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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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 【1】私の英語力はほとんど中学三年間の教育に依拠(いきょ)している。高校時代に覚えた難しい単語は記憶(きおく)の彼方(かなた)へ霧散(むさん)してしまったし、大学時代の英語教育はなきに等しかった。大学にはLL教室があったけれども、テレビモニターを相手におうむ返しに発声するという行為(こうい)の単純さと滑稽(こっけい)さには耐え難い(た がた )ものを感じた。【2】現代小説を読むリーディングの授業は他力本願で何も身につかなかった。一番ひどかったのがアメリカ人講師による会話のクラスだ。これにはどうしてもなじむことができなかった。その主な理由は、講師の「笑顔」にあった。【3】金髪(きんぱつ)の彼(かれ)は、授業の間中、表情豊かに微笑(びしょう)しつつ頻繁(ひんぱん)に学生たちに語りかけていた。たいてい私はうつむいて、机の下で爪(つめ)をいじったりしながらそれを聞いていた。それがいけなかった。
 【4】視線を落として指先のあたりを見つめるのは「意識を集中して何かを聞く」ときの私の定型ポーズにすぎないのに、彼(かれ)にかかると、それは授業に対する「不満の表明」とみなされる。しょっちゅう机の脇(わき)に来ては、「何か問題がありますか?」「具合でも悪いのですか?」と尋ね(たず )られてうっとうしいことこの上ない。【5】私は無表情に首を振る(ふ )。「別に、何もありません」心の中では思っていた。おかしくもないのにあなたみたいに笑っちゃいられないわよ。馬鹿(ばか)じゃないんだから……。そうこうする間に私の英語力は息絶えた。
 【6】それから十年以上が経った昨夏、女子大生の語学研修に同行してアイオワ州のある私大へ行った。私自身は英語のレッスンに参加したわけではなかったけれども、ひと月近く滞在(たいざい)するうちに、あちらの教授陣(じん)とかなり緊密(きんみつ)な付き合いをすることになった。【7】なにしろ、朝昼晩の食事が一緒(いっしょ)である。毎日、レッスンの前後にあちこちへ案内され、週末には自宅へ招待される。それはもう逃げ場(に ば)もなく英語攻め(ぜ )ということでもあり、苦しさ半分有り難さ半分といった日々。苦しさの方は、言葉が頭の中に渦巻く(うずま )ばかりで口から発射されないことだ。【8】だいたいすれ違う(  ちが )たびに見知らぬ人と挨拶(あいさつ)を交わすという習慣からして私にはつらい。にっこり笑って、「ハーイ」というだけのことにどっと疲れ(つか )てしまう。
 有り難さの方は彼ら(かれ )のあふれるホスピタリティに触れ(ふ )たことだ。【9】アルバイトの学生から役付きの偉い(えら )教授までが、私の日常の細やかな部分に気を遣っ(つか )てくれる。立場が逆だったら、こうまでは出来ない。「笑顔」である。彼ら(かれ )は揃い(そろ )も揃っ(そろ )てにこやかな人々だった。いつ会ってもキゲン良さそうに微笑ん(ほほえ )でいる。【0】ほとんど朝から晩まで笑っているのかと思うほどだ。もしかすると表情筋が笑顔に固定されているのかもしれないとさえ思った。陽気な奴ら(やつ )なんだ、きっと。笑顔の民族なんだな。ある時私は見てしまったのだ。今までにこやかに笑顔を振りまい(ふ   )ていた教授が、一人になったとたん、考え深げな、どことなく徒労感の漂う(ただよ )表情に戻る(もど )のを。彼(かれ)はふと、まだ傍ら(かたわ )に私がいるのに気づいたけれども、再び同じテンションの笑顔に持っていくまでには驚く(おどろ )ほど時間がかかった。その時、彼ら(かれ )の笑顔が意識的な努力の賜物(たまもの)であることを私は悟っ(さと )た。
 彼ら(かれ )は実に意識的な人々だった。明快な価値観を持ち、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)を選択(せんたく)し、行動に移す。笑うべきだと思うから笑うということだ。たとえ一番気が抜ける(ぬ  )はずの家庭でさえ、意志の力で支えていかなければあっという間に瓦解(がかい)するという厳しい認識が、日常の些細(ささい)な行為(こうい)の背後にも痛いほどに感じられる。現実は厳しく、それを乗り越える(の こ  )ためには強靭(きょうじん)な意志力と行動が必要なのだ。
 その厳しい現実の一つがきっと理解不可能な他者の存在なのだろう。ひと月の間に、さまざまな場所でさまざまなアメリカ人とすれ違う(  ちが )うちに、私は一つの妄想(もうそう)を抱く(いだ )ようになった。「向こうから知らない人が歩いてくる。言葉は通じそうにない。何か誤解されたらナイフを突き付け(つ つ )られるかもしれない。ピストルだったら即死(そくし)だ」そのような心理的風土のもとでなら、過剰(かじょう)だろうがなんだろうが誤解の余地もないほどに微笑ん(ほほえ )で敵意のないことを相手に示そうとするだろう。相手もそうするだろう。摩擦(まさつ)を起こさず、安心してくらせる市民社会の、それがルールになるだろう。
 ここにいたって、その昔、苦手だった英会話のクラスで何が起こっていたのか、私はようやく理解した気がするのだ。こういう国から来た人ならば、うつむくばかりでコミュニケーションの努力を怠っ(おこた )た私には苛立っ(いらだ )たはずだ。今思えば、彼(かれ)もまた強靭(きょうじん)な意志力によって精一杯(せいいっぱい)私たちに微笑み(ほほえ )かけていた。こちらが無表情だった分、彼(かれ)の微笑み(ほほえ )は過剰(かじょう)になるのかもしれなかった。英語表現の基礎(きそ)は語彙(ごい)でも構文でもなく、伝えようとする意志、微笑む(ほほえ )その姿勢だと教えていたのかもしれなかった。
 アメリカ人は、あんなに毎日一生懸命(いっしょうけんめい)に生きていて疲れ(つか )ないのだろうか。