未ログイン ログイン
音読検定
 楽しくできる音読で、読む力、考える力が育つ。
 音読検定

★このページは、現在工事中です。しばらくお待ちください。
2026/9/22

1.はじめに、音声入力を始めるのボタンを押してください。
2.音読が終わったら音声入力を止めるのボタンを押してください。
3.音声入力を止めたあと、結果を送信するのボタンを押してください。




 【1】真意を伝えるのはむつかしいが、誤解をうけることはやさしい。私はけっして文学至上主義者ではないが、同様、視聴覚しちょうかく文化の主謀しゅぼう者でもないつもりだ。【2】私が言いたいのは、要するに、言語芸術と視聴覚しちょうかく芸術とは、機械的に対立させられるべきものではなく、そこに共通の課題を見出すことによって、はじめて両者の独自性も発揮できるのだという、ごく単純なことにすぎないのである。
 【3】サルトルは、「嘔吐おうと」(正しくは、むかつきとでも訳すべきものだろう)という小説の中で、まだ、名づけられないもの(=実存)が人間にあたえる衝撃しょうげき苦悩くのうをえがいた。名づけ、言語の秩序ちつじょの中にくりいれることで、人間は外部の存在を服従させ、安全なものにし、家畜かちく化することができたのである。【4】たとえば、棒に棒という名前をあたえ、棒として認識することで、個々の棒ではない、抽象ちゅうしょう的な棒一般いっぱん(無限個数の棒)を手に入れることが出来た。すなわち、道具の使用が可能になったわけである。さるも棒をつかう。しかしさるのつかう棒は、棒一般いっぱんではない。【5】したがって、さるは道具をつかうことができないのである。人間はほとんどすべての存在に名をあたえてしまった。単に名前をあたえただけでなく、物と物の関係を言葉の組立てによって言いあらわした。文法の進化とは、つまり人間の自然認識の進化にほかならないわけだ。【6】この関係は赤ん坊あか ぼうから大人への言語習得の過程をみてもよく分る。また失語症しつごしょう患者かんじゃが文法構造を次第に小児型から幼児型へと退行させていくのに並行して、空間関係の認知までが対応的に崩壊ほうかいしていくという事実もある。【7】重症じゅうしょう失語症しつごしょう患者かんじゃになると、角度の概念がいねんまでが無くなり、板を直角にきるために定規をつかうという操作さえできなくなるということだ。現実への言語の浸透しんとうには、想像以上のものがあるのである。
 こうしてわれわれの堅固けんごな日常世界が構築される。【8】パヴロフはこれをステロタイプ、安定化した条件反射と呼んだ。もっともパヴロフはべつにロマンチストではなかったから、ステロタイプという言い方を、かならずしも否定的な意味だけにつかっているわけではない。【9】むしろ、個体保存のための、きわめて効果的な能力として評価しているくらいだ。たしかに言語のヨロイをはぎとられた失語症しつごしょう患者かんじゃは、あたかも幼児のごとく、無防備になってしまうのだから。言いかえれば言語を媒介ばいかいにしないむき出しの事物とは、一種の魔境まきょうにほかならない。【0】むき出しの事物は、意味をもたない。そこには因果関係も、脈絡みゃくらくも、観念の誘発ゆうはつも連想もありえない。ただ口唇こうしん感覚の延長上にとらえられた切れぎれな印象の断片だけが現実である嬰児えいじの世界、もしくは寸断され変形され事物相互そうご脈絡みゃくらくを見失った精神分裂ぶんれつの世界だけが、かろうじてそのはだかの事物の不気味な姿を類推させるくらいのものだろう。おそらくそれは、メドゥサの頭のように、見たものを石にする。言葉は、メドゥサの呪術じゅじゅつから身を守る、鏡のたてなのである。
 ところが、いわゆる映像論者は、犬だろうと、さるだろうと、赤ん坊あか ぼうだろうと、眼がありさえすればなんでも同じように物が見えるという、きわめて素朴そぼくな反映論に立っているらしく、平然と次のような主張をする。「映像は、言語とちがった、独自の方法で、さまざまな抽象ちゅうしょう的内容を表現し、伝達し得る、云々うんぬん……。」しかし残念ながら私には、言葉をもたない動物――犬や、さるや、ぶた――等が、なんらかの抽象ちゅうしょう的思考に到達とうたつしえただろうなどとは、想像することもできない。そんなことはただ、童話の中でしか起こりえないことではあるまいか。どうやら映像論者の諸君は、言語の機能を過小評価しているのみならず、彼らかれ の旗印であるはずの映像についても、言語の類比でしかみないという、不当な誤ちをおかしているように思われてならないのだ。 (中略)
 かと言って、べつに映像のもつ意義を無視しようとしているのではない。それどころか、実は映像論者などより以上に、映像の今日的意義を高く評価しているつもりである。いわゆる、映像論者というのは、一見映像と言語を対立的にとらえているようにみえながらその実、映像を言語と対等の場所にもち上げようとしてやっきになっている、その言語コンプレックス患者かんじゃにすぎないのだ。映像価値は、なにも言語と対等であることで保証されるものではない。むしろ、一切の言語的要素――抽象ちゅうしょうによる安定や普遍ふへん化、意味づけ、伝達、解釈かいしゃく、連想、その他――と拮抗きっこうして、破壊はかい的に作用するところにこそ、その存在理由を見出すべきではなかろうか。
 映像の価値は、映像自体にあるのではない。既成きせいの言語体系に挑戦ちょうせんし、言語に強い刺激しげきをあたえて、それを活性化するところにあるのだ。 (中略)
 こう考えてくると、文学と視聴覚しちょうかく芸術とはもはや単なる対立物などではありえない。ジャンルの如何いかんをとわず、もともと芸術的創造とは、言語と現実との癒着ゆちゃく状態――言語というかべにとりまかれた、ステロタイプの安全地帯――にメスをいれ、異質な言語体系をつくり出す(それはむろん同時に新しい現実の発見でもある)ものであるはずだ。このことは、当然のことながら、散文芸術についてもそのまま当てはまる。小説が、言語(=意識)に衝撃しょうげきをあたえ、それを活性化するだけのエネルギーを回復するためには、一度まず小説というわくをはなれ、芸術の共通課題に立ってみる必要があるだろう……という意味では、私はやはり映像主義者以上のちょう映像主義者に違いちが ないし、またそれをもって任じてもいる。だが同時に、視聴覚しちょうかく文化の現状は、映像の破壊はかい力を利用するどころか、小説同様に言語のかべにがんじがらめになっているわけで、この停滞ていたいをうち破るためには、さらに強く方法意識が自覚されなければなるまい……。という意味では、むしろ文学(たとえばこの私の文章などをもふくめたごく広義の)主義者になるわけだ。
 映像で方法は語れない。そして、言語のかべは、想像以上に堅固けんごなものである。小説家もまた、言語破壊はかいのダイナマイト造りに参加する義務があるだろう。

(安部公房こうぼう砂漠さばくの思想」による)