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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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 【1】もう一つの体験は、彼(かれ)の目の前で起きたイスラーム教徒の殺人であった。センが住んでいた地域一帯でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の暴力的な抗争(こうそう)が激化している中、イスラーム教徒の日雇い(ひやと )労働者だったその男は仕事をなくし、家にあった食べ物も底をつき、家族は飢え(う )ていた。【2】それでやむをえず、彼(かれ)はわずかな報酬(ほうしゅう)と引き替え(ひ か )に薪(たきぎ)をとどけるため、抗争(こうそう)のまっただ中をヒンドゥー教徒の居住する地区に出てきたのだった。【3】通りでヒンドゥー教の暴徒に背中を刺さ(さ )れたその男は、センの家に助けを求めて転がり込ん(ころ  こ )できたのだが、結局病院に運ばれる途中(とちゅう)で死んでしまったという。
 【4】ここでもまた「出来事」はそれだけで十分に悲惨(ひさん)だ。しかし単なる悲劇ということをこえて、同じ暴力的抗争(こうそう)という事態の中で、なぜイスラーム教徒だけが仕事を失うことになったのか、なぜ彼(かれ)が危険を冒さ(おか )なければならないような状況(じょうきょう)に陥っ(おちい )たのかということを考えれば、【5】たとえ暴力的抗争(こうそう)という特別な事態でなくても、日頃(ひごろ)からイスラーム教徒がヒンドゥー教徒に比べて不安定な職にしか就いておらず、何かあれば職を失いやすいような境遇(きょうぐう)にあったという社会的状況(じょうきょう)が見えてきただろう。【6】先の飢饉(ききん)の場合と同じように、同じ境遇(きょうぐう)や条件の中であってもそこには変化に対して影響(えいきょう)を受けやすい「誰(だれ)か」がいるのであり、いったん社会的な変動が起これば、その「誰(だれ)か」が真っ先に被害(ひがい)を被る(こうむ )ことになる。【7】そしてその「誰(だれ)か」は、決してでたらめに出てくるのではない。特定の地域の人々やなんらかの職業集団といったかたちでまとまって、以前からそこにあった社会的条件と関係しながら、そのような人々が「選びだされて」いってしまう。【8】飢饉(ききん)だからといって皆(みな)が飢える(う  )わけではなく、暴動だからといって誰(だれ)もが殺されるわけでもなく、このように同じ状況(じょうきょう)下にあるからといって、誰(だれ)にでも同じように惨禍(さんか)がふりかかるわけではないのだ。
 【9】飢饉(ききん)や飢餓(きが)が、直接食糧(しょくりょう)の不足によって引き起こされるのではなく、また暴力的抗争(こうそう)の中で殺されたり傷つけられたりするといったことが、単純に出来事の「暴力性」からくるのではないというのであれば、そこにセンが語るように「社会的なもの」のはたらきを探ることができる。
 【0】たとえば、身体的なハンディキャップというものを考えてみると分かりやすいかもしれない。同じものをもっていても、同じ条件のもとで生活していても、身体的にハンディがあれば他の人と「同じように」それを利用することはできないし、災害などに見舞わ(みま )れれば、真っ先に不利な状況(じょうきょう)におかれるのはこのような人たちだ。しかし、もう少し見えにくい社会的なハンディキャップといえるものもある。イスラーム教徒だというだけで職を失ってしまった男などはその例だろうし、また「外国人出稼ぎ(でかせ )労働者」として異国で生活しなければならない人たちの多くは、「権利」や「法」という点で仮に百歩譲っ(ゆず )て平等だとしても、普通(ふつう)はその権利を行使できたり、法を持ち出してものごとを要求したりすることができるような立場にはいない。ドイツに出稼ぎ(でかせ )に行ったあるトルコ人は、カフェに入って、ようやく覚えた言いかたで「コーヒーを下さい」と言ったけれど、コーヒーは出てこないで「おまえの来るところではない」という視線を向けられただけだったと語っているが、コーヒーくらいならともかく、これが食糧(しょくりょう)不足とでもなろうものなら、真っ先に食べ物を売ってもらえなくなるのはこのような人たちということになるだろう。こうして彼ら(かれ )は「被害(ひがい)を受けやすく」なってしまうのだ。そして、このようなハンディは「もの」の量や、「権利」や「法」の平等だけでなんとかなるというものではない、きわめて社会的かつ文化的なものなのである。

(岡本(おかもと)真佐子(まさこ)「開発と文化」より)