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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
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【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】手に触れる(ふ  )ものをすべて金にしてほしい。そう願った王様は、食べるものも、着るものも、すべて金にしてしまい、やがて最愛の娘(むすめ)までも金にしてしまう。ギリシャ神話に出てくるミダス王の話である。【2】豊かな社会を追い求めてきた人類の歴史も、このミダス王に何か似ていないだろうか。強い国を願って作られた核兵器(かくへいき)は、相手を滅ぼす(ほろ  )ばかりか、地球をも滅ぼす(ほろ  )ようになった。豊かな資金運用を願って作られた金融(きんゆう)工学は、その資金の何倍もの返せない借金を生み出した。【3】そしてまた、豊かな社会を作るための経済活動の発展は、環境(かんきょう)破壊(はかい)という人類にとっての新たな貧困を生み出している。私たちは、量を追い求めるあまり、制御(せいぎょ)することの大切さを忘れているのではないか。
 【4】その原因は、第一に、世界の戦後の歴史が、不足からの自由という観念につき動かされてきたからだ。昔話に出てくる意地悪なおばあさんは、必ず大きい箱をもらう。しかし、大きい箱に入っているのはガラクタであり、本当の宝物は小さい箱に入っている。【5】これは、昔の人たちが、大事なのは大きさではないということを、よりよく生きるための知恵(ちえ)として身につけていた証拠(しょうこ)ではないだろうか。不足から過剰(かじょう)へと一直線に進んできた私たちの生活も、今一度先人たちの知恵(ちえ)に立ちかえって見直す必要がある。
 【6】第二の原因は、量の拡大を求める心理には、必ず競い合う他者がいるということである。国と国との関係で言えば、どの国のGDPが世界で第何位かということが、さも重要なことであるかのように論じられることが多い。大事なことは、GDPの額ではなく、その国に住む人が自分たちの生活をどのくらい幸福と感じているかどうかであるはずなのにである。【7】飽食(ほうしょく)のニワトリの群れに飢え(う )たニワトリを入れると、その飢え(う )たニワトリにつられてすべてのニワトリが再びえさを食べ出すという。基準を自分の中に持たず、他者との比較(ひかく)の中に見る私たちも、このニワトリたちと変わらないのではないだろうか。
 【8】確かに、世界にはまだ貧困に苦しむ国も多い。量の問題は、人類全体として考えれば、まだ解決されていない課題だと考える人もいるだろう。しかし、その貧困でさえ、原因のほとんどは政治の貧困であって量の貧困ではないのである。【9】科学者は、長い間量の問題に取り組んできた。しかし、これから求められるのは制御(せいぎょ)の問題である。手に触れる(ふ  )ものが金になるのは素晴らしいことだ。しかし、そのためには、あるものは金にして、あるものは金にしないという制御(せいぎょ)を自分自身でできなければならない。【0】制御(せいぎょ)の問題が解決されたとき、初めて人類は、金と、おいしい食事と、最愛の娘(むすめ)とが両立する、真に豊かな社会を作り出すことができるのである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
 【1】ある書物がよい書物であるか、そうでないかを判断するために、普通(ふつう)私たちがやっていることは誰(だれ)でも類似している。自分が比較的(ひかくてき)得意な項目(こうもく)、自分が体験などを総合してよく考えたこと、あるいは切実に思い患っ(わずら )ていること、などについて、その書物がどう書いているかを、拾って読んでみればよい。【2】よい書物であれば、きっとそういうことについて、よい記述がしてあるから、大体その箇所(かしょ)で、書物の全体を占っ(うらな )てもそれほど見当が外れることはない。
 だが、自分の知識にも、体験にも、まったくかかわりのない書物に行きあたったときは、どう判断すればよいのだろうか。【3】それは、たぶん、書物に含ま(ふく )れている世界によって決められる。優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。その世界は書き手の持っている世界の縮尺のようなものである。【4】この縮尺には書き手が通りすぎてきた「山」や「谷」や、宿泊(しゅくはく)した「土地」や、出会った人や思い患っ(わずら )た痕跡(こんせき)などが、すべて豆粒(まめつぶ)のように小さくなって籠(こ)められている。どんな拡大鏡にかけてもこの「山」や「谷」や「土地」や「人」は目には見えないかもしれない。そう、事実それは見えない。見えない世界が含ま(ふく )れているかどうかを、どうやって知ることができるのだろうか。
