長文 2.1週
1.【二番目の長文が課題の長文です。】
2. 【1】私たちはよくテイストという言葉を使います。好みといったような意味ですが、世間一般いっぱんの言い方に従えば「センス」という言葉に近い意味に使っています。センスとは何かといえば「違いちが を見分ける才能」だと思います。
3. 【2】AとB、二つの選択肢せんたくしがあるとき、見た目はまったく変わらない。あるいはどうみてもAのほうがよさそうにみえる。そういうときでも背後に潜むひそ 微妙びみょう違いちが のようなものを感知して、「Bがいい」というのがセンスです。いずれにしろ極上のセンスが常識的であることはめったにありません。
4. 【3】あるいはカンといわれるもの。これもセンスの一つです。勝負カンのある人は勝負センスがいい。いずれにしろ科学者はテイストがよくないと、なかなかよい業績が上げられません。「科学者の成否はテイストで決まる」という人もいるくらいです。
5. 【4】私自身は、自分が「テイストがいい」と胸を張っていうほどの自信はありませんが、ときにわれながら「いいのではないか」とうぬぼれることもあります。パスツール研究所とツバ競り合いをしていたときのことです。
6. 【5】こちらがまだ遺伝子の解読に着手もできないでいるのに、パスツールがすでに八割がた終わるところまで進んでいたことは前述しました。あのとき実はもっとすごいことになっていたのです。
7. 【6】パリからドイツに飛んだ私はハイデルベルク大学の友人を訪ね、話を聞いてみると、パスツールだけではなくアメリカのハーバード大学でも同じテーマでやっていることがわかりました。おまけに「うちもやってるよ」とハイデルベルクの友人にもいわれました。【7】進み具合を探ってみると、私たちよりはるかに進んでいる様子。パスツール、ハーバード、ハイデルベルクと並んだら、この世界では横綱よこづな、大関クラス。こっちは十両からやっと幕内に上がったくらいなのです。
8. 【8】こうなると、もう絶望的です。そういう状況じょうきょう下で中西重忠先生に出会い、先生の協力を得たのですが、そのときのことをもう少し詳しくくわ  話しますと、中西先生は私の知らないあることを教えてくれたのです。∵
9.【9】「実は遺伝子暗号というのは九分九厘くぶくりん読めても、最後でつまずくことがあるんですよ。それにいまさらパスツールがヒトだからって、こっちがサルでやってどうするんです。絶対あきらめないでやるべきです。なんなら私の研究室で……」ということだったのです。【0】
10. 問題はこの瞬間しゅんかんです。このとき私が「そういっていただくのはうれしいのですが、ここは潔く撤退てったいして……」と断っていたら、それでおしまいでした。私はそのときどう思ったか。いま考えると不思議ですが、中西先生の応援おうえんを得たことで「天の味方がついた。これで勝った!」と直感したのでした。冷静に考えれば、不利なはずの選択肢せんたくしをそのとき選んでいたことになります。
11. そして私は大急ぎで帰国し、それまでいくらやってもダメだったヒト・レニン遺伝子の取り出しに成功しました。これは中西研究室のおかげでした。
12. そうなるとみんなの目の色が違っちが てきます。筑波つくばから京都に移った大学院生たちは下宿にも帰らず、昼夜兼行けんこうで研究に没頭ぼっとう。一種の興奮状態のなかで、三カ月で一挙に暗号を読み切ってしまったのです。
13. 世界初のヒト・レニンの遺伝子暗号解読は、大学院生の不眠ふみん不休の努力とハイデルベルクの酒場で私が九九%の負け戦を「勝った!」と思ったことにあるのです。遺伝子ONの世界が火事場のバカ力のように出てきた例といえるでしょう。∵
14. 【1】経験界で出合うあらゆる事物、あらゆる事象について、その「本質」を捉えよとら  うとする、ほとんど本能的とでもいっていいような内的性向が人間だれにでもある。【2】これを本質追求とか本質探究とかいうと、ことごとしくなって、何か特別のことでもあるかのように響くひび けれど、考えてみれば、われわれの日常的意識の働きそのものが、実は大抵たいていの場合、様々な事物事象の「本質」認知の上に成り立っているのだ。【3】日常的意識、すなわち感覚、知覚、意志、欲望、思惟しいなどからなるわれわれの表層意識の構造自体の中に、それの最も基礎きそ的な部分としてそれは組み込まく こ れている。
15. 【4】意識とは本来的に「……の意識」だというが、この意識本来の志向性なるものは、意識がだつ目的に向かっていく「……」(X)の「本質」をなんらかの形で把捉はそくしていなければ現成しない。【5】たとえその「本質」把捉はそくが、どれほど漠然とばくぜん した、取りとめのない、いわば気分的な了解りょうかいのようなものであるにすぎないにしても、である。意識を「……の意識」として成立させる基底としての原初的存在分節の意味論的構造そのものがそういうふうに出来ているのだ。
