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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
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【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】顔パスという言葉がある。「おれだ」「よし」という阿吽(あうん)の呼吸で、本来は規則として処理するところを当人どうしの個人的な関係で処理する方法である。なれ合いというと聞こえは悪いが、人間どうしの信頼(しんらい)関係を基礎(きそ)にしている点で最も確実な方法とも言える。【2】現代の法律や規則万能の社会では、このような人間の信頼(しんらい)関係に基づいた対応の仕方がもっと見直されてもよいのではないだろうか。
 そのための第一の方法は、相手を信じるだけの心の広さを持つことだ。【3】信頼(しんらい)するということは、相手に自分をゆだねることである。場合によっては、自分が大きな損失を被る(こうむ )こともある。それにもかかわらず、相手にすべてを任せて信頼(しんらい)する。そういう決意があるからこそ、相手も自分を信頼(しんらい)してくれる。【4】ジャン・バルジャンは、自分を信じてくれた老司教を裏切った。しかし、翌朝憲兵に連れられてきたジャンに、司教は、「その銀の食器は私が与え(あた )たものだ」と告げる。このように、相手の善なる心に対する絶対の信頼(しんらい)が、人間らしい心をもとにした社会の基礎(きそ)となる。
 【5】また、第二には、そのような人間どうしの信頼(しんらい)を支えるだけの社会の一体性を作ることだ。日本の社会の治安のよさは、世界の中でも際立っている。タクシーの中へ置き忘れた財布は、ほぼ確実に戻っ(もど )てくる。【6】日本人にとっては当たり前のように見えるこのようなことが、世界ではきわめて稀(まれ)なことなのである。そういう社会が築かれたのは、日本が一つの民族、一つの言語、一つの文化を持った社会だったからである。【7】異なる民族や文化と共存することはもちろん大切だが、それは日本の社会の中に異なる民族や文化が異質なまま広がっていいということではない。
 【8】法と正義に基づいて判断するという考えは、確かに人類が長い歴史の中で勝ち取ってきた権利だ。だからこそ、この考えは世界のどこでも通用するグローバルな思想となっている。しかし、そのグローバリズムは、日本のように互い(たが )の信頼(しんらい)関係をもとに成り立ってきた社会では、人間の心を持たない冷たい機械のような対応に見える。【9】大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)が日本人に人気があるのも、人間の心の温もりを裁き方の中に生かしたからだ。顔パスで交わされるものは、単なる顔ではなく、互い(たが )の善意への信頼(しんらい)なのである。【0】

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
 【1】たしかブレーズ・パスカルだったと思いますが、大体次のようなことを申しました。
 ――病患()は、キリスト教徒の自然の状態である、と。
 【2】つまり、いつまでも自分のどこかが具合が悪い、どこかが痛むこと、言いかえれば、中途半端(ちゅうとはんぱ)で割り切れない存在である人間が、己の有限性を染々と感じ、「原罪」の意識に悩ん(なや )で、常に心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すわけなのでしょう。【3】まあ、そういうふうに解釈(かいしゃく)させてもらいます。
 これは何もキリスト教徒に限らず人間として自覚を持った人間、すなわち、人間はとかく「天使になろうとして豚(ぶた)になる」存在であり、しかも、さぼてんでもなく亀(かめ)の子どもでもない存在であり、【4】更に(さら )また、うっかりしていると、ライオンや蛇(へび)や狸(たぬき)や狐(きつね)に似た行動をする存在であることを自覚した人間の、憤然(ふんぜん)とした、沈痛(ちんつう)な述懐(じゅっかい)にもなるかもしれません。
 恐らく(おそ  )「狂気(きょうき)」とは、今述べたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態のことかもしれません。【5】あえてロンブローゾを待つまでもなく、ノーマルな人間とアブノーマルな人間との差別はむずかしいものです。気違い(きちが )と気違い(きちが )でない人間との境ははっきり判らぬものらしいのです。まず、その間のことを忘れてはならず、心得ていたほうがよいかもしれないのです。【6】我々には、皆(みな)、少々気違い(きちが )めいたところがあり、うっかりしていると本物になるのだと、自分に言い聞かせていないと、えらい「狂気(きょうき)」 にとりつかれます。また、そういうことを知らないでいると、いつのまにか「狂気(きょうき)」の愛人になっているものです。
