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音読の丘
 音読で、読む力、書く力が育つ。
 オンドリくんの 音読の丘
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※音読の丘は、家庭での音読の練習用として使ってください。
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【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】住空間をきれいにするには、できるだけ空間から物をなくすことが肝要(かんよう)ではないだろうか。ものを所有することが豊かであると、僕ら(ぼく )はいつの間にか考えるようになった。
 【2】高度成長の頃(ころ)の三種の神器は、テレビ、冷蔵庫、洗濯(せんたく)機、その次は自動車とルームクーラーとカラーテレビ。戦後の飢餓(きが)状態を経た日本人は、いつしか、ものを率先して所有することで豊かさや充足(じゅうそく)感を噛み締める(か し  )ようになっていたのかもしれない。【3】しかし、考えてみると、快適さとは、溢れ(あふ )かえるほどのものに囲まれていることではない。むしろ、ものを最小限に始末した方が快適なのである。何もないという簡潔さこそ、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床(おんしょう)であると、日本人はその歴史を通して、達観したはずである。
 【4】慈照寺(じしょうじ)の同仁斎(じんさい)にしても、桂(かつら)の離宮(りきゅう)にしても、空っぽだから清々しいのであって、ごちゃごちゃと雑貨やら用度品やらで溢れ(あふ )ているとしたなら、目も当てられない。【5】洗練を経た居住空間は、簡素にしつらえられ、実際にこの空間に居る時も、ものを少なくすっきりと用いていたはずである。用のないものは、どんなに立派でも蔵や納戸に収納し、実際に使うときだけ取り出してくる。それが、日本的な暮らしの作法であったはずだ。
 【6】ものにはそのひとつひとつに生産の過程があり、マーケティングのプロセスがある。石油や鉄鉱石のような資源の採掘(さいくつ)に始まる遠大なものづくりの端緒(たんしょ)に遡っ(さかのぼ )て、ものは計画され、修正され、実施(じっし)されて世にかたちをなしてくる。【7】さらに広告やプロモーションが流通の後押し(あとお )を受けて、それらは人々の暮らしのそれぞれの場所にたどり着く。そこにどれほどのエネルギーが消費されることだろう。その大半が、なくてもいいような、雑駁(ざっぱく)とした物品であるとしたらどうだろうか。【8】資源も、創造も、輸送も、電波も、チラシも、コマーシャルも、それらの大半が、暮らしに濁り(にご )を与える(あた  )だけの結果しかもたらしていないとするならば、これほど虚しい(むな  )ことはない。
 【9】無駄(むだ)な物を捨てて暮らしを簡潔にするということは、家具や調度、生活用具を味わうための背景をつくるということである。芸術作品でなくとも、あらゆる道具には相応の美しさがある。【0】何の変哲(へんてつ)もないグラスでも、しかるべき氷を入れてウイスキーを注げば、めくるめく琥珀(こはく)色がそこに現れる。霜(しも)の付いたグラスを優雅(ゆうが)な紙敷(かみしき)の上にぴしりと置ける片付いたテーブルがひとつあれば、グラスは途端(とたん)に魅力(みりょく)を増す。逆に、漆器(しっき)が艶(つや)やかな漆黒(しっこく)をたたえて、陰影(いんえい)を礼賛する準備ができていたとしても、ものが溢れ(あふ )かえっているダイニングではその風情を味わうことは難しい。
 持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。何もないテーブルの上に箸置き(はしお )を配する。そこに箸(はし)がぴしりと決まったら、暮らしは既に(すで )豊かなのである。
 (原研哉()「持たないという豊かさ」より)
 【1】島国言語の特色のひとつは、相手に対する思いやりが行き届いていることである。ヨーロッパの言語では、われとなんじ、自と他の対立関係において言語活動が考えられるが、島国言語の日本語ではそういう対立関係はあまり発達しない。【2】そのかわり第一人称(だいいちにんしょう)にいろいろな形態ができている。「私ども」とか「手前ども」のように、第一人称(だいいちにんしょう)の単数か複数かはっきりしないような用法があり、それが何とも言えない味わいをもって受けとられる。
