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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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 【1】大相撲(おおずもう)をはじめて見にいったとき、びっくりしたことがある。それは、取り組み中、観客席が四六時中ざわざわしていて、呼び出しから仕切り、立ち会い、組み合い、そして勝負までのしだいに盛り上がっていくはずの緊迫(きんぱく)感がぜんぜんないということだ。【2】それどころか、そもそも立ち会いの瞬間(しゅんかん)も注意をこらしていないと、すぐ見逃し(みのが )てしまい、眼を上げたら勝負は終わっていた、ということもしばしばだ。【3】テレビの相撲(すもう)中継(ちゅうけい)では、懸賞(けんしょう)の提供者紹介(しょうかい)や客の呼び出しなどの館内放送や観客席のざわめきは遮断(しゃだん)されていて、制限時間いっぱいになってから観客の声援(せいえん)を入れるよう演出してあるから、下のほうの取り組みでさえ、一抹(いちまつ)の緊張(きんちょう)感がただようわけだ。【4】ではなぜ館内がざわついているのか。答えはかんたんだ。一枡(ます)四人食べ物を拡げ、酒やビールを呑み(の )ながら、声をひそめることもなくおしゃべりに興じているからだ。食べながら見る、見ながらしゃべる。取り組み表の紙をばしゃばしゃさせて、勝敗を記入する。【5】あいだに前をひっきりなしにお茶屋のひとが食事やお茶やみやげ物を運ぶ。ざわついて当然だ。(中略)
 演ずる者と見る者、つまり演じられている舞台(ぶたい)とそれを鑑賞(かんしょう)する観客とを空間的に分離(ぶんり)すること、そういう制度になれてしまうと、大相撲(おおずもう)とか歌舞伎(かぶき)の楽しみかたに、はじめはとまどう。【6】けれども、今わたしたちが劇場やコンサートホールで入場券を買って鑑賞(かんしょう)する西洋の演劇や音楽にしたって、もともとは人びとでなんとなくざわついている宮廷(きゅうてい)の庭や居間で、あるいは街の芝居(しばい)小屋や路上で、催し(もよお )として行われていたわけで、必ずしも純粋(じゅんすい)な鑑賞(かんしょう)の対象であったわけではない。【7】渡辺(わたなべ)裕(ひろし)によれば、たとえば十八世紀の演奏会は極端(きょくたん)な言い方をすると「音楽のあるパーティー」といった趣(おもむき)の社交の場だったようで、客のおしゃべりがうるさくて、声楽曲を聴く(き )場合は歌詞を印刷したプログラムが配られることもあったそうである。
 【8】「おしゃべりだけではない。聴衆(ちょうしゅう)は演奏中にさまざまな「副業」を行っていた。ツェルターは後に一七七四年のベルリンでのコンサートの回想の中で、「無数のパイプから立ち上った煙草(たばこ)の煙(けむり)のもやの中で指揮をすることは容易ではなかったろう」と述べている。【9】また一七八四年のエアフルトでの演奏会の記録によれば、ビールや煙草(たばこ)が認められていただけでなく「とりわけ音楽が好きでない人々は気晴らしにトランプをやっており、ご婦人方は徐々に(じょじょ )そちらに加わっていった」。【0】フランクフルトのコンサート協会が一八〇六年に定めた規則に「犬を連れてくることは禁止」と書かれていたというのも興味深い。そんなことをわざわざ断らなければならないというのは、そういうことを何とも思っていない輩(やから)がいたということのあらわれである。(渡辺(わたなべ)格「聴衆(ちょうしゅう)の誕生」)」
 じっと息をこらして、作品の世界にひたりきるという「集中的聴取(ちょうしゅ)」の思想はまだなかったわけである。いま、たまたま思想ということばを使ったが、居ずまいを正して作品に集中するというような聴取(ちょうしゅ)の態度はかならずしも自明のものではなく、「芸術の享受(きょうじゅ)」あるいは「作品の鑑賞(かんしょう)」という一つの思想をバックボーンとして、制度化されてきた態度にほかならないということである。そしてそのために、演ずる者、演奏する者と見る者、聴く(き )者とを空間的に分割する装置が、劇場やコンサート・ホールとして建造されたのだ。
 「隔たり(へだ  )」ということが、ここでポイントとなる。演ずる者、演奏する者と見る者、聴く(き )者、つまりは、見られるものと見るものとを空間的に分離(ぶんり)する装置のなかで、二つの距離(きょり)が発生する。主体と対象との隔たり(へだ  )と、主体と唯(ただ)の主体との隔たり(へだ  )である。
 見る主体と見られる対象との隔たり(へだ  )は、芸術の場合、「鑑賞(かんしょう)」という概念(がいねん)と連動している。愉し(たの )みの「享受(きょうじゅ)」というよりもむしろ、距離(きょり)を隔て(へだ )て「鑑賞(かんしょう)」すべき客体として「芸術作品」が主体から空間的に分離(ぶんり)されていくそのプロセスを支配していたのは、近代芸術における「美の自律性」という考えかた、「美」はそれ自体としての独立の価値をもつという考えかただ。「芸術作品」は、それが創られた時代や環境(かんきょう)を超え(こ )た独自の「美的」世界をもつ。それが置かれた状況(じょうきょう)、あるいはそれを前にした鑑賞(かんしょう)者によって価値を変えるなどということは、本来、「芸術作品」にとってありえないことなのだ。そのためには、これらの作品は味覚とか嗅覚(きゅうかく)、触覚(しょっかく)といった、そのつどの状況(じょうきょう)によって感覚内容が変化するような「低級」な感覚に支えられるようなものであってはならない。そうではなくて、視覚や聴覚(ちょうかく)のような、距離(きょり)をおいた感覚、対象と接触(せっしょく)したり混じりあったりすることのない「普遍(ふへん)的な感覚」によって支えられるのでなければならない、とされるのである。
 さて「隔たり(へだ  )」のもう一つの意味は、他者との隔たり(へだ  )ということである。たとえばコンサートでも演劇でも、開演にあたってまず客席の照明が落とされる。これはまずは、見るものと見られるもの、演奏するものと聴く(き )ものとを空間的に分離(ぶんり)するためもあるが(客席を暗くすることで、演奏家や俳優は自分は見る人ではなく見られるばかりの人になり観客は見られることなく見るだけの人になる)、同時に、まわりにいる他の人間たちから個人を分離(ぶんり)し、隔離(かくり)するためのものでもある。観客が、他人にじゃまされることなく、個人として作品鑑賞(かんしょう)に集中できるよう、作品世界に投入できるように、照明が落とされるのだ。だから建物は、純粋(じゅんすい)に「作品」の世界だけに集中できるよう、周囲の騒音(そうおん)を遮断(しゃだん)する構造になっているし、観客は観客で、持ち物、パンフレット、咳払い(せきばら )などで余計な物音を立てることのないよう注意しなければならないのである。
 一九六〇年代に音楽や演劇や美術の世界に起こった反逆、例えば演奏中に客が絶叫(ぜっきょう)するようなライヴ演奏とか、観客を演劇の中に巻き込み(ま こ )、ストーリー展開のなかに偶然(ぐうぜん)的な要素をどんどん導入していくハプニングなどのパフォーマンスやテント小屋の実験演劇(路上で予告なしに劇が開始されることもあった)、アクションペインティングなどは、まさにこのような近代の「芸術鑑賞(かんしょう)」という制度そのものに攻撃(こうげき)の照準を合わせていたのであった。

 (鷲田(わしだ)清一)