未ログイン ログイン
音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
※最初にログインをしてください。言葉の森の団体コードは、aaa001です。
※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
2.はじめに、音声入力を始めるのボタンを押してください。
3.音読が終わったら音声入力を止めるのボタンを押してください。
4.音声入力を止めたあと、結果を送信するのボタンを押してください。



 【1】考えてみると、私の家では犬も猫(ねこ)も飼った覚えがない。あとになって、大森に引越し(ひっこ )てから、家の縁(えん)の下に野良犬が仔()を生んで、鳴き声に気がついた私が、ある日、縁(えん)の下深くまでもぐって仔犬(こいぬ)をつかまえ、【2】飼ってくれと、母親にせがんだことはあったけれど、七、八匹(ひき)もいた仔犬(こいぬ)たちは、母犬がどこかにつれていってしまうのか、それとも盗ま(ぬす )れるのか、つぎつぎと姿を消してしまった。【3】最後の一匹(ひき)が見えなくなった日は、私は本当に悲しくて、学校から戻っ(もど )たあと、日がくれるまで近所一帯を一生懸命(いっしょうけんめい)に探して歩き、疲労(ひろう)と気落ちでしょんぼりして帰宅したあと、夕食もとる気になれず、床(とこ)に入ってからも長いこと寝つか(ね  )れなかったのを覚えている。【4】奇妙(きみょう)なことに、まだ仔犬(こいぬ)に対して特別の親近感を抱く(いだ )ようになるだけの時間もたっていないのに、子供の私には、母親は別だとしても、それまで大切だったはずのほかの多くのものよりもはるかに重大な意味をもつ存在になってしまっていたのだ。【5】どうして、こういうことが、人間の子どもには、可能なのだろうか。私たちのなかの何が、こんな種類の愛情を成立さす力をもっているのだろうか。【6】とにかく、人間の子供にとっての犬や猫(ねこ)といった小動物たちは、母親のつぎにくる、「愛情の学校」ではないだろうか。私たちは、その学校で、人間同士では味わえない、ある種の純粋(じゅんすい)な愛の相を経験するのではなかろうか。
 【7】姿を消した仔犬(こいぬ)のことで、私がいつまでもあんまり悲しがっているものだから、母親が、ある日東京に出かけたついでに、ひとつがいのチャボを買って来てくれた。【8】その土産の小さな金物の籠(かご)のままではせますぎるので、大工さんを呼んできて、庭の片隅(かたすみ)に小屋をつくってもらった。チャボは犬とちがって、愛撫(あいぶ)したり、いっしょにそのへんを駆け(か )まわったりできないので、勝手が少しちがったけれど、それでも私はそれなりに可愛いと思った。【9】こまめに、餌(えさ)をやったり、小屋を掃除(そうじ)したり、いろいろ世話をした。世話をするのがうれしかった。数日して、巣の中に小さな白い卵のおいてあるのを見た時は、これが本当に私たちの鳥の生んだ卵だとはなかなか信じられなかった。【0】しかし、卵はその翌日も、巣の中にちょこんとおさまっていた。昨日の分は今朝学校にいく前、朝食といっしょに食べてしまったのだから、これは新しい卵に相違(そうい)なかった。こんなに一生懸命(いっしょうけんめい)生むのなら、食べてしまったら気の毒だな、と思った。とらずにおいといたら、いまに、卵がかえって、ひよっ子が生れて来るのではないか。鶏(にわとり)は一年中卵を抱く(いだ )わけではないと思うけれど、では少しとらずにおいて様子をみることにしようか、と母はいった。
 その夜私たちが寝(ね)ていると、庭で何か物音がして、目がさめた。何かが走ってゆくような音が聞こえた。そのまま、しばらく、きき耳をたてていたが、あたりはただひっそりしていて、何にもきこえない。
 翌朝起きて、雨戸をくり、庭の方をみると、白い羽根が散乱していた。「おかあさん」と叫ん(さけ )だまま、鳥小屋の方にかけ出した。前にはられた金網(かなあみ)が破れ、小屋の中はからっぽだった。あとから来た母と二人で、羽根のちらばった方を探しているうち、小笹(こざさ)の茂っ(しげ )たかげに、牝鶏(ひんけい)が横になっていた。咽喉(いんこう)をかまれたと見えて、そこから胸にかけて、白い毛が真赤に染っていた。それでも両手に抱きとっ(だ   )てみると、気のせいか、眼蓋(まぶた)が動くみたいで、そこから、眼の白いところが少し見える。「まだ生きてるんじゃないか」と、片手で首を持ち上げてみたが表情は全く変らない。彼女(かのじょ)の姿は、生きていた時よりむしろ美しいくらいだった。
 昨日まであんなに元気だったのにと思って、手を放したら、首ががくっとたれた。その瞬間(しゅんかん)、私は、自分が、今、じかに「死」というものにふれたのだと感じた。この経験は、いうまでもなく、私には全くはじめてのものだった。私はそれまで、そんな経験があろうと予測したこともなかった。
 生命とは、何かのことで一瞬(いっしゅん)にして消えていってしまうものであること、それが消滅(しょうめつ)すると共に、まるでばばぬきで手もとのカードをひきぬかれでもしたみたいに、私の手もとに残ったもの、これこそ「死」以外の何ものでもないという感じ。そこには恐ろしく(おそ   )て、しかも私の心をいつまでもつかまえて離さ(はな )ない力があった。
 これ以上大事なものはないと信じて大切にしていたものでさえ、一瞬(いっしゅん)にして離れ(はな )去り、二度と戻っ(もど )てくることがない。人生では、そういうことが起こる。そういう一瞬(いっしゅん)があるのである。それは、あたかも、私たちの油断の時を狙い(ねら )すませていたかのように突然(とつぜん)やってくる。アッと思った時は、もうどうしようもない。失われるのは生命に限らない。一つの幸せ、一つの平穏(へいおん)、一つの恋(こい)であることもある。ついさっきまで、人生は私たちに、あんなに快く、優しい眼差しをおくっていたのに、一瞬(いっしゅん)にして、全く別の相貌(そうぼう)が現われる。
 子供の日から何十年かの後、私はブリュッセルの美術館で、この時私の感じたものをはっきり思い出させずにおかない一枚の絵に会った。十六世紀の無名のオランダ派の描い(えが )た幼女の半身像で、彼女(かのじょ)は両手に死んだ小鳥を堅く(かた )握りしめ(にぎ   )たまま、明らかにどこの誰(だれ)に向けたらいいのかわからないまま、困惑(こんわく)と驚愕(きょうがく)と憤怒(ふんぬ)でかっと見開いた両眼で、こちらを見すえていた。
 
 (吉田(よしだ)秀和(ひでかず)の文章による)