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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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 【1】歴史家の専門の仕事というものは、それを歴史家がどう理解するにせよ、たんに人間だけでなく、この地球上のあらゆる生命に本来的にそなわった限界や欠陥(けっかん)の一つたる一種の自己中心性を是正(ぜせい)しようとする一つの試みだといえるのである。【2】歴史家がその専門的な見解に到達(とうたつ)するためには、なによりもまず、みずからも一人の人間として免れる(まぬか  )ことのできないこの自己中心的な観点から、意識的に、また意図的に、その視角をそらそうとつとめなければならないのである。
 【3】自己中心性の地上の生において果す役割はいわば両面価値的なものである。一方では、自己中心性はあきらかに現世の生の本質をなすものと考えられる。【4】生あるものは、たとえささやかな付随(ふずい)的なものにせよ、事実この宇宙を構成する一片の分子だと定義することもできるのであって、しかもそれが、部分的にせよ他のものから解放され、【5】さらにこの宇宙の他のものをじぶんの利己的な目的に添わせる(そ   )ように、あらん限りの努力をはらう一個の自律的な力として独立しているというような一種の「はなれわざ」を演じているものだとも考えられるのである。【6】つまり、それぞれの生あるものはみな競ってみずからを宇宙の中心たらしめんとしているのであり、その際、他のあらゆる生あるものと、またこの宇宙そのものと、さらにこの宇宙を創造し維持(いじ)している万能の力――このつかの間の現象下にひそむ実在にほかならない万能の力――とも張り合おうとしているのだということになるのである。【7】このような自己中心性は、すべて生あるものの存在に欠くべからざるものであるために、その生活の必要条件の一つとなっているのであるが、もしかりに完全に自己中心性を放棄(ほうき)するということにでもなれば、【8】(たとえそれが生そのものの消滅(しょうめつ)を意味することにはならないにしても)およそ生あるいかなるものも、まさにこの時、この場所において生をいとなむためのあの媒介(ばいかい)手段をも、同時に完全に喪失(そうしつ)することになるであろう。【9】そしてこのような心理的な真実への洞察(どうさつ)が、仏教の知的な出発点となっているのである。
 このように、自己中心性は生の一つの必要条件なのであるが、しかしこの必要条件は、同時にまた一つの罪でもあるのである。【0】つまり自己中心性は、この世に生をうけたいかなるものも実は一つとして宇宙の中心たりえないものだとしてみれば、知的にも一つの誤りであり、またみずからが宇宙の中心ででもあるかのように行動できる権利など、なに一つとしてもつものがないとしてみれば、それは道徳的にも誤りなのである。およそ生あるいかなるものも、おなじ仲間たる被(ひ)造物にしろ、また宇宙にしろ神もしくは実在にしろ、まるでそれらが一個の自己中心的な被(ひ)造物の要求にこたえるためにのみ存在してでもいるかのようにこれをみなしていい権利などすこしももたないはずなのである。このような誤った信念をもち、これにもとづいた行動をすることは、(これをギリシアの心理学の言葉に従えば)倨傲(きょごう)の罪と呼ばれるもので、この倨傲(きょごう)とは、(生の悲劇がキリスト教の神話のなかにあらわれているのに従えば)大魔王(まおう)サタンがみずから奈落(ならく)に墜()るにいたったあの法外な、罪深い、自殺的な驕慢(きょうまん)にほかならないのである。
 このように自己中心性が生の必要条件であるばかりでなく、同時に因果応報を伴う(ともな )一つの罪でもあるとしてみると、すべて生あるものは、終生ぬけさることのできない窮境(きゅうきょう)におちいっていることになる。生あるものが、その生命を維持(いじ)することができるのも、ただそれが自己主張のあげくの自殺をも、また自己放棄(ほうき)からくる安楽死をも、ともにどうにかして避ける(さ  )ことができる限りにおいてであり、またその間においてのみなのである。この中道は、剃刀(かみそり)の刃(は)のように狭い(せま )道で、そこを通ってゆく旅人は、その道の両側の二つの深淵(しんえん)へとひかれる力によって、たえず極度の緊張(きんちょう)を感じつつ、用心深く平均を保ちつづけなければならないのである。
 生あるものにその自己中心性の課している問題は、それゆえ生死の問題となるのであり、それはあらゆる人間がたえずつきまとわれている問題なのである。歴史家のものの見方にしても、この恐るべき(おそ   )挑戦(ちょうせん)に応えようとして人間が心に装ういくつかの道具のなかの一つにほかならないのである。
 
 (A・J・トインビー「歴史家の宗教観」)