未ログイン ログイン
音読検定
 楽しくできる音読で、読む力、考える力が育つ。
 音読検定

★このページは、現在工事中です。しばらくお待ちください。
2026/9/22

1.はじめに、音声入力を始めるのボタンを押してください。
2.音読が終わったら音声入力を止めるのボタンを押してください。
3.音声入力を止めたあと、結果を送信するのボタンを押してください。




【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】顔パスという言葉がある。「おれだ」「よし」という阿吽あうんの呼吸で、本来は規則として処理するところを当人どうしの個人的な関係で処理する方法である。なれ合いというと聞こえは悪いが、人間どうしの信頼しんらい関係を基礎きそにしている点で最も確実な方法とも言える。【2】現代の法律や規則万能の社会では、このような人間の信頼しんらい関係に基づいた対応の仕方がもっと見直されてもよいのではないだろうか。
 そのための第一の方法は、相手を信じるだけの心の広さを持つことだ。【3】信頼しんらいするということは、相手に自分をゆだねることである。場合によっては、自分が大きな損失を被るこうむ こともある。それにもかかわらず、相手にすべてを任せて信頼しんらいする。そういう決意があるからこそ、相手も自分を信頼しんらいしてくれる。【4】ジャン・バルジャンは、自分を信じてくれた老司教を裏切った。しかし、翌朝憲兵に連れられてきたジャンに、司教は、「その銀の食器は私が与えあた たものだ」と告げる。このように、相手の善なる心に対する絶対の信頼しんらいが、人間らしい心をもとにした社会の基礎きそとなる。
 【5】また、第二には、そのような人間どうしの信頼しんらいを支えるだけの社会の一体性を作ることだ。日本の社会の治安のよさは、世界の中でも際立っている。タクシーの中へ置き忘れた財布は、ほぼ確実に戻っもど てくる。【6】日本人にとっては当たり前のように見えるこのようなことが、世界ではきわめてまれなことなのである。そういう社会が築かれたのは、日本が一つの民族、一つの言語、一つの文化を持った社会だったからである。【7】異なる民族や文化と共存することはもちろん大切だが、それは日本の社会の中に異なる民族や文化が異質なまま広がっていいということではない。
 【8】法と正義に基づいて判断するという考えは、確かに人類が長い歴史の中で勝ち取ってきた権利だ。だからこそ、この考えは世界のどこでも通用するグローバルな思想となっている。しかし、そのグローバリズムは、日本のように互いたが 信頼しんらい関係をもとに成り立ってきた社会では、人間の心を持たない冷たい機械のような対応に見える。【9】大岡越前守おおおかえちぜんのかみが日本人に人気があるのも、人間の心の温もりを裁き方の中に生かしたからだ。顔パスで交わされるものは、単なる顔ではなく、互いたが の善意への信頼しんらいなのである。【0】

