未ログイン ログイン
音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
※最初にログインをしてください。言葉の森の団体コードは、aaa001です。
※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
2.はじめに、音声入力を始めるのボタンを押してください。
3.音読が終わったら音声入力を止めるのボタンを押してください。
4.音声入力を止めたあと、結果を送信するのボタンを押してください。



 久助(きゅうすけ)君の身体のなかに漠然と(ばくぜん )した悲しみがただよっていた。
 昼のなごりの光と、夜のさきぶれの闇(やみ)とが、地上でうまくとけあわないような、妙に(みょう )ちぐはぐな感じのひとときであった。
 久助(きゅうすけ)君の魂(たましい)は、長い悲しみの連鎖(れんさ)のつづきをくたびれはてながら、旅人のようにたどっていた。
 六月の日暮(ひぐれ)の、微妙(びみょう)な、そして豊富(ほうふ)な物音が、戸外にみちていた。それでいて静かだった。
 久助(きゅうすけ)君は目を開いて、柱にもたれていた。何かよいことがあるような気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだという気もした。
 すると遠いざわめきのなかに、一こえ仔()山羊のなき声がまじったのをききとめた。久助(きゅうすけ)君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日ばかりの仔()山羊を、ひるま川上へつれていって、昆虫(こんちゅう)を追っかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、仔()山羊はひとりで帰ってきたのだと確信(かくしん)をもって思った。
 久助(きゅうすけ)君は山羊小屋の横へかけ出していった。川上の方をみた。
 仔()山羊は向こうからやってくる。
 久助(きゅうすけ)君にはほかのものは何も眼(め)にはいらなかった。仔()山羊の白いかれんな姿(すがた)だけが、――仔()山羊と自分の地点をつなぐ距離(きょり)だけがみえた。
 仔()山羊は立ちどまっては川縁(かわっぷち)の草をすこし喰(は)み、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
 久助(きゅうすけ)君はむかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
 仔()山羊は電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手のこわれたところもうまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
 久助(きゅうすけ)君は胸(むね)が熱くなり、なみだが眼(め)にあふれ、ぽとぽとと落ちた。
 仔()山羊はひとりで帰ってきたのだ。
 久助(きゅうすけ)君の胸(むね)に、今年になってからはじめての春がやってきたような気がした。
 久助(きゅうすけ)君はもう、兵太郎(へいたろう)君が死んではいない、きっと帰ってくる、という確信(かくしん)を持っていたので、あまりおどろかなかった。
 教室にはいると、そこに――いつも兵太郎(へいたろう)君のいたところに、洋服に着かえた兵太郎(へいたろう)君が白くなった顔でにこにこしながら腰かけ(こし  )ていた。
 久助(きゅうすけ)君は自分の席へついてランドセルをおろすと、眼(め)を大きく開いたまま、兵太郎(へいたろう)君をみてつっ立っていた。そうすると自然に顔がくずれて、兵太郎(へいたろう)君といっしょに笑い出した。
 兵太郎(へいたろう)君は海峡(かいきょう)の向こうの親戚(しんせき)の家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで帰ってきたのだそうである。それだけ久助(きゅうすけ)君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。兵太郎(へいたろう)君は帰ってきたのだ。
 休憩(きゅうけい)時間に兵太郎(へいたろう)君が運動場へはだしでとび出していくのを窓(まど)からみたとき、久助(きゅうすけ)君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そしてめったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうに尊く(とうと )、美しく思われた。

(新美南吉(なんきち)「川」)