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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 連日(れんじつ)の梅雨(つゆ)空です。いまも雨こそふってはいませんが、空は、むらなく、うすいグレー一色にぬりつぶされています。
「おーい、美奈代(みなよ)!」
 男の子の声がとんできました。
 運動場をまっすぐにつっきってかけてくるのは、となりのクラスの岩田勇(いさむ)。赤ゴリラというあだ名そのままの体形で、リンゴのような赤いほっぺたが近づいてきます。
 美奈代(みなよ)と菊菜(きくな)は、べつにふりむきもせず校門にかかりました。
「美奈代(みなよ)、美奈代(みなよ)! おまえを呼ん(よ )だんだぞ!」
 勇(いさむ)は、息をはずませながら、
「呼ば(よ )れたら、立ち、どまるとか――へ、返事を、する、とか、しろ。美奈代(みなよ)。」
「気やすく呼ば(よ )ないでね。」と、美奈代(みなよ)は、そっけなく、「で、なんの用?」
「まず、こっちを、見なよ。」
と、勇(いさむ)は、ふざけました。
「相手にしない、しない。」
と、菊菜(きくな)が美奈代(みなよ)に注意しました。
「三枝(さえぐさ)さん、そういういい方って失礼(しつれい)だと思いますよ。」勇(いさむ)は、わざとじろりと菊菜(きくな)をにらんでから、「うちの先生が呼ん(よ )でるよ、美奈代(みなよ)。うそじゃないから教室のほうを見なよ。」
 美奈代(みなよ)は校舎(こうしゃ)をふりむきました。すると二階から南野先生が、たしかに手まねきをしていました。
「な、そうだろ。」
「キク、待ってて。」
 美奈代(みなよ)は菊菜(きくな)にいいのこして、運動場をかけもどりました。

(福永(ふくなが)令三(けいぞう)「クレヨン王国の赤トンボ」
 【1】「自然(しぜん)ってどんな色?」と聞かれたら、何と答えるだろう? たいていの人は、緑色と答えるにちがいないし、実際(じっさい)みんなそう思っている。だから「水と緑の町づくり」などという標語(ひょうご)がそこらじゅうに掲げ(かか )られているのである。
 【2】目に入る「自然(しぜん)」が一望(いちぼう)の砂(すな)である砂漠(さばく)の国でも、水と緑はオアシスの象徴(しょうちょう)であり、人々はそこに安らぎを感じる。だから水と緑は、人間という動物にもともとしっかり結びつい(むす   )ているものであるらしい。
 【3】たぶんそういう理由からだろう、かつてはずいぶんこっけいなこともおこなわれていた。道路を作るので、草木の緑におおわれた丘(おか)に切り通しを作る。新しい道の両側(りょうがわ)は、赤茶けた土そのままの崖(がけ)で、何ともうるおいがないし、荒れ(あ )た感じがする。【4】それにいつ土が崩れ(くず )てくるかもわからないから、がっちりとコンクリートでおおってしまう。そうなると、ますます味気ない。そこで、とにかく緑にしようということで、コンクリートを緑色に塗っ(ぬ )たのである。
 確か(たし )に少し遠くからは緑にみえる。【5】けれど、所詮(しょせん)はペンキで緑色に塗っ(ぬ )ただけである。人間の感覚(かんかく)はこんなことでは欺(だま)されないはずだ。
 昔、モンシロチョウで実験(じっけん)してみたことがある。ケージの地面にいろいろな色の大きな紙を敷き(し )、チョウがどの色の紙の上をよく飛ぶ(と )かを調べたのだ。【6】やはり緑色の紙の上を、もっとも好ん(この )で飛ぶ(と )ようであった。なるほど、チョウは緑色であれば紙でもいいのだな、とぼくは思った。
 けれどこれは、チョウチョにはたいへん失礼(しつれい)な思いちがいであった。【7】ほんものの草を植えた植木鉢(うえきばち)をたくさん並べ(なら )たら、チョウは緑色の紙など見向きもせず、ほんものの草の上ばかりを飛ん(と )だのである。
 コンクリートを緑色に塗る(ぬ )のはその後まもなくやめになった。やはりほんものの草でなければ、ということは誰(だれ)にでもすぐにわかったからだろう。
 【8】だが、それでどうなったか? 次の方法(ほうほう)は、道路わきの斜面(しゃめん)(法面(のりめん))に牧草(ぼくそう)のたねを播く(ま )ことであった。こうして多くの高速道路の両側(りょうがわ)が、外国産(こくさん)の牧草(ぼくそう)でおおわれる始末(しまつ)となった。
 それは見るからにモダンな、最新(さいしん)のハイウェイという印象(いんしょう)を与え(あた )たことはたしかだったが、人工の産物(さんぶつ)であることも明らかであった。【9】それはどことなくよそよそしい、疑似(ぎじ)自然(しぜん)なのだ。
 同じような擬似(ぎじ)自然(しぜん)は、どこにでも見ることができる。
 かつてアフリカのモンバサに行ったときもそうだった。いかにもモンバサらしい熱帯(ねったい)の風景(ふうけい)の中で、ぼくはついに虫を一匹(ぴき)も見ることはできなかった。【0】ホテルの人にたずねたら、たえず殺虫(さっちゅう)剤(ざい)を撒い(ま )て、蚊(か)を退治(たいじ)していますから、ということだった。
 これも作られた疑似(ぎじ)自然(しぜん)である。昼になれば時折(ときおり)どこからかチョウチョが飛ん(と )でくるけれども、それも偶然(ぐうぜん)のことにすぎない。南の色濃い(いろこ )植物たちがぼくらを包ん(つつ )でいるけれども、それはあたかも観葉植物(かんようしょくぶつ)園の中にいるのとほとんど同じことだ。観光(かんこう)客たちはこういう場所にきて、熱帯(ねったい)の気分を満喫(まんきつ)して帰る。もちろんそれはけっこうなことだけれど、なんだか変(へん)である。
 水と緑のあるゆとりの町づくり、自然(しぜん)とのふれあい、自然(しぜん)との共生(きょうせい)……ことばはさまざまにあるが、意味しているところは同じである。美しく管理(かんり)され、不愉快(ふゆかい)な「雑草(ざっそう)」もなく、いやな虫もいない、疑似(ぎじ)自然(しぜん)。それをところどころにとり込ん(こ )だ町。つまりそういう町を作ろうということである。
 そこにあるのは「美しい自然(しぜん)」「調和のある、やさしくてゆとりのある平和な緑」という幻想(げんそう)だけだ。日本人は昔から自然(しぜん)を愛し(あい )た、などという誤っ(あやま )た思い込み(おも こ )に陥ら(おちい )ぬよう、もう少し醒め(さ )た認識(にんしき)が必要(ひつよう)なのではないか。
 (日高敏隆(としたか)『春の数えかた』)