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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
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 【1】社会は個人から成り立つものとされている。したがって実状はどうであれ、それぞれの個人は、社会の構造、運営、将来について責任をもつものとして意識し、行動していることになっている。【2】しかしながら、このような意識は明治以降に輸入されたものであり、現実の日本人の多くは、社会を構成する個人としてよりも、世間の中にいる、一人の人間として行動している部分の方が多いのである。
 【3】世間と個人の関係について注目すべきことは、個人は自分が世間をつくるのだという意識を全くもっていない点にある。自己は世間に対して、たいていのばあい受け身の立場にたっているのである。個人の行動を最終的に判定し、裁くのは世間だとみなされているからである。【4】「世間」という言葉が定義しにくいのは、世間は常に個人との関係においてその個人の顔見知りの人間関係の中で生まれているものだからであり、人によって世間が広い人も狭い(せま )人もいるからである。したがって個人ごとにさまざまな世間があり、日本には数えきれないほどの世間があることになる。【5】ときには身内以外にさしたる世間とのつきあいもなく暮らしている人もいるのであるが、それでも世間の評判は気にかかるのである。
 欧米(おうべい)人は日本人を権威(けんい)主義的だとみることが多いが、それは日本人が常に世間の目を気にしながら生きており、彼ら(かれ )からみると個性的ではないようにみえるためである。【6】日本人はできるだけ目立たないように生きることが大切であると考え、自分の能力も必要以上に示さないようにする。日本人が何よりも怖い(こわ )と思っているのは「世間」から爪弾(つまはじ)きされることだからである。【7】その怖い(こわ )と思っている態度が欧米(おうべい)人には理解しかねるのであって、それは彼ら(かれ )には「世間」が理解しかねることと同じ根をもっている。
 個人の性格にもよるが、世間の中で暮らす方が社会の中で暮らすよりも暮らしやすく、楽なのだ。【8】そこでは長幼の序、先輩(せんぱい)・後輩(こうはい)などの礼儀(れいぎ)さえ心得ていればすべては慣習どおりに進み、得体のしれない相手とともに行動するときの不安などはないからである。さらに世間の中での個人の位置は、長幼の序や先輩(せんぱい)・後輩(こうはい)などの序列で一応決まっており、能力によってその位置が大きく変わることはあまりない。【9】個人が世間に対して批判をしたり、不満を述べることがあっても、世間のルールは慣習そのものであり、なんら成文化されていないから、不満も批判も聞き流されてしまうのである。
 日本人の多くは世間の中で暮らしている。【0】(中略)現実の日常生活では世間の中で暮らしているにもかかわらず、日本のインテリは少なくとも言葉のうえでは社会が存在するかのごとくに語り、評論家や学者は、現実には世間によって機能している日本の世界を、社会としてとらえようとするために、滑稽(こっけい)な行き違い(い ちが )がしばしば起こっているのである。このことは政党や大学の学部、企業(きぎょう)やそのほかの団体などの人間関係のすべてについていえることであり、それらの人間関係は皆(みな)そこに属する個人にとっては、世間として機能している部分が大きいのである。個々人はそれら世間と自分との関係を深く考えず、自覚しないようにして暮らしているのである。
 日本人の一人一人にそれぞれ広い狭い(せま )の差はあれ、世間がある。世間は日常生活の次元においては快適な暮らしをするうえで必須(ひっす)なものに見えるが、その世間がもつ排他(はいた)性や差別的閉鎖(へいさ)性は公共の場に出たときにはっきり現われる。たとえば何人かで旅に出るために列車を待っているとしよう。列をつくっているばあいも、何人かのうちの一人が先頭に並んで、あとからきた者もその先頭の一人のあとにぞろぞろと割り込ん(わ こ )でくることが多い。このようなとき、私たちは自分たちの仲間の利益しか考えていないのである。あるとき電車の中で私は中年の女性に席をゆずった。二駅ほど過ぎてその女性のとなりの席が空いたとき、その女性は遠くの席に座っていた仲間を呼び寄せて並んで座り、「二人とも座れて良かったね」と話し合っていた。彼女(かのじょ)たちにとってそのとき、二人だけの世間が形成されており、まわりの人間のことは全く彼女(かのじょ)たちの考慮(こうりょ)の中に入っていないのである。このようなことは日本では日常的にみられることであり、電車の中で宴会(えんかい)を始めたり、騒い(さわ )だりする人たちは常にどこでも見られるのである。このような事態に対して、日本人には公徳心が足りないとかいろいろいわれるが、問題は公徳心ではなく、ここでつくられている仲間意識が、多くの人たちによって是認(ぜにん)されているという点にある。
 そのようなとき私たち日本人には、自分たちが排他(はいた)的な世間をつくっているのだ、という認識がほとんどないのである。
(阿部(あべ)謹也(きんや)著『西洋中世の愛と人格』より)