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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 ぼくの友だちにも、たいていおじさんがいる。おじさんというのは、つまり両親の兄弟ということで、ぼくたちは、そのおじさんのオイ、女だったらメイということなのだそうだ。
 話をきいてみると、友だちのおじさんは、けっこういいおじさんだという。どこからどこまでいいおじさんというわけにはいかないが、あるおじさんは宿題を教えてくれる。あるおじさんはいっしょに動物園へつれていってくれる。あるおじさんはお小遣い(こづか )をくれる。
 なかにはスポーツマンのおじさんがいて、そのおじさんは有名なスキーの選手(せんしゅ)なのだそうだ。ジャンプの名手で、全日本大会とかいうと、そのおじさんは一等か、二等か、まかりまちがっても三等になる。一等のときは新聞に写真がでる。三等のときだって、ちゃんと名まえだけはでる。
 そういうおじさんを持った友だちは、ほんとうに幸福だとぼくは思う。いっしょにスキー場へ行けば、どんなにか得意(とくい)だろう。日本一か日本三の選手(せんしゅ)に、手をとってスキーを教えてもらえるからだ。
 けれども、友だちにきくと、実際(じっさい)はそんなことはないそうだ。スキーを教えてくれるなんて、とんでもない。そのおじさんは自分の練習にいそがしくて、オイやメイのことなんかかまっていられないそうだ。

(北杜夫(もりお)「ぼくのおじさん」)
 【1】あらためてわが日本語をかえりみると、ただちに気付く(きづ )のが「わたし」という一人称(いちにんしょう)の多様さである。日本語ほど一人称(いちにんしょう)代名詞(だいめいし)に多くのバラエティを与え(あた )ている言葉はほかにないのではあるまいか。【2】「わたくし」「わたし」に始まり、「ぼく」、「われ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「うち」、「わし」、「それがし」、「吾が(わ )輩(はい)」、「当方」、「こちら」、「小生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか、「わて」とか、「おいら」「こちとら」といったものまで加えれ(くわ  )ば、その数、ゆうに二十を越える(こ  )という。【3】英語(えいご)やフランス語、ドイツ語などでは一人称(いちにんしょう)の代名詞(だいめいし)はそれぞれ、I、Je、Ichたった一語である。それに対して、日本語には、なぜこんなにたくさん「自分」をあらわす言葉があるのか。【4】それは日本人が他の民族(みんぞく)よりも、ひと一倍「自分」に注意を払い(はら )、「自己(じこ)」に深い関心(かんしん)を持っていることを語っているのだろうか。
 端的(たんてき)にいえばそうである。しかし、だからといって日本人に自我(じが)意識(いしき)が強いとは必ずしも(かなら   )いえそうにない。【5】いや、むしろ欧米(おうべい)人に対して日本人は「自分」を主張(しゅちょう)することがずっとひかえめであり、日本では「個人(こじん)」という意識(いしき)、「我(われ)」の自覚(じかく)が西欧(せいおう)人にくらべてかなり遅れ(おく )ているというのが「通説(つうせつ)」になっている。【6】たしかに日本で個人(こじん)主義(しゅぎ)が芽生え(めば )たのは、ようやく第二次大戦(たいせん)後といってもいい。そして現在(げんざい)に至っ(いた )ても「個(こ)」の意識(いしき)はまだまだ希薄(きはく)で、日本の社会全体は画一主義(しゅぎ)で貫か(つらぬ )れている。画一主義(しゅぎ)とは没(ぼつ)個性(こせい)的(てき)ということであり、要するに(よう   )「個(こ)」が「全体」に埋没(まいぼつ)してしまっている状況(じょうきょう)である。【7】それなのに、日本人が他民族(みんぞく)よりも「自分」に注意を向け、つねに「自己(じこ)」を意識(いしき)しているといえるのだろうか。
 じつは日本人の自己(じこ)意識(いしき)は他民族(みんぞく)、たとえば欧米(おうべい)人のそれとは質的(しつてき)に異なっ(こと  )ているのである。ヨーロッパ人は自分というものを、実体的(てき)にとらえようとする。【8】自分というのは、それこそ、かけがえのない存在(そんざい)であり、独立(どくりつ)した一個(こ)の人格(じんかく)と信じ(しん )ている。ヨーロッパの哲学(てつがく)が古代ギリシアのむかしから一貫(いっかん)して求め(もと )てきたのは、ただひたすら「自分」というものの本質(ほんしつ)であった。【9】「なんじ自身を知れ!」というデルフォイの神託(しんたく)を哲学(てつがく)の出発点としたソクラテス、「われ思う、ゆえにわれ在り(あ )」を哲学(てつがく)の原点に据え(す )たデカルト、「人間とは自分の存在(そんざい)を自覚(じかく)した存在(そんざい)者だ」とするキルケゴール……ヨーロッパの哲学(てつがく)史(し)は、「自分」という実体へ向かっての旅だったといってもよい。【0】
 それに対して日本人は自分という一個(こ)の人間を実体としてではなく、機能(きのう)として考えてきた。個人(こじん)はけっして単独(たんどく)に存在(そんざい)するのではない。つねに「世間」で他の多勢(おおぜい)の人たちとさまざまな人間関係(かんけい)のなかで生きるのだ――というのが日本人の人間観(かん)の前提(ぜんてい)だった。げんに「人間」という言葉自体がそうした考え方を正直に語っている。この言葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語であるが、この漢語の意味はもともと人間の世界、すなわち「世間」ということなのである。ところがそれが日本ではいつの間にか「人」そのものをあらわす言葉になった。ということは、日本人にとって「世間」も「人」も同一のように思われていたからにちがいない。日本人は社会と個人(こじん)を一体化して考えてきたのである。
 日本人はヨーロッパ人のように自然(しぜん)と対決するのではなく、自然(しぜん)に親しみ、自然(しぜん)に同化することによって安らぎを得(え)てきた。それと同じことが社会についてもいえる。日本人は欧米(おうべい)人のように個人(こじん)を社会に対置(たいち)することなく、世間と自分とをひとしなみに表象(ひょうしょう)してきたのだ。「渡る(わた )世間に鬼(おに)はない」という諺(ことわざ)がその一端(いったん)を語っている。日本の自然(しぜん)が優しい(やさ  )山河(さんが)であるように、日本の世間も――他民族(みんぞく)の社会とくらべれば――結構(けっこう)、心安い社会だったからであろう。

 (森本哲郎(てつろう)『日本語 表と裏(うら)』)