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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
1.音読する文章が2つある場合は、最初の方の文章を音読してください。
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 【1】人間以外の動物は普通(ふつう)「本能」の赴く(おもむ )ままに行動するとき、そこに迷いや不安はない。彼ら(かれ )にとっては、世界は予め秩序(ちつじょ)を与え(あた )られているのであって、自らがそれを創り出す必要がないからである。つまり、選択(せんたく)の余地がないのである。【2】それに対して人間は、そのような「本能」の導きを失い、従って、混沌(こんとん)と化した世界に対して、素手で働きかけることができず、文化という装置を創り出すことによって、再び秩序(ちつじょ)をとり戻し(もど )てきたのである。【3】人間がしばしば、文化を持った生物と呼ばれる理由はそこにある。
 何故人間のみが、そのような特異な生物への「進化」の道を歩んだのかということは、それ自体非常に興味のある問題であるが、ここでは本題に外れるので触れ(ふ )ない。【4】その代わりに、文化を持った生物となってしまった人間が、環境(かんきょう)の変化に対して、他の種のように何世代にもわたって徐々に(じょじょ )自らを変えて、その変化に適応するということをせず、自らが創り出した文化という装置を操作することによって適応してきたということが、どのような意味を持つようになったかということを考えてゆきたい。
 【5】今述べたように、あるがままの混沌(こんとん)の世界に対して、文化という装置によって秩序(ちつじょ)を回復する試みが行なわれ、それによって、人間は世界を解釈(かいしゃく)することができるようになるのであるが、その解釈(かいしゃく)が有効であるためには、集団の成員によるその承認を必要とする。【6】つまり、文化が文化として機能するためには、社会制度化されなければならないのである。ところが、このような社会制度化された文化が、一旦(いったん)成立すると、今度はその文化そのものが、人間にとって、いわば第二の自然として、人間の行動を規制してくることになる。【7】したがって、「文化」はもともと「自然」と対立する概念(がいねん)ではあるが、人間は文化の枠内(わくない)でしか行動しえないものであってみれば、ある意味では文化=自然という関係が成立してくるとさえ言えるのである。
 (中略)
 【8】人間は客観的世界にのみに生きているのでもないし、通常理解されているような社会的活動の世界にのみ生きているのでもなく、その社会の表現手段となっている特定の言語に強い影響(えいきょう)を受けているのである。【9】本来言語を使わないで現実に適応できると考えたり、言語をコミュニケーションや、内省の特定の問題を解くための偶然(ぐうぜん)の手段であると考えるのは全くの幻想(げんそう)にすぎない。【0】事実は、「現実世界」というのは、かなりの程度まで、その言語使用者の集団の言語習慣の上に無意識に築かれているのである。どの二つの言語をとってみても、同じ社会的現実を表わしていると考えられる程似た言語はないのである。異なる社会が生きている世界は別の世界であり、単に異なるレッテルが付けられた同一の世界ではないのである。
 すなわち、われわれは全人類が例外なく持っている言語という文化装置(記号体系)を通してしか現実を構成することができないのであり、したがって、それぞれの言語という記号体系が異なれば、見えてくる世界も違っ(ちが )たものになってくるのである。このことは、あるものをそれとして認識できるのは、普通(ふつう)、それに名称(めいしょう)が与え(あた )られている場合であることを考えても、容易に想像されるだろう。それまでは何気なく見過ごしてきた路傍(ろぼう)の花が、その名称(めいしょう)を知ることによって、急にいきいきとした存在感を持って知覚されてくることは誰(だれ)でも経験したに違い(ちが )ない。つまり、名称(めいしょう)という記号表現を与え(あた )られて初めて、その花はわれわれに意味を待った存在として現われてくるのである。繰り返し(く かえ )て言うと、文化という装置は、もともと自然の混沌(こんとん)に秩序(ちつじょ)を与える(あた  )ために、人間が集団としてある意味では恣意(しい)的に創り出した記号体系であるが、一旦(いったん)できあがるとそれは自立性を獲得(かくとく)し、逆にその創造者を呪縛(じゅばく)するようになるのである。このようにして、人間はもはや文化という装置なしでは生きていけない存在になってしまったのである。
 文化をこのように、人間が集団として恣意(しい)的に創り出した記号体系として捉える(とら  )ならば、各文化間の相違(そうい)が現われてくるのは当然であるが、それのみでなく、その分節がある意味では恣意(しい)的でありうるが故に、文化の行なう秩序(ちつじょ)化(=分類)からはみ出してくる部分が出てくるのは想像に難くない。そのはみ出した部分をそのままにしておくことは、秩序(ちつじょ)の破壊(はかい)につながってくるため、文化にとっては危険な存在になる。そのため、文化は、そのはみ出した部分を、消極的には「見えないもの」(インビジブル)として、積極的には禁忌(きんき)(タブー)として抑圧(よくあつ)する必要があるのである。
 (池上嘉彦()・山中桂一()・唐()須()教光「文化記号論」より)