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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
2.はじめに、音声入力を始めるのボタンを押してください。
3.音読が終わったら音声入力を止めるのボタンを押してください。
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 【1】私が、文章を書くことでやっと生活出来るようになった頃(ころ)、言葉遣い(ことばづか )について時折注意して下さる二、三の先輩(せんぱい)があった。多忙(たぼう)な方達であるから、私の文章など目にとまる機会はなくても当然、もしも目にとまれば、それだけ僥倖(ぎょうこう)というものだと思っていた。
 【2】一夕(いっせき)、外で集まりがあった。
 ウイスキーグラスを手にして近くに立っていられた、先輩(せんぱい)のある男性作家に名前を呼ばれた。この間、偶然(ぐうぜん)、新幹線の中であなたのもの読んだよ。おもしろかった。ただ、あれはちょっとおかしいんじゃないかなあ、と言って、ある用語のことを指摘(してき)された。
 【3】また、女性のある先輩(せんぱい)作家は、用件の電話を下さった折、話が終わってから、そうそう言わないでもいいことかもしれないけれど、あの文章のあそこのところで、ああ書いていられたのには、わたくし、ちょっとひっかかったんですよ。【4】あの言葉は、私ならこういう時に使うんです。でもきっと、お考えがあってのことだと思いますからお気になさらないでね。
 若い間は自惚れ(うぬぼ )が強い。 我も強い。
 それでも、いずれ劣ら(おと )ぬ大先輩(せんぱい)の言葉なので衝撃(しょうげき)は強かった。【5】風呂敷(ふろしき)で頸(くび)から上をすっぽり包んでしまいたい気持ちになったのは、かなり時が経ってからだった。
 読んでいて下さったからこそのご注意である。知らん顔されていてもすむ。それにお二方とも注意だけでなくほめ言葉も下さった。【6】大安売りのほめ言葉だったに違い(ちが )ないが、あそこがいけないというだけの注意ではなかった。酔い(よ )のまぎれにというかたちの気遣い(きづか )もあとになって分かった。何事に対しても、己れの限界の自覚を失った時にはもう、書き手としての終わりのない堕落(だらく)が始まっているのだろうとつくづく思うようになった。【7】けれども文章は又(また)、決して謙虚(けんきょ)な気持ちだけで書けるものでもない。勢い、が必要である。四苦八苦で筆が渋滞(じゅうたい)している時ではなく、憑かれ(つ  )たような状態になってはじめて筆を運ばされる時のことを考えると、これは無意識の自惚れ(うぬぼ )というほかはない。
 【8】反省と、訓練、謙虚(けんきょ)さと、自惚れ(うぬぼ )、そのどれが欠けてもいけないと思うのはこの期に及ん(およ )での認識で、経験の浅いうちはどうしても自惚れ(うぬぼ )が先行する。そういう者に対して、あえて苦言を呈し(てい )、叱っ(しか )て下さった方々をかえりみて有難く思う気持ちは強くなるばかりである。
 【9】所詮(しょせん)は孤独(こどく)な仕事、好きなようにやればいいさというのも一つの生き方であろう。しかし、気づいたことは、自分達の責任において叱っ(しか )ておいてやらなければ、と思って下さったのかどうか、とにかく私は、この種のご注意に対して、今は感謝だけでなく、生き方に対しても敬意を抱く(いだ )ようになっている。
 【0】私どもは、日頃(ひごろ)いとも気易く日本語、日本語と言っているが、さてその成り立ちを辿っ(たど )てみると、口ごもりたくなるようなことが少なくない。厄介(やっかい)な、複雑な成り立ちの歴史をもっているのが、毎日使っている、他のどこの国の言葉でもない日本の国の言葉である。
 その言葉を、出来るだけいい加減にではなく運用しようというのは、出来るだけいい加減にではなく物を見よう、物と自分とを関係づけようという生き方のあらわれにほかならず、そうであればこそ言葉遣い(ことばづか )に対する注意は、先に生きた大人がまず子供に対して行うべき大切な義務の一つかと思う。
 教師が生徒に対する以前に、親が子に対して。ということは、日常の言葉遣い(ことばづか )をまだよくは知らない者に対しては、知っている者が教えるのが至当(しとう)だと思うからで、知らない者はほうっておいて、自分で知るようになるまで待つというのは、事によっては通用するかもしれないけれど、怠惰(たいだ)の正当化にもなりかねない。
 大学生くらいになると、事情は大分違っ(ちが )てくるが、「怒る(おこ )」先生と、「叱る(しか )」先生を、子供は存外鋭く(するど )見抜く(みぬ )ものである。こと小学校、中学校、高等学校の国語教育に関しては、自覚と誇り(ほこ )をもって「叱る(しか )」先生は、多くてもいいと私は思う。
 生徒を怒る(おこ )のはいたって簡単だが、日常の言葉遣い(ことばづか )について、はっきりした自覚と誇り(ほこ )をもって生徒を叱る(しか )ために、教師自身の言語生活の訓練と充実(じゅうじつ)が前提になる。教師の知識だけに頼っ(たよ )ていても、教師の言語感覚、言葉遣い(ことばづか )の好みだけに頼っ(たよ )ていてもいけないのが国語教育のはずだから、叱る(しか )以上は、教師にも覚悟(かくご)がいる。
 表現の自由が認められている国は有難い。けれども、本当の自由の行使が出来るのは、不自由を経験している者だろう。自由を知らない者には、自由を知っている者が教える義務はないのか。教えられて学ぶことの大事を、教師はこれまた、自覚と誇り(ほこ )をもって教えていいのではないか。教師と生徒が、友達のような関係だけでは困る。
 まともに人格もそなわっていないうちから、ひとかどの人格扱い(あつか )をするのが果たしていいことなのかどうか、責任回避(かいひ)の人格尊重や放任は考えものである。
 一人の人間を駄目(だめ)にしてしまうのはわけのないことだ。好きなものを食べたいだけ食べさせ、眠り(ねむ )たいだけ眠ら(ねむ )せる生活を続けさせていればよいと言った人がいる。
 国を亡ぼすのは武力だけではない。教育の大事ということを切実に思う機会が増えている。数日前の新聞の投書欄(らん)に、「手抜き(てぬ )のつけ」という見出しがあった。一見しただけで、忸怩(じくじ)たるものをおぼえた。内容は読んでいないのに、思い当たることはあまりに多かった。今の若い者は、と言う前に、そんな若い者に誰(だれ)がした、という声を聞かなければならないと思った。言い逃れ(い のが )や他人の批判ですまされるうちはいい。大きな変化は、ある日突然(とつぜん)には起こらないようである。

(竹西寛子(ひろこ)『朝の公園』による)