじまっとるぞ」
とうれしそうに笑いかけた。
 ヨウはおおきな目をかがやかせて、蒲団(ふとん)を跳ね(は )上げて立ち上がると、土間のサンダルをつっかけ寝間着(ねまき)のまま外へ走り出した。
「こらっ、顔を洗っ(あら )てから行かんか」
背後(はいご)で聞こえる、るい婆さん(ばあ  )の声にヨウは首を横にふりながら、島の南西を見下ろせる裏手(うらて)の段々畑(だんだんばたけ)までの畔道(あぜみち)をかけ上がって行った。
 昨日まではぬかるんでいた道をヨウは犬のように跳ね(は )ながら走る。イモ畑を越え(こ )蜜柑(みかん)の木の下を抜け(ぬ )て、牛のモグがいる小屋の前にたどり着くと、ヨウは立ち止まって朝陽に光る海を見下ろした。
 半月余り続いた雨が上がった瀬戸内海(せとないかい)は無数の波頭(なみがしら)が西へむかう鳥の群れのように踊っ(おど )ていた。ヨウは肩(かた)で息をしながらおおきな目を少しずつ下げて行く。海原にむかって突き出し(つ だ )た皇子(みこ)岬(みさき)、左手にとんがり帽子(ぼうし)のように頭を見せる岬(みさき)の白い岩肌(いわはだ)が草のひろがる緑にかわると、そこだけ円形のステージのように丸くなった草原、日向ッ原が見えた。
「モグ、見てごらんよ。春が来とるよ。日向ッ原に、いっぺんに春が来とるよ」
 ヨウは大声で叫ん(さけ )だ。
 日向ッ原はまるで花たちが一夜のうちに開花したかのように菜の花とれんげが一面に咲い(さ )ていた。春風の織ったじゅうたんがヨウの目にあざやかに映っ(うつ )た。
「やっぱり夢で見たとおりだよ、モグ」
 ヨウはその場で飛び跳ねる(と は  )と、いつものように口をもぐもぐとさせているモグの首に抱きつい(だ   )た。モグは喉(のど)を鳴らしてから、ヨウの身体を釣り上げる(つ あ  )ように首を回した。

(伊集院(いじゅういん)静「機関車先生」)
 【1】最近の日本にはプロフェッショナルが少ないと思います。いつからか専門(せんもん)家というか、プロフェッショナルが敬遠(けいえん)され始めた。なぜそうなったか分析(ぶんせき)はしていないけれど、結果としてアマチュアがもてはやされる国になってしまった。【2】何のプロでもない者が、日常感覚でものをいうことが大変重要だというような、そんな価値(かち)観がはびこっています。
 たとえば審議(しんぎ)会などに参加しても、普通(ふつう)の人としかいいようのない委員が堂々と日常感覚の意見を述べる。【3】その情報はいわゆるマスコミで取り上げられるような程度で、実際のところはどうなっているのか、そのデータを知らないのに、ある限られた情報源(げん)に基づく日常感覚があたかもすべての判断の基準かのようなことを主張する。【4】またそれがもっともなことのように、マスコミで取り上げられる。最近はそういうことを頻繁(ひんぱん)に見かけます。
 本来、そういう場は、さまざまな分野のプロフェッショナルの意見を聞くところでした。【5】プロとはあることがらに関する事実がどうなっているのか、少なくともある条件下ではあるにしても、客観的なデータとして把握(はあく)しています。国というものは、プロフェッショナルが運営しなければ危険(きけん)きわまりない。【6】もっとも、最近の政治家も大衆(たいしゅう)に迎合(げいごう)するばかりですから、その程度のアマチュアの政治家が多いということですが。いまの我が国(わ くに)は、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
 【7】ここでいうアマチュアとは、その主張の根拠(こんきょ)がほとんどマスコミに出ている程度のことにある人のことです。自分の知っている範囲(はんい)のことをすべてだと思い込み(おも こ )、あたかもそれが正論(せいろん)であるかのように、堂々としゃべる。そんな風潮(ふうちょう)が目につきすぎます。
 【8】結局、そういう人たちには謙虚(けんきょ)さがないということです。実際のところはよく知りませんが、私(わたし)の知っている範囲(はんい)はこうだけど――といういい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、それを拡大(かくだい)して、人類一般(いっぱん)の普遍(ふへん)的な話としてどうのこうのというような議論(ぎろん)までするわけです。【9】こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。
 プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートが少なくなったということかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味ではありません。【0】自分の頭できちっと考えることができる、しかもその座標軸(ざひょうじく)は古今東西の歴史から、芸術、哲学(てつがく)に通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に自分の尺度(しゃくど)を持ち、したがってすべてのことが判断でき、行動できる。それがエリートです。
 秀才(しゅうさい)と呼ば(よ )れ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆる秀才(しゅうさい)というのは所詮(しょせん)、与え(あた )られた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。問題がつくれない人はエリートではありません。
 戦後教育は、あえてエリートをつくろうとしなかったともいえます。すべての子どもに、最初から我(が)がある、などという誤っ(あやま )た前提に立ったために、教育と呼べる(よ  )ような教育をしてこなかったのではないでしょうか。だから、当然のことながらエリートは育たなかったのです。

(松井(まつい)孝典(たかのり)『コトの本質』(講談社))