16. 【6】Xを「花」と呼ぶ、あるいは「花」という語をそれに適用する。それができるためには、何はともあれ、Xがなんであるかということ、すなわちXの「本質」が捉えとら られていなければならない。【7】Xを花という語で指示し、Yを石という語で指示して、XとYを言語的に、つまり意識現象として、区別することができるためには、初次的に、少くとも素朴そぼくな形で、花と石それぞれの「本質」が了解りょうかいされていなければならない。【8】そうでなければ、花はあくまで花、石はどこまでも石、というふうに同一律的にXとYとを同定することはできない。
17. ぜん者のいわゆる(第一次的)「山はこれ山、水はこれ水」とは、このような「本質」から成り立つ世界。無数の「本質」によって様々に区切られ、複雑に聯関れんかんし合う「本質」の網目あみめを通して分節的に眺めなが られた世界。【9】そしてそれがすなわちわれわれの日常的世界なのであり、また主体的には、現実をそのような形でみるわれわれの日常的意識、表層意識の本源的なあり方でもある。意識をもし表層意識だけに限って考えるなら、意識とは事物事象の「本質」を、∵コトバの意味機能の指示に従いながら把捉はそくするところに生起する内的状態であるといわなければなるまい。【0】表層意識の根本的構造を規定するものとしての志向性には、「本質」の無反省的あるいは前反省的――ほとんど本能的とでもいえるかもしれない――把握はあくが常に先行する。この先行がなければ、「……の意識」としての意識は成立し得ないのである。…(中略)…意識がXに向って滑り出しすべ だ て行く、その初動の瞬間しゅんかんにおいて、Xはすでに何かであるのだ。そしてXを何かであるものとして把握はあくすることは、すなわちXの原初的定義であり、最も素朴そぼくな形における「本質」把握はあく以外の何ものでもない。もしこのような原初的「本質」把握はあくもなしにただやみくもに「外」に出て行けば、たちまちあの「ねばねばした」目も鼻もない不気味な「存在」の混沌こんとん泥沼どろぬまの中にのめり込ん   こ で、「嘔吐おうと」を催すもよお ほかはないだろう。そして、そうなればもう、「……の意識」などかげも形もなくなってしまうだろう。「存在」の深淵しんえん垣間見るかいまみ 嘔吐おうと的体験を描くえが とき、サルトルが、この「存在」啓示けいじの直前の状態として言語脱落だつらくを語っていることは興味深い。
18. 「ついさっき私は公園にいた」とサルトルは語り出す。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっ  さ  ていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒ふちょうの線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしいおそ   かたまりりに面と向かって坐っすわ ていた。」
19. 絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出して行く人間意識の働きとの関係をこれほど見事に形象化した文章を私は他に知らない。コトバはここではその本源的意味作用、すなわち「本質」喚起かんき的な分節作用において捉えとら られている。コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪いうすきみわる かたまりり」でしかない「存在」にいろいろな符牒ふちょうを付けて∵事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。老子的な言い方をすれば、無(すなわち「無名」)がいろいろな名前を得て有(すなわち「有名」)に転成するということである。しかし前にもちょっと書いたとおり、およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落だつらくとは、「本質」脱落だつらくを意味する。そして、こうしてコトバが脱落だつらくし「本質」が脱落だつらくしてしまえば、当然、どこにも裂け目さ めのない「存在」そのものだけが残る。「忽ちたちま 一挙にとばり裂けさ て」「ぶよぶよした、奇怪きかい無秩序むちつじょかたまりりが、恐ろしいおそ   淫らみだ な(存在の)はだか見」のまま怪物かいぶつのように現われてくる。それが「嘔吐おうと」を惹きひ 起こすのだ。
20. 「嘔吐おうと」体験のこの生々しい描写びょうしゃは「本質」なるものが人間の意識にとってどれほど大切なものであるかということを示している。志向性を本性とする意識は「本質」脱落だつらくに直面して途方とほうに暮れる。己れの外に「本質」、あるいは「本質」的なもの、を見なければ、意識は志向すべきところを失う。しかし、志向すべきところを全くもたない意識は、意識としての自らを否定するほかはない。こうして「……の意識」としての意識は、一時的あるいは永続的に、収拾すべからざる混乱状態、一種の病的状態に陥るおちい のである。

21.(井筒いづつ俊彦としひこ「意識と本質」による)