 【3】ヨーロッパの言語や文法の考えになれた人たちから見ると、いかにも不明瞭(ふめいりょう)である。もうすこしはっきりさせた方がいいのではないか。どうして、日本語の主語が不安定なのであろう。そういう感想がもたれ、それがやがて日本語は論理的ではないのではないかという疑いに結びついて行く。
 【4】日本語の人称(にんしょう)をあらわす語は、きわめて多様で、第一人称(だいいちにんしょう)など五つ六つがすぐ頭に浮かん(う  )でくる。日常使っている第一人称(だいいちにんしょう)でも、二つや三つは使い分けている。相手との心理的距離(きょり)、関係にしっくり合うような人称(にんしょう)語を使うことが必要だという意識がつよいからであろう。【5】対人関係の微(び)調整の感覚が発達しているのだとも言える。(ここまで、島国言語という表現を何のことわりもなしに用いてきたが、大陸言語にくらべて劣っ(おと )ているといった含蓄(がんちく)はまったくない。島国、大陸は地理的条件を示すものであって、島国的な母国根性といったものと結びつく形容詞ではないつもりである。以上、念のため。)
 【6】島国言語のもうひとつの特質は、話の通じがたいへんよいということである。ツーといえばカーとくる。お互いに( たが  )野暮な人間はいない、あるいは、いないはずだという前提に立っている。通人同士のコミュニケイションだということである。【7】通人というと何か古くさい感じがするが、伝達理解に必要な情報をもっている人間はすべて通人である。したがって、われわれはだれでもある場面では通人としての言語活動をしているのである。その典型は家族間の会話である。【8】省略の多い、要点のみをおさえた言葉のやりとりをしていて、お互い( たが )に理解し合っている。通人同士だからである。
 家族の会話というのは、どんな大陸言語の性格のつよい社会でも通人的、したがって島国言語的なものである。【9】ただ、日本語は、普通(ふつう)は家族の間で行われるような言語活動の様式が親密な集団の範囲(はんい)をこえて広く認められるのである。
 それでは島国言語がなぜ通人社会になるのか。家族の会話が第三者にはまるで判じもののようなやりとりをしておりながらなぜ意思の疎通(そつう)ができるのか。【0】そういうことが問題になるであろう。
 言語には冗語(じょうご)性というものがある。ひと口にいうと言葉の中に含ま(ふく )れる必要な蛇足(だそく)である。どんな言語でも必要にして充分(じゅうぶん)なことだけしか表現していないことはあり得ない。百が必要量だとすると、表現は百五十も百八十もの情報をもっている。だから、受け手はその中から百だけを理解すればよい。残りの部分は蛇足(だそく)であるが、これがないと相手の言っていることが中途(ちゅうと)でわからなくなったりする危険がある。(中略)
 このように、時と場合によって、蛇足(だそく)の部分をふやしたり、減らしたりということをほとんど無意識に行っている。相手の耳に達するまでにロスが多いと思えば冗語(じょうご)性を高めるし、確実に伝わる自信をもっているときには、低音で話したり、省略の多い表現をとったりして冗語(じょうご)性をすくなくする。冗語(じょうご)性のすくない典型的なケースがすでにのべた家族間の話である。
 日本語は島国言語である。島国言語というのは極端(きょくたん)な言い方をすると、家族同士の会話を社会全体でもやっているような言語のことで、当然、冗語(じょうご)性はすくなくてよい。島国言語の社会で冗語(じょうご)性がすこし普通(ふつう)より高くなると、すぐ、くどいとかうるさいとか理屈っぽい(りくつ   )、野暮というような消極的反応を誘発(ゆうはつ)する。通人の社会である。大人はなるべく冗語(じょうご)性のすくない言葉を用いるように知らず知らず傾い(かたむ )ている。
 大陸言語の社会では冗語(じょうご)性をあまりすくなくすると、ごく親密な関係の人との間ならともかく、相手に誤解されたり、了解(りょうかい)不能を訴え(うった )られたりするから、ていねいな表現をしなくてはならない。ヨーロッパ語の中でもドイツ語がいちばん冗語(じょうご)性が高いということであるが、われわれがドイツ語を論理的で何となく理屈っぽい(りくつ   )と感じているのはこの冗語(じょうご)性の高さと無関係ではないように思われる。
(外山滋比古(とやましげひこ)「日本語の論理」より)