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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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 【1】国際(こくさい)人とは一体どんな人間のことなのか、わかっているようでわかりにくい。単に外国へ何度も行ったことがあるとか、西洋のマナーを身につけているとか、外国で知名度が高いなどということではないような気がする。【2】また、外国語に堪能(たんのう)であるというだけでも国際(こくさい)人とは呼べ(よ )ないだろう。
 私(わたし)なりの考えでは、「外国人を相手に自分の考えを伝えたり心を通わせることのできる人」というようなものではないかと思っている。【3】こう考えるとき、国際(こくさい)人たるべき最も大切な条件(じょうけん)とは何だろうか。それは多分、「論理(ろんり)的に思考し、それを論理(ろんり)的に表現(ひょうげん)する能力(のうりょく)を持つこと」ではないかと思う。【4】言語、風俗(ふうぞく)、習慣(しゅうかん)などは国によって異なっ(こと  )ていても、論理(ろんり)なるものは万国共通だからである。日本人の議論(ぎろん)ベタは有名であるが、その原因(げんいん)は日本人がこの能力(のうりょく)に欠けているからだと思われる。
 【5】なぜ、論理(ろんり)的思考の訓練が我が国(わ くに)では十分にされていないのだろうか。やはり教育が真先に頭に浮かん(う  )で来てしまう。大学入試を目指して階段(かいだん)を駆け(か )上がるような小・中・高の学校教育、しかもその中で知識(ちしき)の修得(しゅうとく)が偏重(へんちょう)されているということ。【6】このあたりに大きな原因(げんいん)があるのではないか。
 アメリカの大学初年生を日本の学生と比べ(くら )てみると、アメリカ学生の方が知識(ちしき)量でははるかに劣っ(おと )ている。びっくりするほど無知であると言ってもよい。【7】しかし論理(ろんり)的に考え表現(ひょうげん)し行動することにかけては、彼ら(かれ )は十分な訓練を受けているから、精神(せいしん)的には成熟(せいじゅく)していて、論争(ろんそう)になったりした場合には日本人学生はとても太刀打ちできない。【8】一見アメリカの学校は生徒を自由に遊ばせているだけのように見えるが、そういった訓練はきちんとなされているのである。
 【9】たとえば小学生の宿題として「ピューリタン(キリスト教の宗派(しゅうは)の一つ)がアメリカに移住(いじゅう)した頃(ころ)の服装(ふくそう)について調べなさい」というようなものが出されるという。生徒はそれを調べるのに何をどんな順序(じゅんじょ)で実行すればよいかをまず考える。【0】そして、どこの図書館へ行けばよいのか、どんな本を読めばよいのか、どのようにしてその本を借出すのか、誰(だれ)に聞けば有益(ゆうえき)な情報(じょうほう)を得られるか、などを考えることになる。
 一方の日本では、受験勉強のために、生徒たちは知識(ちしき)やテクニックの修得(しゅうとく)ばかりに追いまくられている。論理(ろんり)的思考のために適当(てきとう)と思われている数学でさえ、決まりきった幾つ(いく )かの公式のうちからどれをどの場合にあてはめるかというだけのものになっていて、この意味では単なる暗記科目と化している。論理(ろんり)的思考の訓練はほとんど置き去りにされていると言えよう。
 それでは、論理(ろんり)的思考を育てるにはどうしたらよいだろうか。普通(ふつう)まず数学教育が頭に浮かぶ(う  )が、これは一般(いっぱん)に信じられているほど効果(こうか)的とは思えない。数学は確か(たし )に論理(ろんり)の上に組み立てられているが、いわゆる論理(ろんり)的思考に最適(さいてき)の教材かどうか疑わしい(うたが   )。私(わたし)にはむしろ、「言葉」を大切にすることが最も効果(こうか)的なように思われる。言葉というものは人間の思考と深く結びついている。言葉は単なる思想の表現(ひょうげん)ではない。言葉によって思考する、という意味では言葉が思想を形作るとさえ言える。思考と言葉とはほとんど区別の出来ないほどに一体化している。この意味で、論理(ろんり)的言葉を大事にするということは、論理(ろんり)的思考を大事にすることに等しい。
 このような観点から、国語教育を充実(じゅうじつ)させることが第一と思われる。洞察(どうさつ)力に恵まれ(めぐ  )た日本人にとって意思の疎通(そつう)に言葉を必要としないことはしばしばある。しかし、我々(われわれ)が国際(こくさい)人として生きようとする限り(かぎ )、論理(ろんり)的言葉から逃れ(のが )られないことは明らかに思われる。
(藤原(ふじわら)正彦(まさひこ)「数学者の言葉では」より)