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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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 【1】われわれのからだは、そのすべての部分がいつも同じようにはたらいているわけではない。寝(ね)ているとき、座っているとき、しゃべっているとき、歩いているときは、はたらいている神経も筋肉も同じではない。われわれは、刻一刻たえず新しい身の統合をなしとげている。【2】このたえず変化する動的な統合の複雑さには、どのような人工的システムもかなわないだろう。だがこの現実的な統合が身の統合のすべてではない。
 道を歩いている人のなかには、剣道(けんどう)の達人もあれば、ピアノの上手な人もあるだろう。【3】道を歩くという現実的な統合の範囲(はんい)にとどまるかぎり、ふたりの身の統合の構造は似たようなものであり、からだとしては同じだ、といえるかもしれない。しかし、それがふたりの身の真の姿ではない。ふたりの身は、今は実現していないが、実現しうる潜在(せんざい)的な統合可能性を構造化している。【4】ひとりの身のうちには、これまでの剣(けん)の立ち合い、さらにはこれまでの剣道(けんどう)の歴史、剣(けん)禅(ぜん)一致(いっち)の思想までも、肉化しているかもしれない。ピアノを弾く(ひ )人は、ピアノの鍵盤(けんばん)を身体図式のうちに組みこみ、ピアノ曲の解釈(かいしゃく)の歴史、演奏法の伝統をも潜在(せんざい)的な身の統合のうちに包みこんでいる。【5】身は解剖(かいぼう)学的構造をもった生理的身体であると同時に、文化や歴史をそのうちに沈澱(ちんでん)させ、身の構造として構造化した文化的・歴史的身体にほかならない。つまり身体は文化を内蔵するのである。(中略)
 この内蔵化の過程というのは、連続的な過程にみえて、実はかなり不連続である。【6】スポーツでも楽器の演奏でも、あるいはもっと抽象(ちゅうしょう)的な学習でもよい。試みるたびにうまくなり、理解が進むのは当然として、あるとき突然(とつぜん)身の動きが自由になり、頭が晴れる思いをすることがあるのではないだろうか。あたかもそれまで無かった網目(あみめ)が突然(とつぜん)身のうちに張りめぐらされたかのように。【7】経験は身のうちに沈澱(ちんでん)し、くりかえしは(能動的な訓練の場合はもちろん、とくに意識することなくくりかえしている場合でも)、自分では気がつかない小さな発見と創造によって、まだ不確定な網目(あみめ)を潜在(せんざい)的に身のうちに紡ぎ(つむ )出しているのではないだろうか。
 【8】練習は、能動的に身をある方向に整除して、統合を容易にする回路を身のうちに形成する試みである。身体を動かさないイメージ練習や、イメージを積極的に浮かべ(う  )て練習することが、動きを内蔵する早道であることがある。【9】これは意識的・能動的な統合である。ところが逆につぎの段階では、イメージが邪魔(じゃま)になる。こんどは動きによってイメージを消し、無心の状態に達することが必要になる。場合によっては、練習を休むことによって、上手くなったり、こつがつかめることさえある。【0】この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである。休んでいる間も練習された動きは、徐々に(じょじょ )身のうちに沈澱(ちんでん)し、動きのネットワークが受動的に構成され、あるとき突然(とつぜん)網目(あみめ)がつながるのであろう。
 ところが一たん網目(あみめ)ができあがると、くりかえしはただの反復に陥り(おちい )がちである。最も抵抗(ていこう)のない道がえらばれ、習慣は惰性(だせい)となるだろう。しかし惰性(だせい)なくりかえしは、あるとき飽和(ほうわ)状態になる。われわれは突然(とつぜん)惰性(だせい)的生に飽き(あ )ていることを発見する。
 どんな立派な計画やユートピアにたいしても、「否!」という少数者がいるというだけではなく、計画は現実化するにつれて惰性(だせい)化し、それに飽き(あ )た多数者を生み出す。哲学(てつがく)者の故生松敬三氏の巧み(たく )な表現を借りれば「人間はユートピアにさえ飽きる(あ  )存在」なのである。人間は座りつづけることもできないし、立ちつづけることもできない。すぐに惰性(だせい)化する存在でありながら、惰性(だせい)的でありつづけることもできない。人間は易きにつく存在だから、禁欲の時代のつぎに享楽(きょうらく)の時代が来るのはわかりやすい道理である。面白いのは、人間は享楽(きょうらく)にも飽きる(あ  )ということである。享楽(きょうらく)の時代のつぎに禁欲の時代が来るという不思議さ――同じ状態を永くつづけることができない人間のいたたまれなさは、動かしがたくみえる生き方を転換(てんかん)し、不可避(ふかひ)とみえる袋小路(ふくろこうじ)を打開する力さえもっている。これが惰性(だせい)的=創造的な習慣的身体の逆説である。

 (市川浩(ひろし)の文章による)