 【5】もしひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ち止まって空想させ、また考え込ま(かんが こ )せ、要するにここは文字のひと続きのように見えても、実は広場みたいなところだなと感じさせるものがあったら、それは小さな世界だと考えてよいのではないか。【6】この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手が幾度(いくど)も反復して立ち止まり、また戻り(もど )、また歩き出し、そして思い患っ(わずら )た場所なのだ。彼(かれ)は、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。【7】棒にふるだけの価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく棒にふってしまった。そこには書き手以外の人の影(かげ)も、隣人(りんじん)もいなかった。また、どういう道もついていなかった。行きつ戻り(もど )つしたために、そこだけが踏み(ふ )固められて広場のようになってしまった。【8】実際は広場というようなものではなく、ただの踏み(ふ )溜り(たま )でしかないほど小さな場所で、そこから先に道がついているわけでもない。たぶん、書き手ひとりがやっと腰(こし)を下ろせるくらいの小さな場所にしかすぎない。【9】けれどもそれは世界なのだ。そういう場所に行きあたった読み手は、ひとつひとつの言葉、何行かの文章にわからないところがあっても、書き手をつかまえたことになるのだ。
 私は、なぜ文章を書くようになったかを考えてみる。【0】心の中に奇怪(きかい)な観念が横行してどうしようもなく持て余していた少年の晩期のころ、しゃべることがどうしても他者に通じないという感じに悩まさ(なや  )れた。この思いは、極端(きょくたん)になるばかりであった。この感じは外にもあらわれるようになった。父親は、お前このごろ覇気(はき)がなくなったと言うようになった。過剰(かじょう)な観念をどう扱っ(あつか )てよいかわからず、しゃべることは、自分をあらわしえないということに思い患っ(わずら )ていたので、覇気(はき)がなくなったのは当然であった。われながら青年になりかかるころの素直な言動がないことを認めざるをえなかった。今思えば、「若さ」というものは、まさしくそういうことなのだ。他者にすぐわかるように外に出せる覇気(はき)など、どうせ、たいした覇気(はき)ではない、と断言できるが、そのとき、そう言いきるだけの自信はなかった。そうして、しゃべることへの不信から、書くことを覚えるようになった。それは同時に読むようになったことを意味している。
 私の読書は、出発点で何に向かって読んだのだろうか。たぶん自分自身を探しに出かけるというモチーフで読みはじめたのである。自分の思い患っ(わずら )ていることを代弁してくれていて、しかも、自分の同類のようなものを探しあてたいという願望でいっぱいであった。すると書物の中に、あるときは登場人物として、あるときは書き手として、同類がたくさんいたのである。
 自分の周囲を見わたしても、同類はまったくいないように思われたのに、書物の中では、たくさん同類がみつけられた。そこで、書物を読むことに病みつきになった。深入りするにつれて、読書の毒は全身を冒し(おか )はじめた、と今でも思っている。
 ところで、そういうある時期に、私はふと気がついた。自分の周囲には、あまり自分の同類はみつからないのに、書物の中にはたくさんの同類がみつけられるというのはなぜだろうか。ひとつの答えは書物の書き手になった人間は、自分と同じように周囲に同類はみつからず、また、しゃべることでは他者に通じないという思いに悩まさ(なや  )れた人たちではないのだろうか、ということである。もうひとつの答えは、自分の周囲にいる人たちもみな、実はしゃべることでは他者と疎通(そつう)しないという思いに悩まさ(なや  )れているのではないか。ただ、外からはそう見えないだけではないのか、ということである。後者の答えに思いいたったとき、私は、はっとした。私もまた、周囲の人たちから見ると思いの通じない人間に見えているにちがいない。うかつにも、私は、この時期に初めて、自分の姿を自分の外で見るとどう見えるか、を知った。私は私がわかったと思った。もっとおおげさに言うと、人間がわかったような気がした。もちろん、前者の答えも幾分(いくぶん)かの度合で真実であるにちがいない。しかし、後者の答えの方が私は好きであった。目から鱗(うろこ)が落ちるような体験であった。
 私は、文章を書くことを専門とするようになってからも、できるだけそういう人たちだけの世界に近づかないようにしてきた。つまり、後者の答えを胸の奥(おく)の戒律(かいりつ)としてきた。もし、私が書き手として少しましなところがあるとすれば、私が本当に畏れ(おそ )ている人たちが、他の書き手ではなく、後者の答えによって発見した、自分を自分の外で見るときの自分の凡庸(ぼんよう)さに映った人たちであることだけに基づいている。

(吉本(よしもと)隆明(たかあき)『詩的乾坤(けんこん)』による)