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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
2.はじめに、音声入力を始めるのボタンを押してください。
3.音読が終わったら音声入力を止めるのボタンを押してください。
4.音声入力を止めたあと、結果を送信するのボタンを押してください。



 【1】現代では学術研究の場においてだけでなく、企業(きぎょう)活動の場においてもまた専門化がすすんでいます。それぞれの場で陣頭(じんとう)にたって仕事を押し進め(お すす )ているのは専門家たちです。現代は、まさに専門家たちの時代であるというべきかもしれません。【2】それだけにまた現代は「専門バカ」たちの時代となる危険性もおおいに孕ん(はら )でいるのです。
 ただの専門家というのは、いわば塀(へい)に囲まれた住居の中だけで外からの情報を得ることもなく、生活している人みたいなものです。【3】塀(へい)の中のことは四六時中よく見て廻(まわ)っているのですが、塀(へい)の外はなにも見えないし、かといって外へ出かけていく余裕(よゆう)もないのです。専門家は自分の専門とする事柄(ことがら)についてはよく知っていても、ただそれだけだったらほとんどすべての事柄(ことがら)については無知だということになります。
 【4】ところが、自分の専門外の事柄(ことがら)についてある程度理解することができ、思慮(しりょ)分別を伴っ(ともな )た言論を展開できる人たちがいるのです。その言論は当の専門家をもうなずかせたり、一考を促し(うなが )たりすることがあるのです。【5】そういった言論の基盤(きばん)となるのは、何なのでしょうか。それはもはや専門的な知識や技術ではなく、常識や一般(いっぱん)的教養なのです。
 アリストテレスは、『トピカ』で、大衆を相手に話し合うには、「エンドクサ」(通念)に基づいて言論を展開することが有効だとしています。【6】大衆を相手にした場合、大衆の「ドクサ」(見解・思いなし)を枚挙して、ほかの人たちの意見にではなく、かれら自身の意見に基づいて論ぜよ、ということです。
 大衆というのは、ここでは専門的知識をもたない人たちのことを意味しています。【7】私たち一人一人が皆(みな)、自分の専門外の事柄(ことがら)に関してはそういう大衆の一人だといえるでしょう。専門家がきわめて精確な専門的知識に基づいて厳密な論証をおこなっても、専門家以外の大衆には難しくてついていけないわけです。
 【8】「エンドクサ」「人々に共通な見解」というのは、常識にほかなりません。人が自分の専門外の事柄(ことがら)について考え、論じるときに拠り(よ )どころとなるのは常識です。そればかりではありません。【9】専門家が自分の専門の事柄(ことがら)について語る場合でも、専門的知識をもたない大衆を相手にするならば、常識を通じてでなければわかってはもらえないでしょう。常識というのは、時代によっても社会によっても異なります。【0】たとえば昔は「地球は不動である」というのが常識であったのが、いまは「地球は動く」というのが常識です。しかしまた、たとえば基本的人権の擁護(ようご)というのはいまや世界の常識であっても、その人権の内容が異なるとすれば、基本的人権に関するある国での常識が他の国では通用しないこともあるわけです。
 常識は専門的知識ほど精確ではありません。また常識がすべて専門的知識に由来するわけでもありません。たんに皆(みな)がそう思っているというだけの常識もあります。しかし専門的な事柄(ことがら)に関する常識というのは、専門家の得た知識が専門家でない大衆にもわかりやすく通俗(つうぞく)化されることによって形成されるのです。そのような常識は知識に次ぐ確かさをもつということができるでしょう。常識は非専門家(大衆)からの、または非専門家向けの、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤(きばん)なのです。
 常識は言論の大きな基盤(きばん)です。けれども上手な言論というだけでなく、知恵(ちえ)を伴う(ともな )言論ということになると、教養が基盤(きばん)となるでしょう。
 教養は専門的技術(知識)と区別されています。プラトンは、その違い(ちが )をいくつかの対話篇(へん)のなかで指摘(してき)しています。たとえば『プロタゴラス』では、人が読み書きの先生や竪琴(たてごと)の先生や体育の先生から学ぶものは、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして、教養のために学ぶのだ、ということが言われています。医術や彫刻(ちょうこく)術のように、専門家(本職の師匠(ししょう))になるための技術として学ぶのではないということなのです。
 教養というのは、その道の専門家になるための技術(知識)として学ばれるのではなく、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして学ばれるのだということが注目されます。

(浅野楢英(ならひで)『論証のレトリック』による)