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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
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 【1】真意を伝えるのはむつかしいが、誤解をうけることはやさしい。私はけっして文学至上主義者ではないが、同様、視聴覚(しちょうかく)文化の主謀(しゅぼう)者でもないつもりだ。【2】私が言いたいのは、要するに、言語芸術と視聴覚(しちょうかく)芸術とは、機械的に対立させられるべきものではなく、そこに共通の課題を見出すことによって、はじめて両者の独自性も発揮できるのだという、ごく単純なことにすぎないのである。
 【3】サルトルは、「嘔吐(おうと)」(正しくは、むかつきとでも訳すべきものだろう)という小説の中で、まだ、名づけられないもの(=実存)が人間にあたえる衝撃(しょうげき)と苦悩(くのう)をえがいた。名づけ、言語の秩序(ちつじょ)の中にくりいれることで、人間は外部の存在を服従させ、安全なものにし、家畜(かちく)化することができたのである。【4】たとえば、棒に棒という名前をあたえ、棒として認識することで、個々の棒ではない、抽象(ちゅうしょう)的な棒一般(いっぱん)(無限個数の棒)を手に入れることが出来た。すなわち、道具の使用が可能になったわけである。猿(さる)も棒をつかう。しかし猿(さる)のつかう棒は、棒一般(いっぱん)ではない。【5】したがって、猿(さる)は道具をつかうことができないのである。人間はほとんどすべての存在に名をあたえてしまった。単に名前をあたえただけでなく、物と物の関係を言葉の組立てによって言いあらわした。文法の進化とは、つまり人間の自然認識の進化にほかならないわけだ。【6】この関係は赤ん坊(あか ぼう)から大人への言語習得の過程をみてもよく分る。また失語症(しつごしょう)の患者(かんじゃ)が文法構造を次第に小児型から幼児型へと退行させていくのに並行して、空間関係の認知までが対応的に崩壊(ほうかい)していくという事実もある。【7】重症(じゅうしょう)の失語症(しつごしょう)患者(かんじゃ)になると、角度の概念(がいねん)までが無くなり、板を直角にきるために定規をつかうという操作さえできなくなるということだ。現実への言語の浸透(しんとう)には、想像以上のものがあるのである。
 こうしてわれわれの堅固(けんご)な日常世界が構築される。【8】パヴロフ()はこれをステロタイプ、安定化した条件反射と呼んだ。もっともパヴロフ()はべつにロマンチストではなかったから、ステロタイプという言い方を、かならずしも否定的な意味だけにつかっているわけではない。【9】むしろ、個体保存のための、きわめて効果的な能力として評価しているくらいだ。たしかに言語のヨロイをはぎとられた失語症(しつごしょう)の患者(かんじゃ)は、あたかも幼児のごとく、無防備になってしまうのだから。言いかえれば言語を媒介(ばいかい)にしないむき出しの事物とは、一種の魔境(まきょう)にほかならない。【0】むき出しの事物は、意味をもたない。そこには因果関係も、脈絡(みゃくらく)も、観念の誘発(ゆうはつ)も連想もありえない。ただ口唇(こうしん)感覚の延長上にとらえられた切れぎれな印象の断片だけが現実である嬰児(えいじ)の世界、もしくは寸断され変形され事物相互(そうご)の脈絡(みゃくらく)を見失った精神分裂(ぶんれつ)の世界だけが、かろうじてその裸(はだか)の事物の不気味な姿を類推させるくらいのものだろう。おそらくそれは、メドゥサの頭のように、見たものを石にする。言葉は、メドゥサの呪術(じゅじゅつ)から身を守る、鏡の楯(たて)なのである。
 ところが、いわゆる映像論者は、犬だろうと、猿(さる)だろうと、赤ん坊(あか ぼう)だろうと、眼がありさえすればなんでも同じように物が見えるという、きわめて素朴(そぼく)な反映論に立っているらしく、平然と次のような主張をする。「映像は、言語とちがった、独自の方法で、さまざまな抽象(ちゅうしょう)的内容を表現し、伝達し得る、云々(うんぬん)……。」しかし残念ながら私には、言葉をもたない動物――犬や、猿(さる)や、豚(ぶた)――等が、なんらかの抽象(ちゅうしょう)的思考に到達(とうたつ)しえただろうなどとは、想像することもできない。そんなことはただ、童話の中でしか起こりえないことではあるまいか。どうやら映像論者の諸君は、言語の機能を過小評価しているのみならず、彼ら(かれ )の旗印であるはずの映像についても、言語の類比でしかみないという、不当な誤ちをおかしているように思われてならないのだ。 (中略)
 かと言って、べつに映像のもつ意義を無視しようとしているのではない。それどころか、実は映像論者などより以上に、映像の今日的意義を高く評価しているつもりである。いわゆる、映像論者というのは、一見映像と言語を対立的にとらえているようにみえながらその実、映像を言語と対等の場所にもち上げようとしてやっきになっている、その言語コンプレックス患者(かんじゃ)にすぎないのだ。映像価値は、なにも言語と対等であることで保証されるものではない。むしろ、一切の言語的要素――抽象(ちゅうしょう)による安定や普遍(ふへん)化、意味づけ、伝達、解釈(かいしゃく)、連想、その他――と拮抗(きっこう)して、破壊(はかい)的に作用するところにこそ、その存在理由を見出すべきではなかろうか。
 映像の価値は、映像自体にあるのではない。既成(きせい)の言語体系に挑戦(ちょうせん)し、言語に強い刺激(しげき)をあたえて、それを活性化するところにあるのだ。 (中略)
 こう考えてくると、文学と視聴覚(しちょうかく)芸術とはもはや単なる対立物などではありえない。ジャンルの如何(いかん)をとわず、もともと芸術的創造とは、言語と現実との癒着(ゆちゃく)状態――言語という壁(かべ)にとりまかれた、ステロタイプの安全地帯――にメスをいれ、異質な言語体系をつくり出す(それはむろん同時に新しい現実の発見でもある)ものであるはずだ。このことは、当然のことながら、散文芸術についてもそのまま当てはまる。小説が、言語(=意識)に衝撃(しょうげき)をあたえ、それを活性化するだけのエネルギーを回復するためには、一度まず小説という枠(わく)をはなれ、芸術の共通課題に立ってみる必要があるだろう……という意味では、私はやはり映像主義者以上の超(ちょう)映像主義者に違い(ちが )ないし、またそれをもって任じてもいる。だが同時に、視聴覚(しちょうかく)文化の現状は、映像の破壊(はかい)力を利用するどころか、小説同様に言語の壁(かべ)にがんじがらめになっているわけで、この停滞(ていたい)をうち破るためには、さらに強く方法意識が自覚されなければなるまい……。という意味では、むしろ文学(たとえばこの私の文章などをもふくめたごく広義の)主義者になるわけだ。
 映像で方法は語れない。そして、言語の壁(かべ)は、想像以上に堅固(けんご)なものである。小説家もまた、言語破壊(はかい)のダイナマイト造りに参加する義務があるだろう。

(安部公房(こうぼう)「砂漠(さばく)の思想」による)