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
 【1】たしかブレーズ・パスカルだったと思いますが、大体次のようなことを申しました。
 ――病は、キリスト教徒の自然の状態である、と。
 【2】つまり、いつまでも自分のどこかが具合が悪い、どこかが痛むこと、言いかえれば、中途半端ちゅうとはんぱで割り切れない存在である人間が、己の有限性を染々と感じ、「原罪」の意識に悩んなや で、常に心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すわけなのでしょう。【3】まあ、そういうふうに解釈かいしゃくさせてもらいます。
 これは何もキリスト教徒に限らず人間として自覚を持った人間、すなわち、人間はとかく「天使になろうとしてぶたになる」存在であり、しかも、さぼてんでもなくかめの子どもでもない存在であり、【4】更にさら また、うっかりしていると、ライオンやへびたぬききつねに似た行動をする存在であることを自覚した人間の、憤然ふんぜんとした、沈痛ちんつう述懐じゅっかいにもなるかもしれません。
 恐らくおそ  狂気きょうき」とは、今述べたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態のことかもしれません。【5】あえてロンブローゾを待つまでもなく、ノーマルな人間とアブノーマルな人間との差別はむずかしいものです。気違いきちが 気違いきちが でない人間との境ははっきり判らぬものらしいのです。まず、その間のことを忘れてはならず、心得ていたほうがよいかもしれないのです。【6】我々には、みな、少々気違いきちが めいたところがあり、うっかりしていると本物になるのだと、自分に言い聞かせていないと、えらい「狂気きょうき」 にとりつかれます。また、そういうことを知らないでいると、いつのまにか「狂気きょうき」の愛人になっているものです。
 【7】天才と狂人きょうじんとの差は紙一重だと、ロンブローゾは申しているわけですが、天才とは、「狂気きょうき」が持続しない狂人きょうじんかもしれませんし、狂人きょうじんとは「狂気きょうき」 が持続している天才かもしれませぬ。
 しかし、人間というものは「狂気きょうき」なしには居られぬものでもあるらしいのです。【8】我々の心のなか、体のなかにある様々な傾向けいこうのものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起す場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉のように一定の方向を向きます。【9】そして、その方向へ進むのに一番適した傾向けいこうを持ったものが、むくむくと頭をもたげて、まとまった大きな力のものになるのです。そのまま進み続けますと、だんだんと人間は興奮してゆき、ついには、精神も肉体もある歪みゆが 方を示すようになります。【0】その時「狂気きょうき」が現れてくるのです。幸いにも、普通ふつうの人間のエネルギーには限度はありますし、様々な制約もありますから、「狂気きょうき」もそう永続はしません。興奮から平静に戻りもど 、まとまって、むくむく頭をもたげていたものが力を失い、「狂気きょうき」が弱まるにつれて、まとまっていたものは、ばらばらになり、またもとのような、うようよした様々な傾向けいこうを持つものの集合体に戻るもど のです。そして、人間は、このうようよした様々なものが静かにしている状態を、平和とか安静とか正気とか呼んで、一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これにあきて憂鬱ゆううつになったり倦怠けんたい催しもよお たりします。そして、再び次の「狂気きょうき」を求めるようになるものらしいのです。この勝手な営みが、恐らくおそ  人間の生活の実態かもしれません。
 酒を飲んで酔っよ た人々の狂態きょうたいを考えてごらんなさい。エネルギーはその人の極限にまで拡大され、様々な制約はまひ感によって消されます。ですから、あのような「狂気きょうき」の饗宴きょうえんは開かれるのです。酔漢すいかん狂態きょうたい鎮めるしず  のには、かれ昏睡こんすいさせるか、あるいは狂態きょうたいの結果として生じた無理は簡単には通らぬということを何かの力で示すかするより外にしかたがないことがしばしばあります。しかも、正気に戻っもど 酔漢すいかんは、その後少しばかり正気の期間が続きますと、何となく倦怠けんたい感を覚え、「狂気きょうき」への郷愁きょうしゅう駆らか れて、またしても酒を求めるようなことをいたします。
 我々が正気だとうぬぼれている生活でも、よく考えてみれば、大小の「狂気きょうき」の起伏きふくの連続であり、「狂気きょうき」なくしては、生活は展開しないこともあるということは、奇妙きみょうなことです。
 要は、我々は「天使になろうとしてぶたになりかねない」存在であることを悟りさと 、「狂気きょうき」なくしては生活できぬ存在であることを悟るさと べきかもしれません。このことは、天使にあこがれる必要はないとか、「狂気きょうき」を唯一ゆいいつ倫理りんりにせよとかいう結論に達すべきものでは決してありますまい。むしろ逆で、ぶたになるかもしれないから、ぶたにならぬように気をつけて、なれないことは判っていても天使にあこがれ、だれしもが持っている「狂気きょうき」を常に監視かんしして生きねばならぬという結論は出てきてもよいと思います。「狂気きょうき」なしでは偉大いだいな事業はなしとげられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。「狂気きょうき」によってなされた事業は、必ず荒廃こうはい犠牲ぎせい伴いともな ます。真に偉大いだいな事業は、「狂気きょうき」に捕えとら られやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗しつように地道になされるものです。やかましく言われるヒューマニズム(ユマニスム)というものの心かくには、こうした自覚があるはずだと申したいのであります。容易に陥りおちい やすい「狂気きょうき」を避けさ ねばなりませんし、他人を「狂気きょうき」に導くようなことも避けさ ねばなりませぬ。平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。冷静と反省とが行動の準則とならねばならぬわけです。そして、冷静と反省とは、非行動と同一ではありませぬ。最も人間的な行動の動因となるべきものです。ただし、錯誤さくごせぬとは限りません。しかし、常に病を己の自然の姿と考えて、進むべきでしょう。

渡辺わたなべ一夫『狂気きょうきについて』より抜粋ばっすい