 【7】天才と狂人(きょうじん)との差は紙一重だと、ロンブローゾは申しているわけですが、天才とは、「狂気(きょうき)」が持続しない狂人(きょうじん)かもしれませんし、狂人(きょうじん)とは「狂気(きょうき)」 が持続している天才かもしれませぬ。
 しかし、人間というものは「狂気(きょうき)」なしには居られぬものでもあるらしいのです。【8】我々の心のなか、体のなかにある様々な傾向(けいこう)のものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起す場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉のように一定の方向を向きます。【9】そして、その方向へ進むのに一番適した傾向(けいこう)を持ったものが、むくむくと頭をもたげて、まとまった大きな力のものになるのです。そのまま進み続けますと、だんだんと人間は興奮してゆき、ついには、精神も肉体もある歪み(ゆが )方を示すようになります。【0】その時「狂気(きょうき)」が現れてくるのです。幸いにも、普通(ふつう)の人間のエネルギーには限度はありますし、様々な制約もありますから、「狂気(きょうき)」もそう永続はしません。興奮から平静に戻り(もど )、まとまって、むくむく頭をもたげていたものが力を失い、「狂気(きょうき)」が弱まるにつれて、まとまっていたものは、ばらばらになり、またもとのような、うようよした様々な傾向(けいこう)を持つものの集合体に戻る(もど )のです。そして、人間は、このうようよした様々なものが静かにしている状態を、平和とか安静とか正気とか呼んで、一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これにあきて憂鬱(ゆううつ)になったり倦怠(けんたい)を催し(もよお )たりします。そして、再び次の「狂気(きょうき)」を求めるようになるものらしいのです。この勝手な営みが、恐らく(おそ  )人間の生活の実態かもしれません。
 酒を飲んで酔っ(よ )た人々の狂態(きょうたい)を考えてごらんなさい。エネルギーはその人の極限にまで拡大され、様々な制約はまひ感によって消されます。ですから、あのような「狂気(きょうき)」の饗宴(きょうえん)は開かれるのです。酔漢(すいかん)の狂態(きょうたい)を鎮める(しず  )のには、彼(かれ)を昏睡(こんすい)させるか、あるいは狂態(きょうたい)の結果として生じた無理は簡単には通らぬということを何かの力で示すかするより外にしかたがないことがしばしばあります。しかも、正気に戻っ(もど )た酔漢(すいかん)は、その後少しばかり正気の期間が続きますと、何となく倦怠(けんたい)感を覚え、「狂気(きょうき)」への郷愁(きょうしゅう)に駆ら(か )れて、またしても酒を求めるようなことをいたします。
 我々が正気だとうぬぼれている生活でも、よく考えてみれば、大小の「狂気(きょうき)」の起伏(きふく)の連続であり、「狂気(きょうき)」なくしては、生活は展開しないこともあるということは、奇妙(きみょう)なことです。
 要は、我々は「天使になろうとして豚(ぶた)になりかねない」存在であることを悟り(さと )、「狂気(きょうき)」なくしては生活できぬ存在であることを悟る(さと )べきかもしれません。このことは、天使にあこがれる必要はないとか、「狂気(きょうき)」を唯一(ゆいいつ)の倫理(りんり)にせよとかいう結論に達すべきものでは決してありますまい。むしろ逆で、豚(ぶた)になるかもしれないから、豚(ぶた)にならぬように気をつけて、なれないことは判っていても天使にあこがれ、誰(だれ)しもが持っている「狂気(きょうき)」を常に監視(かんし)して生きねばならぬという結論は出てきてもよいと思います。「狂気(きょうき)」なしでは偉大(いだい)な事業はなしとげられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。「狂気(きょうき)」によってなされた事業は、必ず荒廃(こうはい)と犠牲(ぎせい)を伴い(ともな )ます。真に偉大(いだい)な事業は、「狂気(きょうき)」に捕え(とら )られやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗(しつよう)に地道になされるものです。やかましく言われるヒューマニズム(ユマニスム)というものの心核(かく)には、こうした自覚があるはずだと申したいのであります。容易に陥り(おちい )やすい「狂気(きょうき)」を避け(さ )ねばなりませんし、他人を「狂気(きょうき)」に導くようなことも避け(さ )ねばなりませぬ。平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。冷静と反省とが行動の準則とならねばならぬわけです。そして、冷静と反省とは、非行動と同一ではありませぬ。最も人間的な行動の動因となるべきものです。ただし、錯誤(さくご)せぬとは限りません。しかし、常に病患()を己の自然の姿と考えて、進むべきでしょう。

(渡辺(わたなべ)一夫『狂気(きょうき)について』より抜粋(ばっすい))