未ログイン ログイン
音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
※最初にログインをしてください。言葉の森の団体コードは、aaa001です。
※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
2.はじめに、音声入力を始めるのボタンを押してください。
3.音読が終わったら音声入力を止めるのボタンを押してください。
4.音声入力を止めたあと、結果を送信するのボタンを押してください。



 【1】私たちは旅、未知と偶然(ぐうぜん)の要素を多く含ん(ふく )だ旅に出るとき、どこかへ行きたいとか、なにかを調べたいとかなどといった、なんらかの意味で目的をもった自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じる。【2】それは一抹(いちまつ)の不安をまじえた心の華やぎ(はな  )であり、それによって旅への出立というものに、独特の感情の色づけがなされる。「いい日旅立ち」などという国鉄の広告もあったが――多分これは「思い立ったが吉日(きちじつ)」という昔からある諺(ことわざ)にヒントをえたものであろう――【3】旅への出立がすぐれて演劇性あるいは祝祭性をもちうるのは、そのような感情の色づけのためであろう。旅立ちの場所である駅やプラット・フォームや空港が現代生活のなかでは珍しく(めずら  )濃密(のうみつ)な意味場を形づくり、そこに毎日多くの小さな――ときには大きな――ドラマや祝祭が見られるのは、誰(だれ)でもよく知っているところだ。
 【4】旅立ちに際したときのこのような心の不思議な在り様を巧み(たく )に捉え(とら )て、私たちの先人の一人は、次のように書いた。「春立てる霞(かすみ)の空に、白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、云々(うんぬん)」(松尾(まつお)芭蕉(ばしょう)『おくのほそ道』)【5】あまりにも有名な文章であるが、この「そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて」(そぞろ神が物=霊(れい)にとり憑()いたためもの狂わしく(くる   )なり、道祖神にさそわれて)ということばには、旅が日常性をこえた異次元への飛翔(ひしょう)ともいうべき側面をもっていることがよく示されている。(中略)
 【6】日常の惰性(だせい)的な生活のなかで閉ざされた私たちの心を、旅は開かれた、予感にみちたものにする。と同時にそれだけ、旅において私たちは行くさきざきの不安にも敏感(びんかん)になる。その点についても芭蕉(ばしょう)は見落していない。【7】「前途(ぜんと)三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別(りべつ)の泪(なみだ)をそそぐ。行春や鳥啼き(な )魚の目は泪(なみだ)、云々(うんぬん)。」ことで「幻(まぼろし)のちまた」とは「俗(ぞく)ニ夢ノ世ト云(いふ)ガ如()ク、人生ノハカナキヲ喩(たと)フ」と注釈(ちゅうしゃく)本(『奥細道管菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)』)にある。【8】ふだんの安穏(あんのん)無事な生活のなかでよりも、ひとは旅に際してわが身を見つめるようになるのである。いまでは旅に際しての別離(べつり)も昔ほど深刻なものではなくなったけれど、それでもそこにはひそかに私たちを脅かす(おびや  )ものがある。
 【9】旅は私たちの心を開かれた予感にみちたものにする、といった。しかしそれは、旅に出かけるとき、旅立ちに際してだけのことではなくて、およそ旅をしているかぎり、いつでもいえることである。【0】これは誰(だれ)でも経験していることだけれど、旅先で見たものや聞いたものは、しばしば私たちに新鮮(しんせん)なおどろきを与え(あた )、旅先で出会った出来事はしばしば私たちにつよい感動を与える(あた  )。旅に出るとひとは誰(だれ)でも「芸術家」になり「詩人」になるといわれるのも、そのことを指している。
 この場合「芸術家」になり「詩人」になるというのは、なにか特別な力を新しく手に入れることではないだろう。それはむしろ、人間がもともと持っているいきいきとした感受性をとりもどすことである。ふだんの生活、日常生活の惰性(だせい)から自己を解き放つことなのである。「日々新たなり」という人間的生の在り様は、日常生活のなかでもむろん言えることであり、本来私たちはそういうものとして毎日を迎え(むか )なければならないのだが、実際にはそれはたいへん難しい。
 ところが旅では――未知と偶然(ぐうぜん)の要素を多く含ん(ふく )だ旅では――日々は私たちにとって新たならざるをえない。そして日々新たであるなかで、よりつよく私たちの好奇(こうき)心は突き(つ )動かされ、働くようになる。ふつう「好奇(こうき)心」などというと、あまりいい意味にとられない場合が多い。なにか面白いことはないかと知らなくてもいいことまでむやみに穿鑿(せんさく)する心、あるいはもの好きといったような意味に解されている。けれども好奇(こうき)心とは、私たち人間の知的活動の根源をなす情熱、つまり知的情熱にほかならない。
 好奇(こうき)心というとあまりいい意味にとられない、といった。しかし実はそれ以前の、情熱(情念、パトス)そのものが、これまで一般(いっぱん)に永い間、はしたないものとされてきたという事情がある。情熱は人間の心の平静を乱し、人間を真理から遠ざけるものだとされてきた。しかしそのような見方はきわめて一面的なものでしかない。『百科全書』の編者として知られるディドロ(『哲学(てつがく)的思索(しさく)』)が、その点でたいへん適切なことを言っていたのを思い出す。
 すなわち、ひとは情念(情熱)の悪い面ばかりを見て、むやみに情念を排斥(はいせき)する。しかし情念は、一方であらゆる苦悩(くのう)の源であるだけでなく、同時に他方では、あらゆるよろこびの源泉でもある。偉大(いだい)な情念によってはじめて、人間の魂(たましい)は偉大(いだい)なものごとに到達(とうたつ)しうるのだ。これに反して控え目(ひか め)な感情は凡庸(ぼんよう)な人間をつくり、弱々しい感情はもっともすぐれた人間をも台なしにしてしまう。
(中略)
 控え目(ひか め)な感情は凡庸(ぼんよう)な人間をつくり、ひとは小心翼々(しょうしんよくよく)としていると創造的でありえなくなる。これは行きすぎた抑制(よくせい)や禁欲的態度がおちいりやすい陥穽(かんせい)を示している重要な指摘(してき)である。いうまでもなくそれは、詩・絵画・音楽といった狭い(せま )意味での芸術にかかわるだけではなく、もっと広い人間の知的活動や精神的活動にもかかわっている。だから、たとえどんな小さなことにせよ、日に日に発見や創造のよろこびをもって生きていくためには、通常考えられているより以上に、知的情熱としての好奇(こうき)心をいきいきと保っておかなければならないのである。ところで、知的情熱としての好奇(こうき)心とは、とくに、私たちが世界や自然やものごとに向けるつよい関心のことである。そして、知識よりもなによりも関心(インタレスト)こそがあらゆる文化や学問の原動力であると言えそうだ。関心こそが知を拓く(ひら )のである。

(中村雄二郎(ゆうじろう)他『知の旅への誘い(さそ )』による)